働く広場2022年9月号
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︱︱金子さんは2015︵平成27︶年、42歳のときに交通事故で車いすユーザーになったそうですね。を開店した経緯を教えてください。私はそれまで長年、調理師として日本料理店や寿司店などで腕を磨き、結婚後は給食事業会社に勤めて高齢者施設の介護食などをつくっていました。そんなある日、自転車で通勤途中に、ダンプカーと衝突する事故に遭いました。脊髄損傷でした。リハビリを含めた8カ月余りの入院は休暇扱いでしたが、調理師としての職場復帰はむずかしく、退職しました。その代わり、相談に乗ってくれた地域包括支援センター(※1)から紹介され、高齢者施設で食事をつくる週1回のボランティア活動に参加することにしました。社会復帰の第一歩です。そして、退院から2カ月後には、長女と長男が通っていた小学校の朝の通学見守り隊にも参加しはじめました。きっかけは「人の目」です。車いすで外出するようになると、これまで感じたことのない視線に気づきました。「めずらしいからだな」と納得しましたが、秋の小学校の運動会でも遠巻きに見られるようだと、わが家の子どもたちが困惑するかもしれない。だったらそれまでに、「めずらしくない車いすの人」になろうと決めたのです。毎朝、児童たちと挨拶がてらジャンケンなどをして交流していったところ、運動会当日には学校で多くの児童に「車いすのおじさん!」と声をかけられるほどなじめました。ほかにも驚くことがありました。ある日、見守り隊の活動で親しくなった学校の先生たちとの会話で、授業参観の話題が出て、「教室が2階だから行けません」と話したところ、「大丈夫、私たちが車いすを運びますよ」といってくれたのです。以前、別の小学校で参観希望の車いすユーザーが学校側に「危険だから」と断られた話を聞いたことがあったので、本当にうれしかったですね。日ごろのつき合いの大切さも実感しました。――事故から3年目の2018年に、和食店れ、ろう学校の給食の献立を考える仕事をすることになりました。バスと電車を利用しての通勤でしたが、駅にエレベーターがありませんでした。毎回エスカレーターを止めて車いす仕様に変えて運んでもらうのが、精神的につらかったですね。諸事情が重なり、半年後に再び退職しました。それからハローワークに通ったものの、調理師のキャリアを活かせる仕事はありません。そんなとき、近所の商店街の空き店舗を安く貸してくれるという話が舞い込んだのです。      2レも含め店内をバリアフリーに改装する必要がじつは退職した翌年、昔の上司に声をかけら実際に私が調理や配膳などをするには、トイ通勤途中に自転車事故店舗のトイレ改装にクラウドファンディング和食ダイニング「わっ嘉■」店主金子淳一郎さんかねこ じゅんいちろう 1973(昭和48)年、埼玉県生まれ。高校卒業後から料理の世界に入り、和食調理師として高級割烹店や寿司店、グループホーム施設などで経験を積む。2015(平成27)年、自転車で通勤途中に交通事故に遭い、脊髄を損傷。8カ月間の入院とリハビリ生活を経て車いすユーザーに。2018年、千葉県柏市内に和食ダイニング「わっ嘉」を開店。https://www.wakka.space/働く広場 2022.9※1 地域包括支援センター: 市町村が設置主体となり、保健師・社会福祉士・主任介護支援専門員などを配置して、住民の健康の保持および生活の安定のために必要な援助を行うことにより、その保健医療の向上および福祉の増進を包括的に支援することを目的とする施設車いすユーザーが和食店を開店した理由

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