私のひとこと 障がいがあるアスリートの脳が見せる人間の未知なる可能性 東京大学・大学院総合文化研究科・教養学部教授 中澤公孝 はじめに  私は研究者としてのキャリアを国立障害者リハビリテーションセンターの研究所で開始し、以後18年間、障がいがある人の機能回復を目ざす研究に従事しました。2009(平成21)年より現在の職場に異動し、それからは少し視野を広げ、リハビリだけではなく、スポーツの運動技術なども研究対象として、運動障害から機能回復につながる神経の働きや高度な運動技術を実現する脳の働きなどを調べるようになりました。その過程で偶然出会ったのが、今回のテーマである障がいがあるアスリートの脳です。  国立障害者リハビリテーションセンター時代の私の研究は、例えば交通事故などで脊髄を損傷し、半身不随のため車いす生活になった人たちの失われた機能(脊髄損傷の場合は多くが歩行機能)を取り戻すことを最大の目的としていました。つまり失われたものを取り戻すことを目ざした研究をしていたといえます。これに対して、障がいがあるアスリートの脳の研究は、障がいによって失われたものから、残っているものに目を転じる機会を与えてくれることとなりました。  そもそもアスリートの目標はパフォーマンスを最大化すること、つまり記録を伸ばすこと、勝負に勝つことにあります。これに対してリハビリテーションでは機能の回復が最終的な目標となり、アスリートの目標とは最初から異なっています。  しかし、どちらも身体のトレーニングによって目標に迫ろうとしている点は共通します。私たちが障がいがあるアスリートを対象とした研究で発見したのは、彼ら彼女らの脳が日々のトレーニングの結果、大きく変化しているということでした。この変化のことを「脳の再編成」と呼んでいますが、この再編成の仕方は競技や障がいの特性によってさまざまに異なっていました。  しかもいずれも驚くほど大きな再編成であり、オリンピックアスリートに代表される障がいがないアスリートには見られないレベルの再編成でした。そのなかの例を二つ、紹介しましょう。 義足の走り幅跳び選手  若いころにスポーツ中の事故で右足の一部を切断し、それから義足の走り幅跳び選手になったドイツのマルクス・レームの例をご紹介します。  彼はオリンピックに出ても優勝候補になるぐらいの記録を打ち立てていて、パラリンピックでは三大会連続で金メダルを獲っている世界チャンピオンです。  彼の脳をMRIを使って調べたところ驚くことがわかりました。それは、彼が義足側の膝を動かすとき、普通はその反対側の脳、彼の場合、右側が義足なので左の脳が単独で義足側の膝を動かすのですが、計測結果は左右両方の脳で動かしていることを示していたのです。しかも義足に直結している膝を動かすときにのみ両側の脳が使われていて、義足ではない方の足を動かすときは片方の脳が単独で動かしており、障がいがない人と同様でした。つまり彼は義足を両方の脳で動かしているということがわかったのです。  このような脳の使い方は、彼の高度な義足操作技術と関係していることが予想されます。彼は走り幅跳びのときに高速で助走し、最後に踏切板に絶妙の角度でアプローチし跳ね上がる技術を持っています。これはきわめてむずかしい技術であって、世界屈指の技術といって間違いないでしょう。彼がこの競技で飛び抜けて強いことを裏打ちするものです。これはたゆまぬ努力の賜物であって、日々のトレーニングなくして手に入れることができない技術に違いありません。この技術を獲得する過程で、彼の脳は義足を、義足と反対側の脳が単独で操作するという一般的な方法ではなく、両方の脳で動かすという特殊な方法を採用したものと思われます。彼の高度な義足操作技術の背後にはきわめて特殊な脳の働きがあったのです。 脊髄損傷者の腕の機能  パラリンピック競技のなかにパワーリフティングという競技があります。これは脚に障がいがある人のベンチプレスで、どれだけ重いバーベルを持ち上げることができるかを競う競技です。じつはその記録が障がいがないアスリートより障がいがあるアスリートの方が優れていることが知られていて、その秘密を探るべく研究を始めました。すると研究開始前にはまったく予想しなかったことがわかってきました。それはパワーリフターの多くが脊髄損傷者なのですが、脊髄損傷のなかでも重い障がいが残る完全損傷の方の腕の操作能力が際立って高いことがわかったのです。  前述したように私は長く、脊髄損傷の方の歩行能力回復のための研究を行ってきましたが、腕の方にはほとんど注目していませんでした。それがパワーリフターの研究をきっかけに、腕を操作する能力について調べることになり、思わぬ発見につながったのです。まさに失われた機能の研究ではなく、残っている機能の研究によって、脊髄完全損傷者の腕の操作能力が障がいがない人に比べてずっと高く、それに関連する脳の再編も大きく生じていることがわかったのでした。  障がいというと何かネガティブなイメージであって、何かを失っているとのイメージを描きがちですが、この発見は障がいはネガティブな側面だけではなく、それをきっかけに残っている機能が障がいがない人以上になることすらあるというポジティブな側面もあることに気づかせてくれました。パラリンピックの創始者とも称されるルードウィヒ・グッドマン博士がかつていったという失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ≠ニの言葉を、あらためて思い出させます。  また、いわゆる手作業の仕事において、車いす使用者が障がいがない人より作業効率が高いと作業現場ではいわれているとの話も聞いたことがあり、今回の発見はこの話の信憑性を高める事実のようにも思いました。 おわりに  今回は、たった二例の紹介でしたが、私たちの一連のパラリンピックブレイン研究(※)は、脳には、人間には、まだまだ未知の能力があって、その一部は障がいがあるアスリートを研究することを通じて詳(つまび)らかになることを示しています。  そして、一つ取り上げることができなかった重要な要素があります。それは、やる気≠ナす。アスリートには多かれ少なかれ間違いなくこれがあります。アスリートはだれしもやる気があってトレーニングに勤しんでいるのです。しかし、障がいを負って日々つまらないリハビリをしなければならなくなった人々にこれを持て、というのは酷です。  パラリンピックブレイン研究によって明らかになったもう一つの点は、障がいを負うとトレーニングによる脳の再編はしやすくなるが、そこにやる気が加わると、その再編はさらに加速するらしいという点です。リハビリにやる気が加わると効果が高まることは現場の人ならみな知っています。やる気の効果をいかに引き出すか、これからの研究によってこの難題が打ち破られることを期待しています。 ★本誌では通常「障害」と表記しますが、中澤公孝様のご意向により「障がい」としています ※パラリンピックブレイン研究:私たちは障がいがあるアスリートの脳を「パラリンピックブレイン」と呼び、これを対象とする研究を「パラリンピックブレイン研究」と呼んでいます 参考文献:『パラリンピックブレイン(中澤公孝著)』(2021年、東京大学出版会) 中澤 公孝 (なかざわ きみたか)  東京大学・大学院総合文化研究科・教養学部 教授。  専門は、運動生理学・神経科学・リハビリテーション科学であり、人間の運動制御の本質に迫るための研究をリハビリテーションやスポーツスキルを対象として行っている。  おもな著書に『パラリンピックブレイン』(2021年、東京大学出版会)などがある。