働く広場2020年12月号
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働く広場 2020.12 香川大学教育学部教授、香川大学学生支援センター バリアフリー支援室室長、香川大学教育学部附属坂さかいで出小学校校長・附属幼稚園園長、言語聴覚士、公認心理師。 特別支援学校での進路指導の経験があり、現場をよく知る実践的な研究者。富士通株式会社やソフトバンク株式会社と産学官の共同研究も行っている。坂井 聡 さかい さとし19克服できなかった個人に責任があり、場合によっては「努力不足の結果だ」などと、まるでその個人が弱い人間であるかのような評価になってしまう。 本人や保護者が問題を感じていて支援を必要とする場合や、自分の力で解決することができない場合、さまざまなものに頼ってもよいのである。「あなたの場合、これを利用したらこんなことができるようになりますよ」と、支援もセットで考えて指導していくのがよいはずなのだが、そうなっていないのである。 ICFでは、参加や活動することができるようにするために、環境をはじめ健康状態や個人因子との相互作用でとらえることが示されている。なかでも、参加や活動をできなくさせている多くの要因は環境にあり、それらを整えることで、診断の有無にかかわらず、参加できればよいし、活動できればよいと思うのである。  YユーチューブouTubeに「Rレースace tザhe tチューブube」という動画がいくつか公開されている。そのなかには、車いすユーザーと地下鉄の電車が次の駅まで競争するというものもある。車いすユーザーが次の駅でその電車に乗ることができれば、車いすユーザーの勝利というものだ。走る車いすユーザーと、時間通りに走る電車の、手に汗握るデッドヒートである。 そのうちの一つに、こんな動画があっは社会では通用しない」、「これができないと、社会に出ることができない」などという言葉を聞くことが多いからである。逆に、「配慮を受けながらでも社会参加できればよい」という言葉を聞くことは少ない。 教育の現場では、困難なことやできないことを「本人の力のみで」できるようにする、という発想が強いように思う。つまり、「訓練することで不足している部分を克服し、できるだけ社会的不利を被こうむらないようにする」という“医学モデルの考え方”が、深く浸透しているのではないだろうか。 しかし、これには大きな問題がある。うまくいかなかった場合、その個人の責任とされることが多いからだ。それは、 最近よく考えることがある。それは障害についての考え方である。WHO(世界保健機関)が、“障害の社会モデル”であるICF(国際生活機能分類)を公表してから20年が経とうとしているのに、なぜ、いまだに多くの人が1980(昭和55)年に発表された、“障害の医学モデル”であるICIDH(国際障害分類)から抜け出すことができないのか、ということである。 私は特別支援教育の指導法などが専門のため、いろいろな学校の研究授業などに行くのだが、いまだに多くの授業で、“社会に合わせる”ということを主たる目標にしていると感じる。授業で「これでた。ほぼ同時に駅に入り、「車いすユーザーのほうが少し早いかも」と想像したとき、カーブの先に階段が現れ、そこから先に進めずにいる車いすユーザーの後ろ姿のシーンで終わるというものだ。 私はこれを最初に見たとき、思わず「あっ」と声を上げたことを、いまでも覚えている。そのとき私が直感的に感じたのは、「この“階段”が障害なのだ」ということである。この“階段”こそが物理的な障壁となって、活動すること、参加することを不可能にしているのである。障害は環境の側にあるとあらためて考えるきっかけとなった動画である。 訓練というのは、その人にある凸凹の凹に焦点を当てて、凹んでいる部分を埋めるためにしているような感じがある。そもそも、凸凹は直さないといけないのだろうか。例えば、車いすユーザーがどんなに訓練しても、階段を降りることはできない。つまり、参加・活動できるようにするためには、環境側を変えるしかないのである。これは、知的障害や発達障害のある人たちの場合も同じである。凸凹はそのままでよいのである。 これまで行ってきた訓練は、凸凹の凹を何とかしようとするものになっていたのではないだろうか。 もう一度考えてみたい。もっと、凸を伸ばすことを考えてみたらどうだろうか。そして、障害について、支援者や指導者が “社会モデルの考え方”をしていく必要があるのではないだろうか、と思う。*【第3回】あなたはどう思いますか?障害についての考え方環境の側にある障害

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