働く広場2021年6月号
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働く広場 2021.6 若年認知症は、18歳から64歳の年齢で発症した認知症をいいます。すなわち、「働き盛り」といえる年齢で生じるもので、私は一時期「働き盛りの認知症」と名づけて拙著や講演で使いましたが、残念ながら普及しなかったようです。 私は精神科医になって45年ほど経ちますが、医師になりたての時代、受診される患者さんの多くは、中等度以上の認知機能低下とBPSD(※1)のために、家族が介護することが困難となっていました。その結果、家庭は崩壊し、最後の手段として、精神科病院に連れてくる状況でした。患者さんもコミュニケーション障がいとADL(日常生活動作)障がいが強く、決して本人自らが受診するまでのいきさつを語ることはありませんでした。診察・治療は、患者さんに診断をつけて「入院」とし、病院で最期を看取るという流れでした。その後、認知症の治療薬に近い薬剤が開発され、また頭部CTなどの画像検査ができるようになったこともあり、軽度認知症の人も受診するようになりました。しかし、この時点でも、家族の困りごとは聞くものの、悩んでいる本人の声は聞いていませんでした。 その後、本人の話を聞くことができるようになった大きな転機は、1996(平成8)年に始まった若年認知症に対する全国疫学調査(※2)からだと思います。なお、日本人が認知症の本人に耳を貸し始めたのは2004年、京都市で開催された「国際アルツハイマー病協会第20回国際会議」で、認知症のある日本の越智さんとオーストラリアのブライデンさんが、自らの病気を自分の言葉で語ったときからだろうと思います。 また、2001年に疫学調査に協力いただいた家族の方々と、若年認知症の家族会「朱雀の会」(奈良県)を立ち上げることになりました。この会は、「ボケ老人を抱える会」(現認知症の人と家族の会)の奈良県支部の一部会として、すでにご家族や若年の当事者たちが集まっていたこともあり、比較的スムーズに設立することができました。 しかし、東京で家族会を立ち上げようとしたときは、土台がなにもなかったこともあり、私と作業療法士の比ひ留る間まちづ子先生が東奔西走して有志を募り、コクヨホールでの設立大会まで漕ぎつけるのに半年を要しました。そして、「彩ほし星の会」と名づけられた家族会の第一回は、医学博士で認知症専門医の髙橋正彦先生が勤務されていた「東京都老人医療センター」(現東京都立健康長寿医療センター)の一室を借りて行われました。 そして、その日に反省会として始まり、いつの間にか恒例となったのが「彩星の会」の二次会である「飲みニケーション」でした。この二次会を通じて、私はご家族の方や本人と一緒に、同じ仲間として食べたり飲んだりできましたし、本当の意味で認知症を理解することができたように思います。それまで、患者さんとは、正面で相対する形をとっていましたが、「飲みニケーション」を続ける若年認知症の認知普及と家族会の設立若年認知症と労働特定非営利活動法人若年認知症サポートセンター理事長宮永和夫※1 BPSD: 認知症の行動・心理症状(Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia)。暴力 • 暴言 • 徘徊 • 拒絶 • 不潔行為などの行動症状、抑うつ • 不安 • 幻覚 • 妄想 • 睡眠障害などの心理症状のこと※2 厚生省科学研究費補助金精神保健医療研究事業「若年痴呆の実態に関する研究」(一ノ瀬他)2

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