私のひとこと アール・ブリュットと美術館の未来 滋賀県、パリ、サンフランシスコの事例紹介を通じて 滋賀県立美術館ディレクター(館長) 保坂健二朗 アール・ブリュット≠障害者によるアート  アール・ブリュット(Art Brut)とは、フランスのアーティストであるジャン・デュビュッフェ(1901-1985)が1945(昭和20)年ごろに生みだした言葉=概念です。日本語では〈なまの芸術〉や〈き4 の芸術〉と訳されます。英語では直訳すると“Raw Art”となるのですが、いろいろな経緯があって“Outsider Art”が対応する言葉として定着しています。  どのような作品が〈なま〉だと感じられるのか。デュビュッフェの言葉を借りつつまとめると、それは、芸術的文化によって傷つけられていない人たちが、主題や素材、描き方を自分自身の奥底から引き出してきた場合、かつまた、流行や評価を気にせず衝動的につくられた場合、となります。  このように、デュビュッフェ自身によるアール・ブリュットの説明のなかに、〈障害者〉という言葉はみえません。したがって、いま日本で広まってしまっている「アール・ブリュットとは障害者によるアートのことである」という考え方は誤りだといえます。しかし、彼が実際に集めた作品のなかには、精神障害のある人の作品が多数含まれていたのも事実です。20世紀はじめから、ヨーロッパの精神科医たちは、患者たちの作品に独創性や芸術性を見出し、それを展示や論文の形で発表していました。それがデュビュッフェの関心を惹いたわけです。これに対して日本の場合は、2010年代以降、知的障害のある人たちを支える福祉の現場から、「ここにもアール・ブリュットがある!」と声をあげ、自ら展覧会を組織していったことを特徴としています。 なぜ滋賀県立美術館はアール・ブリュットを収蔵するのか?  筆者が勤務する滋賀県立美術館は、2016(平成28)年にアール・ブリュットを収集方針の一つに加えました。2023(令和5)年には公益財団法人日本財団から作品の寄贈を受けました。それらは、2011年にパリで開催された「アール・ブリュット・ジャポネ」展という、日本のアール・ブリュットが世界的な関心を集めることになったきっかけの一つに出品された作品の一部でした。その結果、2024年12月現在の総数は731点となっています。  アール・ブリュットを収集方針に掲げている公立の美術館は、いまのところ日本では当館のみです。滋賀県では、戦後間もない時期から、近江学園など県内の福祉施設で、障害者による創作活動の支援が行われていました。また、制作の支援にあたった人たちに理解があり、個々人の個性や創造性を活かすという雰囲気がありました。そうやって生まれた作品の一部が、やがてアール・ブリュットとして国内外で紹介されるようになります。2013年には、世界最大のアート・イベントであるヴェネチア・ビエンナーレに、澤田(さわだ)真一(しんいち)(1982-)の作品が出品されました。こうした背景があって、滋賀県立美術館は2016年に収集方針に新機軸を追加したのです。 アール・ブリュットを収蔵することのむずかしさ  ただ、美術館にとってアール・ブリュットの収蔵が簡単でないことはいっておかなければなりません。  例えば、美術館は基本的に、収蔵品を永続的に保管することを前提としています。それに対してアール・ブリュットの作品では、マジックやセロファンテープのような身の回りにある素材を使うことがままあります。それらは、時間が経つと激しく退色したり変質してしまったりする素材です。数十年後に色が変わってしまうかもしれない作品の収蔵には慎重になるべきでないかという意見は、日本の同業者からよく聞きます。  私見では、そうやって躊躇してしまう理由の一つに、日本の美術館のほとんどに保存修復の専門家がおらず、本来、美術史の研究者に過ぎない学芸員がそれをになっていることがあると思います。また、少なくない公立美術館が、収集のための予算が長い間ゼロになっているために、現代美術の収蔵ができていないということも遠因としてあるでしょう。現代美術の収蔵には、価値が定まっていないものの評価という側面もあります。そしてそんな現代美術には、アール・ブリュットと同じように保存に向かない素材を使っているケースも多々あるのです。日本の美術館では、文化財保護の観点が強すぎるので、保存が最重要視されがちなのですが、それと同じように評価という機能も根幹にはあるということを忘れてはならないでしょう。 海外の事例にみられる新しい潮流  最後に、海外の美術館ではどのような状況になっているか、少しだけご紹介しましょう。  もっとも注目されるのは、2021年に、パリの国立近代美術館(いわゆるポンピドゥー・センター)がabcdコレクションの一部を受贈したことです。それは242作家921点と大規模な寄贈でした。日本の作家も16人含まれており、そのなかには、やまなみ工房(滋賀県)、工房集(埼玉県)、しょうぶ学園(鹿児島県)といった福祉施設で制作をしている作家も含まれています。2025年6月からは、パリのグラン・パレで大規模なアール・ブリュット展が開催される予定です。  また2023年10月、サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)が、クリエイティブ・グロウス・アート・センター(CGAC)という、障害のある人のためのスタジオを運営している非営利の団体とパートナーシップを結んだことも興味深い事例です。記者発表では、SFMOMAがこれから2年の間に、100点以上の作品を収蔵するとともに、展覧会を二つ以上開催する計画が発表されました。  興味深いのは、彼らは、アール・ブリュットやアウトサイダー・アートといった言葉は使わず、「障害とともにあるアート(Art with Disabilities)」という言葉を使っている点です。これは、障害のある人の創作を、制作、展示、販売と広い角度からサポートしているCGACのコンセプトでもあります。CGACは、そこから生まれた作品がアール・ブリュットと呼ばれること自体を否定はしません。しかし、自分たちから発信する際には「障害」という言葉を強調することで、障害があるからこそすばらしいアートが生まれる可能性もあること、ひいては、障害に対して積極的かつ肯定的な関心をもってもらうことを望んでいるようです。  パリやサンフランシスコから、日本は何を学べるのかがいま問われていると思います。 保坂 健二朗 (ほさか けんじろう)  滋賀県立美術館ディレクター(館長)。専門は近現代芸術。企画したおもな展覧会に「フランシス・ベーコン展」(東京国立近代美術館、2013年)、「人間の才能 生みだすことと生きること」(滋賀県立美術館、2022)、「AWT FOCUS 平衡世界 日本のアート、戦後から今日まで」(大倉集古館、2023)など。  これまで、内閣府「障害者政策委員会」専門委員、文化庁・厚生労働省「障害者文化芸術活動推進有識者会議」委員、厚生労働省「障害者の芸術活動支援モデル事業評価委員会」構成員、東京都「東京芸術文化評議会アール・ブリュット検討部会」専門委員、文化庁「文化審議会 文化経済部会」臨時委員、同「文化審議会 文化経済部会 アート振興ワーキンググループ」専門委員などを歴任。国立新美術館評議員や公益財団法人大林財団「都市のヴィジョン」推薦選考委員も務める。おもな著作に『アール・ブリュット アート 日本』(監修、平凡社、2013年)など。