エッセイ てんかんとともに 公益社団法人日本てんかん協会にご協力いただき、「てんかんとともに」と題して全5回シリーズでお一人ずつ語っていただきます。 映画監督 和島 香太郎 (わじま こうたろう) 第4回 眠れぬ夜はだれのせい  1983(昭和58)年、山形県酒田市生まれ。映画監督。代表作に『梅切らぬバカ』(2021年公開)がある。15歳でてんかんと診断を受けるが、投薬治療で発作を抑制しながら暮らしている。また、自主制作のネットラジオ「てんかんを聴く ぽつラジオ」も不定期で配信中。患者や家族、医療従事者らを招き、てんかんを巡るさまざまな話題について話し合っている。  撮影が終わったのは深夜。はじめて商業映画を監督することになった私は、毎晩助監督に呼び出されてダメ出しを食らっていた。「もっと効率よく撮れ」という。なにしろ、30秒に満たない場面をいろいろなアングルから撮ろうとして一時間半もかかっていたのである。「超低予算の現場で時間もかぎられているのだからシーンごとカットしろ」とまでいわれていたが、聞く耳を貸さずに現場に臨んでしまった。  ようやく宿泊施設に戻って布団に入ると、背中が痛かった。閉園した保育園を借りて寝泊まりしていたので、床はフローリングだった。スタッフ全員が同じ部屋に雑魚寝しているので、いびきも気になる。翌朝も早いが、あと何時間眠れるだろう。目が覚めたときに、発作が起きませんように……。  私にはてんかんという持病があり、15歳で診断を受けて以来投薬治療によって発作を抑制していた。しかし、疲労と睡眠不足が蓄積すると、発作の再発リスクが高まる。手がビクッと動く程度の小さい発作ならすぐに治まるが、大きな発作の場合は全身がガクガクとけいれんした後、嘔吐して意識を失う。直近の記憶を一時的に失うため、撮影中の映画の内容を思い出せなくなるのが致命的だ。  自主映画を撮っていたときに、大きな発作を起こしてスタッフを驚かせたことがあるが、商業映画の現場で同じことが起きれば、出資者や制作会社に損害を与えてしまう。私のようなでくのぼうでも、現場にいなければ撮影は始まらない(と信じたい)。撮影のために拘束していた役者とスタッフの人件費、ロケ地の使用料や機材費も無駄になるだろう。予算を管理するプロデューサーやスケジュールを管理する助監督の立場になって考えれば、そうしたリスクは知っておきたいはずだ。  しかし、自分本位な私は、病気を理由に降板を言い渡されることを恐れて黙っていた。かつて友人にてんかんがあることを伝えたことはあるし、嫌な顔をされた経験もないが、これは仕事であり、私が対峙するのは組織である。だれがどんな反応を示すのかが読めない。社会に偏見が根づいていることを言い訳にすれば、病気を伏せて働くことも肯定できそうな気がした。けれど、劣悪な労働環境で懸命に働くスタッフを見ていると、罪悪感が募った。彼らは、私が倒れて現場が崩壊するリスクが高まっていることを知らない。  結局大きな発作は起きなかったが、再び同じような現場で映画を撮る自信はなかったし、その資格もないと思った。というより才能がないことがバレて、仕事を依頼されなくなった。  「これからどのように働いていけばいいんでしょうか」。てんかんの主治医に相談すると、患者同士の交流会への参加をすすめられた。実際に足を運んでみると、私のように病気を伏せて働く人が多く、それぞれに悩みを抱えていた。同時に、病気を開示して働く人もいた。詳しく話を聞いてみると、病名ではなく症状を伝えることに意義があるという。病名自体が何をさしているのかわからないし、患者によって症状も異なるためだ。私のように全身がけいれんして倒れる患者もいれば、目を開けたまま意識や動作が停止する患者もいる。さらに発作時の対応を伝えておけば、周囲の混乱を最小限に抑えることができる。私は、自分の症状を端的に伝える練習を始めた。  現場復帰は、ドキュメンタリー映画の編集の仕事だった。自閉症スペクトラムの初老の男性の暮らしを追った内容である。監督も40歳を過ぎてADHDの診断を受けたばかりだったこともあり、私のてんかんとそれに付随する困りごとに、関心を持ってくれた。病や障害は人と人との関係を断ち切ってしまうものだと思い込んでいたが、それは私の勘違いだったのかもしれない。  やがて、7年ぶりに劇映画の監督を務める機会が巡ってきた。前回より予算は増えたものの、撮影期間は10日間と短い。前回の失敗をふまえて、シーン数やカット数を減らした。また、てんかん発作時の対応をプロデューサーと助監督に伝え、寝不足にならないスケジュールが組まれた。「作品のためですから遠慮はなしです」という返事が心強かった。一日の撮影を終えて戻った先は、ホテルの個室。ふかふかのベッドに沈み込んで眠った。