働く広場増刊号2013
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13「働く広場」増刊号 2013肘先を失った野球少年会社経営へ新潟県のほぼ中央、新幹線の燕三条駅から弥彦線に乗り換え、3つ目の吉田駅のすぐ近くにアイテックス株式会社と特例子会社のアイコ―ル株式会社がある。「マニュアルがない! でもそれが強み」とうたう障害者雇用の現場を訪ねた。アイテックスは2001(平成13)年、アイコ―ルは2011年に操業を開始した。スーパーマ―ケットの建物だったという両社の工場では、ATM(現金自動受払機)の組立・修理、医療器具・生活日用品などの研磨・プレス業務などのほか、2013年9月からLED蛍光灯の金具の組立を始めた。また9月には新潟市内に工場を設立して、スチームオーブンの品質検査を請け負ってもいる。従業員はアイテックス67人、そのうち27人は取引先の工場で働いている。アイコ―ルは23人。障害のある人たちは両社ともに7人ずつ。精神障害者8人、身体障害者4人、知的障害者7人の計19人で、これまで辞めた人は1人もいない。障害者雇用は、両社の社長を務める板垣政之さんが5歳のとき、農機具に右腕を巻き込まれて、肘から先を失った経験なしにはありえなかった。板垣さんは野球少年で、ポジションはピッチャー。通っていた高校は、板垣さんが2年生、3年生のときに甲子園に出場した。当時の挑戦は、幼少期から少年期までを描いた自叙伝「アボットさん こんにちは」(文溪堂刊)に記されている。「野球は頑張りましたよ。野球がすべてでした。高校では部員が100人ぐらいいましたから、甲子園のマウンドには立てませんでした。家業は継ぐつもりでしたが、大学に進んでからも野球づけの毎日でした」父親は故郷の山形県東根市で、神町電子株式会社を経営。ATMなどの組立をしている。長男である板垣さんは大学卒業後、長年の取引先である富士通機電(現富士通フロンテック)で総務・経理の実務経験を積んでいた。「経営の勉強をしてから帰ってこいと父にいわれて、ボロボロだったスーパーの建物を借りて、ATMの組立を始めました。やってみたら社長業が楽しくて。私はプラス志向のかたまりですので、いろいろなところを回って仕事をもらいました」創業したときは25歳。従業員10人は全員が社長より年上だった。「いま振り返れば、徹夜しながらよく頑張ったと思います。5年後には従業員が50人ぐらいになっていました。いまはATMの組立のほか、さまざまな仕事をしています。いろいろな会合に出ても一番若く、山形から出てきていることもあって、みなさんに応援していただきました。人と人のつながりが大切ですね」精神障害者の仕事ぶりで「考え」が変わった板垣さんは会社理念に、「全員参加の経営をしよう」と掲げた。「建物は借りているし設備もないので、人材が財産です。従業員全員がみんな社長だという思いを持ってもらおうと、『全員参加の経営』とうたって、教育にもお金をかけています。最近よく思うのですが、障害者になったことで前向きになり、いままでの経験がすべて経営につながっている。私が障害者にならなかったら、人を使うどころか、自身の成長もなかっただろうと思います」父親は、会社経営とともに工業団地の板垣社長の自叙伝① 目標制度で達成すれば報酬② 一人ひとりに合わせた指導③ リストラを危惧しないよう責任ある仕事をさせるPOINTPOINTPOINT板垣政之社長(2012年6月号掲載、2013年一部改訂)

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