働く広場2019年5月号
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4働く広場 2019.5『働く広場』通算500号記念対談『働く広場』から見る、障害者雇用の変へん遷せん松矢勝宏(以下、松矢) ちょうど1年前の2018(平成30)年4月に「障害者雇用促進法」(障害者の雇用の促進等に関する法律)が改正されました。法定雇用率が2・0%から2・2%に引き上げられると同時に、精神障害者が法定雇用率の算定基礎に入りました。正式な形として「全障害種」を含むことになったわけです。この画期的な節目の翌年に『働く広場』も500号を迎えました。障害者雇用促進法がしっかり整うまでのプロセスを、500号分で網羅しているのではないか、というのが私の率直な感想です。施策側の立場にいらっしゃった村木さんは、いかがですか。村木厚子(以下、村木) 身体障害者から始まり知的障害者を加え、ついに精神障害者が入るまでの障害者雇用の歴史とともに『働く広場』がありますね。私が仕事で『働く広場』にかかわったのは1997年から2年余りの障害者雇用対策課長時代でしたが、この雑誌の価値を強く感じていました。楽しく読めて情報量がとても多い。編集委員の方たちが自ら学ぶつもりで取材したという気持ちが記事にも表れていて、それがみなさんの役に立つ雑誌であり続けてきた理由でもあると思います。松矢 『働く広場』は1991年から月刊誌になり、私も編集委員時代(1986〜2017年)はいろいろ勉強になりました。 『働く広場』が創刊された1977年の前年、障害者雇用促進法の前身である「身体障害者雇用促進法」(1960年制定)が改正されました。それ以前の日本の雇用環境を見てみると、いわゆる高度経済成長対象にした第三セクターの「能力開発センター」が開設されるなど少しずつ整備されていき、より重度の人が働くうえでの福祉との連携も重要になっていきましたね。松矢 1983年からの「国連障害者の十年」ではいろいろなことが動いたと思います。同年に国際障害者年日本推進協議会において発足した政策委員会には障害当事者も参加して活躍し、すぐに身体障害者福祉法の改正にこぎつけました。村木 「障害者の十年」では「参加」が大きなキーワードでした。私は、障害者雇用を担当する前は女性の問題にかかわっていたので、古い考え方でいくと「そんな能力はない」、「こういう仕事は無理」と思われている人たちが実は非常に力があり、環境を整え、偏見を取り除いていけば素晴らしい活躍をするということを、女性や障害者にかかわるなかで見てきました。いずれも女性差別撤廃条約や国際障害者年、障害者の権利条約といった国際社会の後押しがありました。私は「偏見を排して、いかに人が持つ能力を発揮してもらうか」という視点で労働政策の醍醐味を感じていました。そして「働くことは、人間にとって大きな意味がある」ことをいろいろな角度から実感しました。松矢 私が勤めていた東京学芸大学の附属養護学校でも、就職した子どもたちがたくましく成長している姿を見ると、働くことは重要だとつくづく感じました。いまでは東京の特別支援学校の生徒二人に一人が就職する時代になりました。卒業後に学校に来てくれて、立派な会社員として後輩たちに時代で「中卒」の若者たちが金の卵としてもてはやされていました。人手不足のなか身体障害者はもとより知的障害者も特殊学級(いまの特別支援学級)を卒業して、就職する人が増えました。村木 私は1978(昭和53)年に旧労働省に入り、最初の配属が身体障害者の雇用を担当する課でした。当時はその課の所掌に障害者だけでなく高齢者も学卒者も含まれていて、障害者のウエイトはまだ大きくなかったと思います。ただ身体障害者雇用促進法によって、小さいながらも施策の柱がちゃんと立っていた時期です。あのころ「傷しょう痍い軍人」と呼ばれた方々が「障害があっても自分たちは社会に貢献できる」という強い思いがあって、働くことによる社会参加を大事にしていることを学びました。 松矢 国際障害者年の1981年には、東京で第1回国際アビリンピックが開催されました。村木 私はちょうど外務省に出向中で、国際的な動きが日本を応援してくれるということを学びました。その後、知的障害者を障害者雇用の歴史とともに「国連障害者の十年」村むら木き 厚あつ子こさん2013年7月から2015年9月まで厚生労働事務次官を務める。退官後は伊藤忠商事取締役、住友化学取締役、SOMPOホールディングス監査役、津田塾大学客員教授、土佐高等学校理事などに就任。写真:官野 貴500通 算号記 念

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