働く広場2023年4月号
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話わの訓練を毎日行っていました。「口話」は自私がみなさんと違うのは、生まれつき耳が聴こえないため、おもに手話を話すということ。幼いころは、耳が聴こえない子どもが通う「ろう学校」で言葉を習得するために、口こう話わや読どく分で声を出して話すこと、「読話」は相手の口元を見て言葉を読み取ることです。どちらも視覚的に言葉を「見て」覚えるので、日本語を理解するのはとても苦労しました。そのころ通っていたろう学校は口話教育が中心だったので、手話ではなく、相手の口元を見て言葉を読み取る訓練をしていました。言葉が理解できるようになった小学生のこ       てきました。あの一言はとてもショックで、ろ、いろんな夢を描くようになりました。「なりたい職業」について先生に聞かれたときは、父が航空会社に勤務していた影響もあり「キャビンアテンダントがいいな」とか、「絵を描くのが好きだから漫画家もいいな」と、そんな話をしたら、「あなたは耳が聴こえないから、むずかしいね」といわれてしまいました。 「自分は耳が聴こえないから、聴こえる人と同じようにできないって、そんなの不公平だよ。なんでダメなの? なはずなのに。その夢を叶えるために努力するのを応援してくれたっていいのに。諦めなきゃいけないの?」、そんな悔しさが込み上げみんな夢を描くのは自由とても悲しかったです。それ以降「なりたい職業」について何も考えられなくなってしまいました。自分にはどんな仕事が許されて、何をしたら自分は認められるのか……、将来どうしたらよいのかわからないまま成長していきました。結局、夢や目標がないので、どこで働いたらよいのかもわからず、働きたいという気持ちは失せ、「勉強をもうちょっとがんばりたいかな」と、短大進学を選択しました。当時入学した短大には、私のように耳の聴こえない学生はおらず、周りは聴こえる人ばかりでした。いままでろう学校にいたので、まったく違う世界に来たような気分でした。授業の内容がわからないので、まず友達をつくってノートを借り、書き写して勉強する、という学生生活を過ごしました。短大卒業時に先生のすすめで地元の銀行で働くことになりましたが、毎日同じような仕事のくり返しで自分には合わず、5年勤務して辞めてしまいました。退職してからは「自分の道探しをしよう」と、ろうの友達と手話でしゃべったり、海外旅行に行ったり、趣味でスキューバダイビングをしたりと、いろいろな経験をしながら、いままでがんばった自分を癒すため、ゆっくりまったり過ごしました。そして20代半ばを過ぎたころ、友達に映画のオーディションをすすめられました。そのときは、俳優という職業は耳の聴こえる人の仕事だと思っていたので、あまり真剣に考えずに、「一度応募してみよう」、「演技というものを経験してみよう」と、軽い気持ちでオーディションに挑戦しました。演技経験はまったくなかったので上手く演じられず、無理だろうなと思っていましたが、なんと、オーディションに合格。映画『アイ・ラヴ・ユー』で主演デビュー。当時は、演技に関して何もわからない状態で、演じることで精一杯だったし、俳優としてやっていくかは、まだ心に決めていませんでした。俳優として、聴こえない子どもや大人に夢と希望を与えられるように「がんばりたい」と心から思えるようになったのは、30代後半でした。やっと自分が「やりたい」、自分の能力や得意なもので「楽しみながら仕事がしたい」と思えるようになったからです。好きでがんばれる仕事の方がいい。そうすれば気持ちも前向きになれるし、自分が活き活きしていくと感じました。 「耳が聴こえないからできない」と決めつけずに、自分に合った得意なところを見出し、希望を持ち、どうしたら可能にできるか工夫することは、とても大切なことだと思います。働く広場 2023.4忍足亜希子(おしだり あきこ) 俳優。1970(昭和45)年生まれ。北海道千歳市出身。銀行勤務を経て、1999(平成11)年、映画『アイ・ラヴ・ユー』で日本最初のろう者主演女優としてデビュー。同作で毎日映画コンクール「スポニチグランプリ新人賞」を受賞。以後、俳優業以外にも講演会や手話教室開催など、多方面で活躍中。 2021(令和3)年には、夫で俳優の三浦剛との共著『我が家は今日もにぎやかです』(アプリスタイル刊)を出版。 忍足亜希子29歳、人生の転機が訪れました。19第1回エッセイろう者である想い〜子どものころから思い描いた夢〜

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