働く広場2020年6月号
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村イズムの一つを実践している。アパート住まいで趣味は料理という。2007年に入社し製造グループのグループ長を務める笹ささ原はら廣ひろ喜きさん(46歳)は、「障がい種別が多様化しているので、みんなの意思疎通、相互理解を進めるよう呼びかけています」という。実は笹原さんは、創立者の中村さんが始めた「大分国際車いすマラソン」2006年大会の、日本人初のフルマラソン優勝者だ。2008年北京パラリンピック銀メダリスト。中村さんがイギリスで学んだ「スポーツでリハビリ」を実践した人である。3人から話を聞いた応接室の壁には、立石一真氏、中村裕氏の大きな写真が額に入り、その下に「No charity, but a Chance!(保護より機会を!)」という中村語録が掲げられていた。2人のパイオニアの志こころざしは、いまなお引き継がれている。た。国内2番目の特例子会社として50年近い実績があり、2018年度の売上は19億円、会社利益は2億円である。オムロン太陽の代表取締役社長を務める大おお前まえ浩こう一いちさんは、「経営は順調です。障がいに合わせ治具を考案し、作業しやすいよう条件整備するので、35人の障がい者は技能労働者としてフラットに能力を発揮し、生産ラインで作業しています。賃金体系も同一です。私の前任者は三代続いて車いす利用者の社長でした」と語る。太陽の家のB型事業所の施設外就労として勤務する岡おか村むら晴はる歌かさん(36歳)は、スイッチの導通状態を知らせるLEDランプ脚部の不良部分のカット作業を担当。「キズを見つけるのに集中し、それをカットします」B型事業所とはいえ、8時15分〜17時15分までフルタイム勤務をこなしている。可能な人は8時間労働に慣れる体力、気力を養い、一般就労に備えるという、中私たちを案内してくれた太陽の家の総務課に勤務する徳とく田だ構こう一いちさんは、1982年に授産施設の利用者として入所した。2度入院し中村さんの治療を受けた。「どげんしたんか、と大分弁で話しかけてくれた。熱血漢で患者に寄り添うお医者さんでした」という。中村さんは整形外科医であり、東京パラリンピック選手団長を務め、太陽の家創立者として大企業の障がい者雇用に大きな道を切り開いたパイオニアだった。最後に、オムロン太陽株式会社を訪ねオムロン太陽株式会社働く広場 2020.6オムロン太陽株式会社では、産業機器用の部品を製造しており、年間生産数は1000万個にもおよぶB型事業所の施設外就労としてオムロン太陽で働く岡村晴歌さんオムロン太陽 製造グループ グループ長の笹原廣喜さんオムロン太陽株式会社 代表取締役社長 大前浩一さん大分県別府市のオムロン太陽社屋25

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