この人を訪ねて 一人暮らしをするダウン症の娘のこと 書家・随筆家/書家 金澤翔子さんの母 金澤泰子さん かなざわ やすこ 書家。随筆家。ダウン症の書家と知られる金澤翔子の母。明治大学卒業。柳田流家元に師事。東京都大田区に「久が原書道教室」を開設。ダウン症の娘を授かり絶望の淵から「希望」を探し続けた母娘二人三脚の軌跡をはじめ、地域とのかかわりや、娘の一人暮らしの様子から障害者の自立をテーマにした講演は高い定評がある。現在はテレビやラジオを中心に多数のメディアに出演する傍ら、随筆家としても活躍し執筆著書は30タイトルを超える。東京芸術大学評議員、日本福祉大学客員教授。 「30歳で一人暮らし」宣言 ――金澤(かなざわ)泰子(やすこ)さんの娘・金澤(かなざわ)翔子(しょうこ)さんは、ダウン症の書家として国内外で大活躍する一方、8年前から一人暮らしをされているそうですね。 金澤 翔子は20歳のとき、周囲に「30歳になったら一人暮らしします」と宣言してしまいました。本当に30歳になって「一人暮らしは?」という質問が周りの方からきて、「やるだけやってみよう」と私も重い腰を上げました。当然不安でした。ダウン症の子の一人暮らしなんて聞いたことがありませんでしたから。  大きな不動産屋さんに相談したところ、「障害者の一人暮らしに貸せる部屋はありません」といわれました。あきらめかけていたら、近所の不動産屋さんが「翔子ちゃんのことは任せて」と、運よく実家から徒歩5分のところに見つけてくれたのです。台車で引っ越し作業をすませ、キャリーバッグで玄関を出るとき、私が「行ってらっしゃい」といったら、「お母さま、行ってらっしゃいじゃないでしょ、サヨナラでしょ」といって、それっきり本当に戻ってきませんでしたね。知合いのカメラマンの女性と一緒に日用品をそろえ、お隣さんがごみ出しを教えてくれました。いまは一人で買い物をし、料理や家事をこなしています。  一人暮らしの翔子にとって、この街は、本当によかったと感じます。私たちは翔子が3歳のとき、亡き夫(翔子さんが14歳のときに急逝)にすすめられてここに越してきました。駅前から続く商店街の長さや道幅の距離がほどよく、近所の方とも気軽に声をかけ合える心地よいところです。  翔子は毎日わずかなお金を握りしめて、この街をひた走ります。おじいちゃんおばあちゃん、いろいろな人の店に通います。毎日通ううちに、みんなが「翔子ちゃん」っていいながらいろいろ助けてくれるようになりました。  一人暮らしの孤独な部分もどうやり過ごしてきたのかなと思いますが、彼女なりに8年間やってきたなかで心が深くなった気がします。幼少期から肌身離さず持ち歩いている人形の「メメちゃん」も、大きな心の支えになっているでしょうね。なんでも話せる大事な相棒のようで、ボロボロになるたびに買い替え、いまは4代目です。 「できないだろう」と思わないで ――翔子さんが、文字通り自立生活を成功させた理由は何でしょうか。 金澤 まず翔子自身が幼少期からなんでも一人でやろうとしてきたことです。これは感受性の強い翔子が、母親の気持ちをくみ取っていたからかもしれません。  障害のある子を持つ親は生涯で二度、大きく苦しむと思います。最初は障害児を授かったと知ったとき、「障害は治らないどころか悪くなるかもしれない」といわれ絶望しました。私たち親子は長い間暗いところをウロウロしてきましたが、だんだん脱却できて、やっと幸せだと思えるようになりました。でも今度は、私が彼女を残して死んでいかなくちゃいけない。これが二度目の苦悩で、障害者の親に与えられる大きな問題といえます。  「なんとか自立させなければ」という私の思いを翔子が感じ取り、幼少期からなんでも一人でやろうとしていました。私は料理を教えたことはありませんが、自分から台所に来て私の様子を観察し、そのうち自分でつくるようになりました。時間はかかります。私は一切手出しをせず、別の部屋でひたすら待ちました。そしてできあがった料理は必ず「美味しいね」と一緒に喜んで食べました。いま翔子は料理が大好きで、YouTubeなどを参考につくっているようです。スマートフォンもパソコンも自由自在に操作しています。自転車は小学生のとき、とりあえず買って置いていたところ、ある日一人で乗っていました。  みなさんに伝えたいのは、障害者、特にダウン症の子は「できないだろう」と勝手に思わないでほしいということです。時間はゆっくりでもできる力があります。やってあげることは優しさかもしれませんが、途中で手を出されたら「やられちゃった」って気持ち、私たちにもありますよね。じっくりと待って、そして励ましてください。 「涙の般若心経」 ――あらためて翔子さんが書家になった経緯を教えてください。 金澤 きっかけは10歳の翔子が、後に「涙の般若心経」と呼ばれるようになった276文字の心経を20組くらい、5000〜6000字を書き上げたことです。当時、小学校4年生から特別支援学級のある学校に移るようにいわれた私は、たくさんの友だちと離れて遠くの学校に行かせることがつらく、翔子と引きこもってしまいました。昔から書道に没頭することが多かった私は、10歳の翔子にも般若心経を書かせました。それしか苦しい時間をしのぐ手立てがありませんでした。結果として、翔子が書家になる基礎をつくっていたようです。翔子の書の根本にあるのは、親子の愛です。  ですから、書家への道は偶然です。いまは一人暮らしの成功が、翔子の最大の功績だと思っています。ほかのダウン症児のお母さんたちから「夢にも思わなかったけど、うちの子も希望が持てた」といわれ、実現した人もいます。約40年前、翔子みたいな元気な子が一人でもいたら、当時の私はあんなに苦しまなかったかもしれません。 ――2年前からは、同じ屋根の下に住んでいるそうですね。 金澤 自宅を売却して、この商店街に見つけた土地に家を建てました。1階が画廊、2階が書道教室、3階が倉庫、4階に翔子が住み、5階に私が住んでいます。  じつは、ここの1階を喫茶店にすることを決めたところです。80歳を超えた私の、親としての最後の大きな決断です。翔子はお客さん、特に高齢者が大好きです。以前あった近所の喫茶店でコーヒーを入れる練習をし、店に来る人たちに「いらっしゃいませ」と笑顔を見せていた姿に「これは翔子の天性だ」と感じていました。私たちの喫茶店は、「そこに行けばだれかいるよ」みたいに通えるオープンな雰囲気の場所にしようと思っています。これまで翔子を育ててくれた地域の人たちが「翔子ちゃんを応援するよ」といってくれることが何よりの支えです。  1階の入口の上には「共に生きる」という翔子の書の看板が掲げられています。この作品は東日本大震災の後、テレビで雪の降る被災地を見て「助けに行く」と泣く翔子に、「心で寄り添っていこうね」といい聞かせ、その思いを表現したものです。これからは翔子自身が、この街と喫茶店で「共に生きる」を体現していけると信じています。