働く広場2020年1月号
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働く広場 2020.1発達障害とともに生きるということ ―親の接し方― 25年前からワークライフバランス(WLB:仕事と生活の調和)に着目した、ダイバーシティ、WLB分野の第一人者。これまでに海外10数カ国を含む、国内のダイバーシティ・WLB先進企業1050社、海外の150社を延べ4000回、訪問ヒアリングし、約1万社の企業データを分析。 また、コンサルタントとして、実際に1000社以上の企業の取組推進をサポートする一方で、内閣府や厚生労働省などの官庁や自治体の委員を歴任。*【第1回】内閣府地域働き方改革支援チーム委員(兼務 株式会社東レ経営研究所)渥美由喜(あつみ なおき)19 私は、発達障害の一種である「アスペルガー症候群」と「ADHD(注意欠陥・多動性障害)」。物心がついてから、ずっと生きづらさを感じてきた。自らの生存圏を確保するため、社会人になってから二十数年、ダイバーシティ(多様性・多面性に富む人たちが活躍できる社会、職場づくり)を研究してきた。1200社・延べ4000回企業を訪問ヒアリングし、数百社をコンサルティングしてきた。 少しは世に知られるようになったのは、ひとえにマイノリティ当事者であるがゆえの説得力のほかに、発達障害のある者ならではの強みがあるからと考えている。今回は、親が私にどのように接してきたかをふり返りながら、発達障害のある者をどのように社会で活かしていくか、私見を述べたい。  幼少期から「多動」で、よく問題を起こしていた。2歳下の弟の方が先に話し始めたぐらい言葉が遅いくせに、1秒たりとてじっとしていられない。3歳の朝、広大な青空に魅み入いられて、地の果てを見てみたいと思いたち、三輪車で旅立った。十時間後に12㎞離れた交番で保護された私を迎えに来た母は「うちのバカ息子がご迷惑をおかけして、すみません。ほら、おまえもお巡りさんに謝りなさい」と平身低頭。 外では厳しかった母だが、家ではちょっと違った。「おまえがすぐに体が動いてしまうのは生きる力があふれているから。決して悪いことではない。大人になるまでに一つでいいから好きなことを見つけなさい。それを仕事にすれば生きていけるよ」と大らかだった。 いま思うと、うちの母自身も周囲の空気が読めないKYタイプだったが、とびきり陽気な人柄を磨いて、小売店の販売員だったとき、接客コンテストの全国大会で優勝したという。その経験から、「一つのことを極めれば、世の中を渡っていける」という価値観を持っていた。  大工の棟とう梁りょうだった父は、私に「生まれてくる時代と場所が違ったら、おまえはコロンブスになれたのにな」と笑った。実は、わが家は千年続いた宮大工の家系。現存する厳いつく島しま神社を鎌倉時代に再建した棟梁が先祖というのが最大の自慢だ。その末まつ裔えいとして、よく小さなトンカチで遊んでいたが、あまりに不器用で、いつも親指を青紫色に腫らしていた。見かねた父は、「おまえは別の道を歩め」と宣告。千年続いた家系を閉ざした“不逸材”ぶりだった。 わが家に伝わる口伝の教えの一つが、「よい社やしろを建てるには山まるごと使え」。素人は南向き斜面ですくすく育った、見映えのよい木ばかりを使いたがる。しかし、日当たりが悪い北向き斜面で育ち、一見すると貧相な木こそ、実はぎゅっと年輪がつまっていて頑丈。「瀬戸内の荒波に立つ鳥居の土台には、そういう木が不可欠だ」と教わった。 父からは、「器用貧乏になるな。何でも平均以上にできる奴なんて使い物にならない」、「おまえの強みを磨け」、「中途半端にはみ出るから叩かれる、もっと突き抜けろ」、「人より抜きんでた専門家集団がいい建造物をつくる」といわれて育った。 職人さんのなかには、私と同じように発達障害の傾向がある人は少なくなかった。猪ちょ突とつ猛もう進しんに一芸を究める性向は職人に向いているからだ。棟梁である父は「あいつのカンナがけは天下一品」など、いつも褒ほめていた。 私が研究するダイバーシティに関して、時折、「輸入された概念だから、同質化圧力の強い日本には馴な染じまない」という人がいる。冗談じゃない。世界有数の木造建築物を建造した、選よりすぐりのプロ集団がいちばん大切にしてきたのが「ダイバーシティ 適材適所」の考え方だ。「あらゆるタイプの木を適材適所で活かす」棟梁の知恵は、日本の社会にこそ必要であり馴染むと思う。問題児だった私に親は……宮大工棟梁一族に伝わる「口く伝でんの教え」ダイバーシティは、「適材適所」≒

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