働く広場2024年1月号
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広がるパラスポーツ国もこれらの課題を解決し、少しでもスポーツをする障害のある人が増えるよう、障害者スポーツ推進プロジェクトなどの事業を展開しています。東京2020パラリンピックを契機として、アスリート雇用(企業に社員として籍を置きながら競技に打ち込むことができる雇用形態)される障害のある人が増えました。また、一般の雇用形態でも大会遠征のための費用を出したり、大会や合宿に仕事を休んで参加することを認めたりする企業も増えました。10年前では考えられないような環境ですが、これらは一部のトップ選手に限られたことです。障害のある多くのスポーツ愛好者は仕事の合間を縫って練習をしたり、大会に出場したりしています。これらは障害のないスポーツ愛好者も同じでしょう。現在、スポーツ庁では各都道府県や  政令指定都市に一つはパラスポーツの拠点となる機能を持ったスポーツセンターをつくろうとしています。施設を新たにつくるというよりは、そうした機能を、現在あるスポーツ施設に持たせるといった考え方です。スポーツに関心が薄い人や、中途で障害を負った人などにスポーツをする方法を教えたり、その人の住む地域のスポーツ施設  *    * *   * *   * *   * *   (写真提供:社会福祉法人太陽の家)※筆者作成※ 参考資料: 岡邦行著『中村裕 東京パラリンピックをつくった男』 (ゆいぽおと/2019年)1928年全日本盲学校体育連盟設立1961年第1回大分県身体障害者体育大会開催1963年日本ろうあ体育協会設立1964年国際身体障害者スポーツ大会(第2回夏季パラリンピック)開催(東京)財団法人日本身体障害者スポーツ協会設立。第1回全国身体障害者スポーツ大会開催大阪市障害者スポーツセンター開設(わが国初の障害者スポーツセンター)財団法人日本身体障害者スポーツ協会公認身体障害者スポーツ指導者制度確立第1回ゆうあいピック(全国知的障害者スポーツ大会)開催1965年1974年1985年1992年1998年第7回冬季パラリンピック開催(長野)第1回全国障害者スポーツ大会(全国身体障害者スポーツ大会とゆうあいピックを統合)開催第8回全国障害者スポーツ大会で「精神障害者バレーボール」が正式競技となり、精神障害者が参加可能にスポーツ基本法施行、障害者スポーツの推進が明確化2015年スポーツ庁設置2021年第19回夏季パラリンピック開催(東京)2001年2008年2011年働く広場 2024.1■■■■■■  ににおお話話ををううかかががいいまますす。。組組んんだだパパララアアススリリーートトのの山■山■田■田■拓■拓■朗■朗■ささんんすす。。仕仕事事とと両両立立ささせせななががらら競競技技にに取取りり連連載載第第22回回はは33月月号号にに掲掲載載予予定定でで期期待待さされれまますす。。ポポーーツツをを実実践践ででききるるよよううににななるるここととががささままざざままなな機機会会にに、、ささままざざままなな人人ががススれれつつつつあありりまますす。。ささままざざままなな場場所所でで、、ポポーーツツをを楽楽ししめめるるよよううなな工工夫夫もも促促進進ささ  たた、、障障害害ののああるる人人ととなないい人人がが一一緒緒ににススるるよよううににななるるここととがが期期待待さされれまますす。。ままししてていいまますす。。人人ががススポポーーツツにに関関心心をを持持ちち、、実実践践ででききででススポポーーツツががででききたたりりすするるここととをを目目ざざここううししたた拠拠点点施施設設をを利利用用ししてて多多くくののパラスポーツ♦ミニ知識♦  大分県出身の外科医・中■■村■■裕■■■博士は、1958年から国立別■■府■病院(現 独立行政法人国立病院機構別府医療センター)の整形外科に勤務していました。 1960年、リハビリテーション研修で訪れたイギリスの「ストーク・マンデビル病院」で、国立脊髄損傷センター所長、ルートヴィヒ・グットマンと出会います。グットマン博士は脊髄損傷患者に対し、手術をするよりも、スポーツを通して残された能力を最大限に活かすという治療を推進していました。中村博士は、多くの脊髄損傷患者が、身体を動かす訓練を経て社会復帰を果たしていることを目の当たりにし、大きな衝撃を受けました。 中村博士は日本に戻るとすぐに、グットマン博士と同じ治療方法を実践していきます。義肢装具士や看護師を回診に加え、リハビリテーションにおけるスポーツの有効性を熱心に説き続けたのです。そして1961年には、全国初となる障害者のスポーツ大会「第1回大分県身体障害者体育大会」を開催、1964年には日本代表選手団団長として東京パラリンピック開催を実現させました。 翌1965年、障害者の自立を支援し、社会復帰させることを目的とした『太陽の家』を故郷の大分県別府市に設立。「No Charity, but a Chance!(保護より機会を!)」という理念のもと、57歳でこの世を去るまで、その支援活動に全霊を注ぎ続けました。 (編集部)日本におけるパラスポーツ年表27「日本の パラスポーツの父 中村裕博士」

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