働く広場2020年7月号
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働く広場 2020.7 結婚2年目、28歳のときに保育園へと向かう通勤途中の交通事故により頸髄を損傷し、重い障害が残った。 生きる希望を失いかけたなか、2006年に新しい命を授かり、無事に第1子を出産。車いすで家事や子育てをしながら、全国で実体験に基づいた講演活動や、「埼玉県家庭教育アドバイザー」として子育て支援活動をしている。 著書に、『ママの足は車イス』、『ちいさなおばけちゃんとくるまいすのななちゃん』(ともに、あけび書房)がある又また野の亜あ希き子こ 『ママの足は車イス』著者/元幼稚園教諭・保育士19 結婚して2年が過ぎた2004(平成16)年夏。保育園へと向かう通勤途中の交通事故により頸けい髄ずいを損傷し、車いす生活を余儀なくされました。立つことも歩くこともできないばかりか、左手にたった2kgの握力が残されただけで、手にも麻痺があります。思いもよらぬ人生を歩むことになってしまった私は、絶望のあまり「この世から消えてしまいたい…」そんな思いに苦しめられていました。事故から16年が経とうとしているいま、あのころからは想像もできないほどの幸せを感じて生きています。講演活動や子育ての支援活動などの社会活動を行っている障害者の一人として、障害者が自分らしく輝ける社会を願い、自分の経験や思いを3回に渡り綴つづらせていただきます。  二度の大きな手術を行いました。手術から目が覚めるとすぐに医師より説明がありました。頸髄を損傷していること、これからは歩くことや立つことはできないため、車いすを使って生活していくこと……。いったい自分に何が起こったのか、まったくわかりませんでした。 本当の意味で“生きるための戦い”が始まったのは、二度目の手術が終わってからでした。事故以来、薬の投与により意識が朦もう朧ろうとしていた私でしたが、それからは生きていくために体力を取り戻していかなければなりません。息苦しさ、めまい、痛み、心も身体も休まることはひとときもありませんでした。  着替えや排泄、入浴、足となる車いすの操作など、いままで何気なくしてきたことのすべてを、リハビリによって習得していかなくてはなりません。 実際に車いすに乗ってリハビリが始まると、「私のこれからの生活は、こうなるのか」と現実を突きつけられた思いでした。特に、膀胱直腸障害により排泄が自分の意志でできなくなってしまったことは、28歳の私にとって一番辛く、リハビリするのも精神的にかなりの苦痛でした。この歳にもなって失禁をしている私を、夫はどう見ているのか……。夫への申し訳なさから何度も離婚を申し出ました。しかし、夫は話を聞いているのかいないのか、多くを語るわけでもなく、ただただ病院に来ては私の心に寄り添ってくれていました。 リハビリが始まったころは、「こんな私が自立なんて絶対にできるわけがない」と投げやりになっていました。しかし、人間とはすごいものです。不自由な体にも順応していきます。退院するころには、入院していた7カ月間の日々の積み重ねがしっかりと身について、身の回りのことが自分でできるようになっていました。そしてリハビリが終了するころには、車の運転や料理にも挑戦し、夫と過ごすこれからの生活が少し楽しみにもなってきました。  退院というと、一般的には喜ばしいことです。しかし、障害のある身体で社会復帰する私にとっては、恐怖でした。「社会に出たら、周囲の人は障害者の私をどのような目で見るのか」、「バリアがたくさんある社会に、車いすで本当に外出できるのか」と、いざ退院が迫ると、いつも先の見えない不安に襲われていました。「迷惑をかけるばかりでだれの役にも立てない私は、家族や友だち、社会のお荷物になってしまうのではないか」と、生きていくことに後ろ向きになってしまうほどでした。 しかし、退院すると夫はもちろん、友人が大きな支えになりました。「私は車いすだからみんなに迷惑をかけてしまう」……バリアを張っているのは私のほうでした。友人は「私たちの関係はいままでと何にも変わらないよ!!」と、いろいろなところへと連れ出してくれました。(つづく)*【第一回】重度障害とともに~ある日、突然の交通事故~二度にわたる頸けい椎つい大手術現実を突きつけられた苦しいリハビリ恐怖の退院

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