働く広場2020年11月号
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間たちとの共同生活は、同じハンディを持つ者同士の仲間意識や助け合うことの大切さを学ぶことができて、いま思えば学園生活は自分にとって居心地がよかったよ」と、当時の心境を語ってくれた。(2)社会人第一歩 藤井さんは、足立学園を卒業して最初に障害者支援施設である大分県別府市の「社会福祉法人太陽の家」で就労した。その後、21歳で自動車運転免許を取得し、地元の北九州市に帰りタクシー会社に就職。仕事内容は、お客さんから電話を受け、無線でドライバーに連絡する配車係だった。配車業務以外にも、乗車日報、料金の確認、タコグラフ(※3)の交換などを一人で担当した。車いすで移動する藤井さんにとって会社内はバリアフルで、建物内は狭く、至る所に段差があって会社内の移動に苦労が多かった。なかでもトイレは、会社内に男女兼用の和式トイレしかなく、便座がないことから、自家用車のなかで行うことがほとんどで、失禁時の着替えも必要だった。 しかし、藤井さんは、仕事仲間たちとの交流を通して、障害に関係なく個人として対等につき合ってくれることを初めて実感できたそうだ。さらに、藤井さん自身が「障害者」というレッテルを貼り、いつまでも卑屈で哀れな存在としか思っていなかった自分を、「このままではいけない」と気づくきっかけにもなったという。生の節目や同窓会などで再会し、ときどきメールや電話をしながら現在も交流が続いている。今回の取材も、久しぶりの連絡に「いいよ、いつ来る?」と、藤井さんの二つ返事で決まった。(1)事故と足立学園の生活 藤井さんは小学校6年生のときに友人と遊んでいたボタ山(※2)で不慮の事故にあい、脊髄損傷による両下肢の運動完全麻痺、感覚麻痺、さらに排尿排便障害が残った。藤井さんは手記で、元気に走り回っていた自分が歩けなくなったことを受け入れられず、「なんで自分が」という怒りと、「自分の人生は終わった」とその複雑な心を綴つづっている。 足立学園では両下肢装具と両松葉杖で歩行訓練に励んでいた姿が、いまでも印象に残っているが、藤井さんの部屋を訪ねると褥じょく瘡そう(床ずれ)の治療、排尿障害による腎不全の治療でベッドでの生活が長く続いていたこともあった。私は初めて脊髄損傷という病を知り、この障害について、藤井さんの生活を通して実感できたような気がする。 当時のことを藤井さんにたずねると、「そうね、あのときは健康面の不安や、思春期特有の抵抗や反発も重なり心が落ち着かない毎日やった。でも、足立学園の仲 私は3歳のときにポリオ(急性灰白髄炎)に感染して左足に運動機能障害が残り、現在も補装具を着けて何とか自分の足で歩くことができている。14歳(中学校2年生)のとき、両親にすすめられ、不自由な左足の治療を目的に「肢体不自由児施設足立学園(現在は北九州市立総合療育センター)」(以下、「足立学園」)に1年間入院した。肢体不自由児施設とは、児童福祉法に基づく医療型障害児入所施設で、医師とコメディカルスタッフ(※1)、ソーシャルワーカー、支援員がチームを組み、リハビリテーション治療を展開する病院のことである。厚生労働省の「障害児入所施設の現状(平成31年3月26日時点)」によれば、全国に57カ所、2122人が施設を利用している。 私は足立学園で、脳性麻痺、二に分ぶん脊せき椎つい症しょう、脊せき髄ずい損傷などを原因とする運動機能障害のある仲間たちと出会い、一緒に生活していくなかで、世の中にはポリオ以外にもいろんな障害のある子どもたちがいることを初めて知った。 今回訪れた「株式会社インコムジャパン」の創業者、藤ふじ井い豊とよ美みさんとは、当時の足立学園で出会い、治療や勉強、遊びを共有した「同じ釜の飯を食った友人」である。足立学園を退院した後は、それぞれの人同じ釜の飯を食った友人との再会他己紹介「藤井さん」働く広場 2020.11代表取締役社長の藤井豊美さん株式会社インコムジャパン足立学園での出会い障害のある人とない人の「格差」障害者の、本当の意味での「自立」に向けて123POINT※1 コメディカルスタッフ:医師以外の医療従事者。看護士、薬剤士、理学療法士、作業療法士など※2 ボタ山:石炭などの採掘にともない発生する捨石の集積場※3 タコグラフ:運行時間や速度の変化などをグラフ化し、車両の稼動状況を把握するため自動車に搭載する運行記録用計器21

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