働く広場2023年4月号
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幼少時から右目は弱視でしたが、運転免許も取得できていました。その後、40代になって急激に両目の視力が悪化し、システムエンジニアだった私は業務に支障をきたすようになりました。当時、会社にすすめられて取得した障害者手帳は軽度の5級です。上司と相談して別部署に異動するも、新しい上司との意思疎通がうまくいかず、会社に行けなくなって休職。復帰できないまま退職しました。高校生の娘を抱えたシングルマザーの私は、働かないわけにはいかず本当に悩みました。たまたまインターネットで県立盲学校の存在を知り、わらにもすがる思いで連絡したところ「あはき師(あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師)」の養成課程をすすめられました。3年間の盲学校の学費は免除してもらえたので、日々の生活は雇用保険の失業給付や障害年金、シングルマザーの資格取得に向けた給付金などでやりくりしました。じつは盲学校在学中、私がそれまで従事していたIT分野の仕事も視覚障害者の職域だと知りました。他県には障害者職業能力開発校などで視覚障害者が受けられる訓練コースがあり、受講できていたら仕事を辞めない選択肢もあったのかと思うと、いまでも悔しさはあります。盲学校での授業や勉強には苦労しましたが、家事などに協力してくれた娘の高校卒業ととも■■灸■マッサージ師会」が避難所でボランティア活に、私もあはき師の国家資格を取得しました。東日本大震災に見舞われた2011(平成23)年3月のことです。災の影響で授業開始は5月でした。4月下旬の引っ越しに同行した際、「一般社団法人宮城県鍼■動をしていると知り、私も参加させてもらいました。現場では炊き出しなどいろいろな活動がありましたが、視覚障害者の私も役に立てたのは国家資格のおかげだと思います。このとき、「この仕事で人の役に立っていこう」と決意しました。ない状況でしたし、私は鍼灸もやりたかったので、すぐに自営を決めました。退職金をつぎ込んで中古マンションを購入し、自宅兼店舗にして「レディース鍼灸院織■■歩」を開業しました。初は宣伝を兼ねていろいろな集まりに参加しました。ふり返ると、多少無理をしてでも白杖を手に外出し続けてよかったと思います。不安だからと外出を避けていたら、そのまま家にとじこもる生活になっていたかもしれません。      ■ ■ 2もつい同じスピードで歩いていたことが原因のよもともと歩くペースが速い私は、目が悪化してうです。1回目は路上の何かにぶつかり転倒し娘が入学した大学が宮城県仙台市にあり、震当時は病院や施設のマッサージ師職に空きが実績のない状態からのオープンだったので、最一方、これまでに外出先で3回骨折しました。■■■■エンジニアから「あはき師」に白■杖■で外出し、骨折3回――林さんが44歳のときに視覚障害者手帳を取得した経緯から教えてください。――盲学校卒業後の翌年には鍼灸院を開業したのですね。「あうわ」視覚障害者の働くを考える会 代表林由美子さんはやし ゆみこ 1963(昭和38)年、大阪府大阪市生まれ。高校1年生のときから石川県在住。高校を卒業し、信用金庫に3年間勤務後、大手ソフトウェア関連会社にシステムエンジニアとして転職。2006(平成18)年に視覚障害者手帳5級、2008年に1級を取得。2012年「レディース鍼灸院 織歩」開業。2017年『「あうわ」視覚障害者の働くを考える会』設立。ラジオかなざわ「視覚障害ラジオステーション」パーソナリティー。共著に『「どうしよう」から十年 おりーぶさんが見つめる未来!!』(Kindle版、「あうわ」視覚障害者の働くを考える会刊)。働く広場 2023.4視覚障害者になって 初めて気づいたこと

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