エッセイ てんかんとともに 公益社団法人日本てんかん協会にご協力いただき、「てんかんとともに」と題して全5回シリーズでお一人ずつ語っていただきます。 第3回 ありのままの自分で生きていく  1988(昭和63)年北海道苫小牧(とまこまい)市生まれのパワフル・ソウルフル・ハートフルシンガー。中学生のころ、はじめててんかん発作が起きる。幼少期からアイスホッケー、バスケットボール、ウエイトリフティングを経験し、日本体育大学卒業後、音楽活動をスタート。「日比谷音楽祭2022」にて、二大音楽プロデューサーの亀田(かめだ)誠治(せいじ)氏、武部(たけべ)聡志(さとし)氏とセッションを果たす。苫小牧市を拠点とする、オリンピック選手も輩出している強豪女子アイスホッケーチーム「道路建設ペリグリン」の応援歌を担当。現在は東京都、千葉県をメインに活動中。 シンガー 水野 佳 (みずの けい)  私は北海道苫小牧市で生まれ、幼少期からスポーツばかりをしていた。スカートをはいても「ぼく」と呼ばれる短髪ガールだった私は、兄の影響でアイスホッケーを始めた。当時は、オリンピック選手を目ざしていた。  そんなスポーツ漬けの中学生時代に、私はいきなり倒れ、気がつけば保健室だった。それが、初めてのてんかん発作だった。  それからは、自宅や通学途中でも発作を起こすこともあり、泡をふいたり白目を剥いたりする私に、母も怖く感じていたことと思う。  高校生になると、発作は起きなかった。このころは体育教諭を目ざし、アイスホッケーに加えウエイトリフティングにも没頭していた。当時の北海道記録も出し、日本体育大学進学のため上京した。このとき主治医と話し、服薬治療をやめた。  そして、不安と憧れのなかで東京生活が始まった。蒸し暑い環境、厳しい寮生活、初めての自炊…。辛いことも多く、忙しい生活のなかで再びてんかん発作が起きた。また、服薬生活がスタートした。  ある日、友だちと行ったカラオケで、私が歌ったSuperflyの「愛を込めて花束を」で、友だちが泣いた。“コレだ!”と感じた。“自分の歌で人を感動させたい!”。元々、歌うことは好きだった。私のやりたいことが「音楽」に変わった瞬間だった。  大学を卒業し、右も左もわからないまま「歌わせてください!」と、六本木のライブバーに飛び込んだ。14年前の夏のことだ。ここで、たくさんの音楽仲間ができた。  そして、音楽活動のためのバイト漬け生活のなかで悪夢が起きた。8年前の夕方、いつも通り駅のホームでベンチに座り電車を待っていた。次の瞬間、警察官、救急隊員、駅員が私を囲んで見下ろしていた。私は、“やってしまった…”と罪悪感でいっぱいになった。てんかん発作が起きたのだ。あろうことか、フラフラ歩き出し、ホームから線路に落ちてしまったのだ。運よく電車と線路の間に身体が入り助かったが、顎から落ちたため顎は真っ二つ、顎(あご)の両関節や足、前歯も折れた。  発作がおさまると、いつも意識がもうろうとし、軽いパニック状態になり、前後の記憶がなくなる。少し経つと頭が割れるほど痛く、嘔吐をする。もう地獄だ。  意識がもうろうとするなかで、警察官がいった。「本当は死のうとしたんじゃないの?」。“それ、いまじゃねーだろ。”と心のなかで呟いた。発作中は、自分の意思ではない行動をすることが多い。日ごろの生活が、心では「大丈夫」と思っていても、身体はパンク寸前だったのかもしれない。  数週間の入院生活中に、メンタルがズタボロにやられた。周りに迷惑をかけた罪悪感。口が上手く開かず、これまで通り歌えるかの不安。一方で、メロディーは降ってくる。音楽はいつも近くにいてくれた。そして、それは私の生きがいとなった。  私は、無理しなければ普通に日常を暮らせる。ところが、私は「あれもやりたい!これもやりたい! この瞬間を大事にしたい!」と思うタイプで、自分で自分のコントロールがむずかしい。繊細に感じる部分もあり、こだわりの強いところがある。  考えすぎて睡眠が浅くなる→身体が休まらない→発作が起きる。てんかん発作の誘因は心理的な要素が少なくないと思う。家族、恋人、友だちなど、身近な存在でも程よい距離感が大切。そして、自分にもっと寛大になって、自分もてんかんを受け入れることが大切。  この事故で薬を変え、いまは発作も起きていない。リハビリをがんばり、歌えるまでにもなった。これも多くの人からのサポートがあったからこそ。てんかんがあることを隠していたときもあったが、いまはありのままの私をみんなに伝えたい。スポーツで鍛えた根性で、音楽を通してすべての人にてんかんと生きる私を表現していく。