エッセイ てんかんとともに 公益財団法人日本てんかん協会にご協力いただき、「てんかんとともに」と題して全5回シリーズでお一人ずつ語っていただきます。 楽園画家 長沼 慧 (ながぬま けい) 第1回 彩りのある楽園をつくっていく  1990(平成2)年神奈川県川崎市生まれ。小児てんかんを発症し、学校を休みがちな小中学生時代を過ごす。  家業を継ぐため鍼灸師となるが、恩師のすすめで、「ピースボート」で世界一周をするなかで、夢を諦めず画家を志すことを決める。  2010年から展覧会を始め、2016年から楽園をテーマに動物や植物を描く「楽園画家」に。また、ざらざらした下地を板につくった上に、雲母と顔料を混ぜた絵の具で、薄く滲ませ重ね描く“世界でたったひとつのオリジナル技法の絵画”「雲母壁面画(きらへきめんが)」という、独自の技法による新しいアート作品を生み出した。  横浜から出港する船に乗り、地中海を横切り世界一周したのが13年前。その当時から私は画家を目ざしていたが、父の「画家では食べていけないから手に職をつけて活動したら」というアドバイスのもと、美術大学への進学を諦め、鍼灸の学校に進学し鍼灸師の仕事をしていた。学校を卒業して臨床を1年していたときに、船内の治療院の運営を任されることになり、3カ月の船上生活が始まった。好奇心旺盛ではあるが、元々体力がなかった私は一度両親に反対されたが、どうしても世界一周をしたいという想いがあったため、両親を説得し乗船することになった。  船での生活は何もかも手探りでたいへんだった。しかし、毎日新しい空と海に出会えるのが楽しくて心が躍った。治療院は船の最上階の近くにあり、毎朝最下階近くの部屋から波によって揺れる階段を上っていくのが私の日課だった。船が動いているときは治療院を開けなければならなかったが、船が港に着く日は治療院も休みとなり、私はクルーとその国の世界遺産や名所を観光したり、港のマーケットで購入したフルーツを持ち寄って浜辺でピクニックをしたりした。休み中も動き回っていたけれど、不思議と日本にいるときよりも疲れは感じなかった。目に映る景色、体験するものがとても新鮮で、体と魂の奥底から生きている喜びを感じていた。  私は小学2年生のときに小児てんかんを発症し、完治をする中学2年生のころまで薬を飲んでいた。薬の影響か授業は頭に入らず、感情のコントロールも上手くできず、同級生と比べて体力がないことにつねに悔しい想いがあった。  家族からすれば私がいつ発作を起こすかわからない状況で、激しい運動や強い刺激を受けさせたくないという気持ちがあったのだと思う。自分がやりたいことに対して両親からの制限があり、そのたびに私は「自分の人生なのにやりたいことをできず終わってしまうのだろうか」と子どもながらに絶望していた。そして、その想いはてんかんが完治した後も、まるで呪縛のようにつきまとっていた。鍼灸師として乗船したときもそうだった。すばらしい体験や美しい景色を観ても「画家として生きたい」という想いが心の中につねにあった。  海外での最後の寄港地を出発して、日本に戻った後の進路をいろいろと考えていたときだった。船上で行方不明者が出た。その後見つからなかったためおそらく船から落ちたのだと聞いて、私は死はつねに身近にあるものなのだと意識した。「生きている時間には限りがある、私は自分が心からやりたいことをやり、自分の生を全うしたい」と強く想った。  船上で決意を固めて日本に帰国後は、鍼灸師を辞めて画家になる道を模索した。そのなかで、百貨店とギャラリーが主催する若手アーティストの育成オーディションに入選し、そこから画家としてデビューを果たした。最初は絵が売れずバイトとのかけ持ちで時間をつくりながら制作をしていたが、近年ようやくグループ展から個展になり、そして今年は、初めて私の絵が売れた百貨店の会場で、8年越しとなる個展が決まった。それが偶然なのか必然なのか、13年前に乗船した日は私の誕生日だったのだが、個展の開始日もまた私が生まれた日になった。  人生に無駄なことなどない。当時、自分がてんかんの薬の反動で悩んでいたことも、体力がなく悔しい想いをしたのも、いまの自分の力になっている。私の絵のテーマは「楽園」だ。どんなに凄いと思う人であっても他人の人生を生きることはできない。一度しかない人生をさまざまな理由をつけて諦めないでほしい。人は想いを具現化できる力がある。人生を謳歌して自分の世界を楽園にするのだ。そういう想いを込めてこのテーマに決めた。絵は、生きることに必要とされる衣食住には入らないが、私は心が満たされなければ生きているとは思わない。絵は空間を彩る窓になる。絵を飾ったことがないという人にも、ぜひ新しい景色を体験してほしい。私の作品たちが、だれかの日常に彩りをもたらす一場面になれたらと想いながらこれからも制作していく。