この人を訪ねて 認知症になっても働き続けるために 一般社団法人認知症当事者ネットワークみやぎ 代表理事 丹野智文さん たんの ともふみ 1974(昭和49)年宮城県生まれ。ネッツトヨタ仙台株式会社に営業職で入社。2013(平成25)年、若年性アルツハイマー型認知症と診断される。2015年に認知症当事者の総合相談窓口「おれんじドア」を開設。2019年に「一般社団法人認知症当事者ネットワークみやぎ」を立ち上げる。2020(令和2)年、厚生労働省の認知症本人大使「希望大使」に任命される。近著に『認知症の私が、今を楽しく生きる理由「生活の工夫」と家族・仲間の力』(2025年、中央法規刊)がある。 2度の検査入院で診断 ――丹野さんは、39歳で若年性認知症と診断されたそうですね。 丹野 ふり返ると、33歳ぐらいから記憶力が低下していったと感じています。当時は自動車販売会社の輸入車部門でトップの販売実績を上げるほど仕事は充実していました。しかし一方で、注文の内容や人の名前を忘れることが増え、最初は手帳にメモを取り、パソコンの周りに付箋(ふせん)も貼るなどして対応しました。そのうち「佐藤さんに電話」というメモが、「仙台市青葉区の佐藤一郎さん、タイヤ交換の件で電話」などと、どんどん詳細になっていったのです。  転機は38歳の12月でした。業務を依頼するため社内の整備場に行ったのですが、同僚の顔と名前が本当にわからなくなってしまったのです。あわてて自分の席に戻って組織図を確認し、ようやく声をかけました。「多忙によるストレスかも」と、脳神経外科を受診したところ、大きな専門病院をすすめられました。その病院での検査入院では「年齢的に判断がむずかしい」と大学病院を紹介されました。そして翌年の3月、再び2週間の検査入院の末、医師から「いろいろな先生と相談し、アルツハイマー型認知症と診断しました」と告げられたのです。  じつは入院前日、社長から「どういう結果でも、戻ってこられるようにするから」と励まされていました。しかし認知症になっても働き続けられるなんて聞いたことがありません。当時、2人の娘は中学生と小学生。「自分と家族はどうなるのか」という不安で夜も眠れなくなりました。 ヘルプカードを自作 ――退院後は、どのようにして職場復帰されたのでしょうか。 丹野 すぐに精神障害者保健福祉手帳を取得しましたが、やはり家族を養わなければなりません。妻と相談し、洗車などの仕事で働けないか会社に頼んでみることにしました。覚悟を決めて会社に出向いたのですが、社長は「長く働ける環境をつくるから」といってくれたのです。帰り道、妻が運転する車の中で、私は涙が止まりませんでした。  その年の5月から本社の総務人事の部署に配属されました。職場側も私自身も何ができるかわからないなかで、まずは各店舗の備品管理書類をパソコンで整理する作業から始めました。ただ同僚2人のうち上司は産前産後休業に入る予定で、もう1人は18歳の新入社員。そのため年長の私が仕事を引き継ぐことになったのです。1カ月かけて業務内容をノートにまとめましたが、実際にやってみるとできない。「これくらい覚えているはず」と思っていた手順さえわからない。結局2回書き直し、ようやく完成しました。  作業完了を確認するノートもつくりました。1日1ページ内に「今日やること」を書き出し、やったものからすぐにチェックを入れます。さらに1カ月ごとの業務予定を表にして、終了したものから「OK」と記入する。やった記憶はなくとも、チェックの印を見ることで安心して仕事ができるようになりました。  また、認知症についてよく知らなかった新入社員が「何に困っているのですか?」と聞いてくれたこともよかったです。私は「いまできること、苦手なこと」を具体的に伝えるようにし、そこから仕事もスムーズに回っていきました。上司とは月2回面談をして、仕事の進捗具合などを共有し、むずかしそうな作業はできないと伝えました。こまめな情報共有とともに仕事をある程度任せてもらえる職場環境が、本当にありがたかったです。  会社は車で20分の場所にありましたが、運転免許証を返納した私は、家からバスと電車を乗り継ぎ、2時間ほどかけて自力で通勤することを選びました。少しでも自信を持ち続けるためです。  その後しばらくたったある日、乗り換える駅がわからなくなり、通行人にたずねたところ不審に思われてしまったことがありました。それを機に、ヘルプカードを自作しました。「私は若年性認知症本人です」という文と、自宅から会社までに使うバス停や駅名を書き、パスケースに入れて持ち歩いています。このカードのおかげで、多くの親切な人たちに助けてもらいました。認知症でも、工夫すれば1人で外出できるのです。 認知症当事者の相談窓口 ――2015(平成27)年に開設した、認知症当事者のための相談窓口について教えてください。 丹野 私自身、若年性認知症と診断された後、一時は軽いうつ状態になりました。それが変わるきっかけとなったのが当事者交流会でした。同じ境遇の人たちと気持ちを共有できただけでなく、前向きに生活する当事者の姿を見て「この人のように生きてみたい」と思ったのです。  その体験を周囲に話したところ、「今度は丹野君がほかの当事者に力を与える側になってみたら」と助言されました。そこで仲間たちと一緒に、当事者同士がピアサポートを行う相談窓口「おれんじドア」を開設しました。その後、専門外来の院内などピアサポートの場を増やしています。  これまで多くの当事者とその家族に会いましたが、私は「どうしたら進行を遅らせられるか」といった予防法よりも、「これから何をしたいか」を聞き、自分の経験もふまえながら工夫できることを一緒に考えます。ご家族にお願いしているのは、できるだけ本人に決めさせてほしいということです。診断直後からさまざまなことを奪われると自信を失い、うつ状態になり、症状の進行に拍車をかけるともいわれています。自分で決める、選ぶ。できなければ工夫する。そうすることで本人も前向きになり、それまでの生活を維持していけます。私はそうした例をたくさん見てきました。最近では、宮城県内でも58歳で認知症と診断された人が、IT会社を定年退職した後に、再雇用されて働き続けている例もあります。 本人の工夫と周囲の理解次第 ――認知症の診断から13年以上、働き続けてい らっしゃるのですね。 丹野 認知症に関しては、まだまだ世の中で偏見も誤解もあると感じています。本人も周囲も「働けないだろう」と諦めていませんか。私が診断を受けてから13年以上働いているように、本人の工夫と周囲の理解次第なのです。  特に近年は、スマートフォンなどさまざまな先進機器によって、できないことを補えるケースが加速度的に増えていますね。それらの技術をどう使って生活し、働き、自立につなげていくかという方向に、社会全体がもっと目を向けていってほしいと思います。  それからもう一つ、お伝えしたいことがあります。以前、私の会社の社長は「君が笑顔で働き続けることで、ほかの社員も『自分が病気になっても働ける』と安心できる」といってくれました。実際に職場では、家族の認知症について相談しやすくなり、白血病やがんの手術後に職場復帰した同僚もいます。病気や障害のある本人も家族も安心して働き続けられる職場が、結局はだれにとっても理想ですよね。