働く広場2020年6月号
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い者スポーツ大会を開催した。翌年、当時世界で唯一の障がい者国際スポーツ大会だったストーク・マンデビル競技大会に卓球、水泳の2選手を連れ、選手団長として参加した。中村さんのそうした努力が実を結び、1964年の東京五輪開催後、11月にパラリンピックが開かれた。中村さんはその1年前から運営資金を集め、各国に参加を呼びかけて招待状を発送し、通訳を確保するなど、開催準備に奔ほん走そうした。大会では21カ国から378人の選手、役員が参加し、アーチェリー、陸上など9競技が行われた。そのとき、中村さんは53人の選手とともに団長として入場行進した。そして1965年には、障がい者の就労と自立を目ざし、「太陽の家」を開設障がいのある患者に手術、リハビリテーションを行う整形外科医であった。1960年、国立別府病院整形外科医長のとき、海外研修でイギリスに行った際、ストーク・マンデビル病院のグットマン博士から、脊髄損傷患者の85%が半年の治療、リハビリで再就職していることを学んだ。同院では手術後の医師の回診に理学療法士、作業療法士、ケースワーカー、就職あっせん担当者のチームが同行し、さらに機能回復のリハビリには水泳、卓球、車いすバスケットなどスポーツを導入していた。また、イギリスでは国の制度で企業には従業員総数の3%以上の障害者雇用義務があった。中村さんは帰国すると、「大分県身体障害者体育協会」を設立し、国内初の障が命は企業理念(★)に基づいた、職業的重度障がい者の雇用機会の創出です。同時に私たちは製造業者として、お客さまが満足する商品をつくり、お届けしなければなりません。事業を通じた障がい者の活躍機会の拡大にこだわって経営している特例子会社として、企業理念を実践すべく、今回の取組みにふみ切りました」と話す。今後の人財確保について、人事総務課課長の冨安さんは、「太陽の家のB型事業所、A型事業所からステップアップして来る方たちを受け入れるのが基本。もちろん、就労移行支援事業も含まれます。障がい種別の多様化にもノウハウを積んで幅広く受け入れ、だれもが活き活きと働く職場をつくりあげていきたい」という。オムロン京都太陽が主導し、太陽の家京都事業部と一体になったプロジェクトは2年目に入る。次に、太陽の家の創立者である故・中なか村むら裕ゆたかさんの取材で別府市へ飛んだ。中村さんは、オムロン創業者の立たて石いし一かず真まさんと出会い、大企業の生産工程へ障がい者就労の道を開いた方である。1951年、九州大学医学部を卒業し、身体創業者の想い働く広場 2020.6大分県別府市の社会福祉法人太陽の家 本館★オムロン企業理念(提供:オムロン株式会社)「太陽の家」創設者の中村裕氏(写真提供:社会福祉法人太陽の家)太陽の家歴史資料館。現在は、太陽ミュージアムとして移転している1964年東京パラリンピック開会式での選手宣誓。中央左が中村裕氏(写真提供:社会福祉法人太陽の家)23

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