働く広場2024年7月号
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研究し、何回も自分の動きを録画し、それを見直して修正しました。自宅で1日12時間連続で練習をしたこともあります。結果的に、ほかの人より何倍も練習していたことになり、そこで障がいのハンディキャップをカバーできていたのかなと思っています。ただ、無事に資格は取ったものの、仕事としてネイル施術をすることに不安を感じていました。そこで私はいったんネイルから離れ、就労継続支援A型事業所の施設外就労として、飲食店でホールと接客の業務に取り組みました。数年後、再び「このままでいいのだろうか」と思い悩んだ末、ハローワークに行ったところ、ちょうど障がい者雇用の求人を出していた札幌のネイルサロンを見つけ、採用されました。アビリンピック自体も知らなかった私が出場することになったきっかけは、お客さまとしてネイルサロンに来ていた独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構︵JEED︶の職員の方のひと言でした。その日はたまたまサロンでその方と2人きりだったので、自分の障がいのことなどを話したところ、「アビリンピックにネイル施術種目が加わるので挑戦してみませんか」とすすめられたのです。じつはその話を聞いたとき、私は2年近く働いたサロンの退職を決めたところでした。ほかのスタッフと比べ、作業に時間がかかることに自信をなくし始めていたのです。私は「結果が出なかったらネイルの仕事を辞めよう」という覚悟で、アビリンピックへの挑戦を決めました。サロン退職後は時間がたっぷりあったので、事前に公表された課題内容に沿って、また、ネイリスト検定の内容とも照らし合わせて忠実に練習しました。迎えた本番の第39回全国アビリンピック︵愛知県︶で金賞がとれたときは、講評のなかで審査員の方から「サロンワークに近いやり方で大丈夫ですよ」との助言も受け、「検定とは違い、あくまで仕事の技術力が問われているのだ」と気づかされました。私はネイルの仕事を続けることを決心し、故郷の北海道で1年間準備してネイルサロンを開業しました。すでに常連のお客さまがいて、お店のチラシもつくり本格的に取り組もうとした矢先、アビリンピックの成績を見たJALサンライトから連絡がありました。地元のお客さま一人ひとりにご理解いただいたものの、それでも申し訳ない気持ちがあり悩みましたが、障がいのある人で実務経験のあるネイリストが少ない現状も知っていたので、業界全体のためにと思い上京を決めました。2021︵令和3︶年3月の社内ネイルサロン立ち上げに向け、一緒に入社した坂さ角ずゆかりさん(※3)と2人でゼロからつくりあげていきました。したのですが、コロナ禍の制約のなか、施術を受けに来る社員もかぎられていました。いまでは成田空港や本社にもサロンができ、ネイリス かみ3   羽田空港の近くにあるJAL施設内にオープンアビリンピックに出場し、決心JALサンライトでネイルサロン立ち上げ――どのようにしてアビリンピック(※2)に挑戦することになったのですか。山下 ――その後、株式会社JALサンライト︵以下、「JALサンライト」︶に入社されたのですね。山下 ※2  https://www.jeed.go.jp/disability/activity/JAL本社内のサロンで施術を行う山下加代さんabilympics/index.html第10回国際アビリンピックにおいて課題に取り組む山下さん(右)※3  坂角さんは2023年の第43回全国アビリンピック(愛知県)で金賞受賞働く広場 2024.7

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