私のひとこと 他人の大人 脚本家・舞台手話通訳家 米内山陽子  わたしの家には、しばらく電話がなかった。  小学校の連絡網には敷地内別居している親戚の家の電話番号が載っていた。電話が一般家庭にも広く普及している、1980年代のことである。  耳の聞こえない両親にとって、電話は不必要なものだったからだ。  外からの電話は敷地内別居している親戚が取り次いでくれ、両親に伝言をメモで残してくれた。わたし宛にかかってくる電話は、離れのわが家まで親戚が呼びに来た。だから、わたしの家の勝手口の鍵はいつでも開放されていた。  やがてミニファクスと呼ばれる家庭用ファクシミリが導入され、通話するための電話がやってきたのは家族だけで暮らし始めた1989(平成元)年だった。  わたしは電話が嫌いになった。  基本的に、親はわたしを通訳として扱わなかった。自分が必要なことはほとんど筆談でこなしていた。でも、電話だけはどうしようもない。親の代わりに受話器を取り、親に何かを伝えたい大人の言い分を言付(ことづ)からなければならなかった。  むずかしい言葉、前提のわからない言付け、名乗りもしない怒号。顔も知らない他人の大人の言葉は、わたしをひどく理不尽な気持ちにさせた。  直接いえ。直接いいに来い。ずっとそう思っていた。  他人の大人は理不尽なものだと思い知らされた。  そして社会を見渡せば、そんな理不尽な他人の大人が大多数を占めて社会を運営していることに、深く深く絶望した。  他人の大人は善意の顔をしていう。「かわいそうにね」、「ご両親を助けてあげてね」、「あなたがしっかりしないと」、「えらいね、親の役に立っているね」。  そして同じ口でいうのだ。「あの子は親が障害者だから友だちになるな」、「親が障害者だと変わった子になるんだな」。  他人の大人は耳の聞こえる人ばかりではなかった。耳の聞こえない他人の大人も「君は聞こえる体で産んでもらったんだから通訳して親に恩返しをしなさい」と平気でいってきた。「本当は耳の聞こえないもの同士の方がわかり合えるんだ。君の親は君が聞こえてガッカリしたんじゃないかな」とまでいってきた。  全部全部ふざけるなと思った。  何かいってくる奴は何もしてくれない。いいたいだけの奴が本当に嫌いだった。  その一方で「親はわたしが守らねば」と思わされた。  当時の社会にはまだ「情報保障」という概念もなく、親が止めてもどうしようもなく通訳をせざるを得ない場面は多々あった。  そして他人の大人は容易に褒(ほ)めるのだ。「えらいね」と。  その言葉は当時の幼いわたしに甘く響いた。親を助けていると褒められる。自分はしっかりしている「よい子」なのだ、と。何もしてくれない他人の大人が勝手に求める「障害のある親をもつ障害のない子ども像」をどんどん内面化していった。  内面化した「理想の子ども像」と本来の自分とのギャップは、反抗期という形で爆発した。  親とは毎日手話で喧嘩をしていた。当時住んでいたマンションの壁を蹴って大きな穴を開けたこともある(いま思えば、反抗期にのびのび反抗できる自己を親が育ててくれていたのだとわかる。もっと追い詰められたり、本来の自己が素直であったりすれば、反抗すらできなかったかもしれない)。  わたしはだれよりもしっかりした人間でなくてはならない。  わたしはだれよりもちゃんとした人間でなくてはならない。  だれよりも品行方正で、だれもが認めるよい人間でなければならない。  そうでなければ他人の大人に「やっぱり障害者が育ててるからダメな人間になるんだ」などといわれてしまう(これに似たことを元恋人に実際にいわれた。そいつとは別れた)。  行き場のないフラストレーションを全部親と自分のせいにしていた。  他人の大人が大多数を占める社会の方に問題があるのだとわかったのは、わたしが大人になってからのことである。  だけど、その社会を構成する他人の大人たちは、自分たちの社会に問題があるとはなかなか自認してくれない。マジョリティの特権というやつだ。「知らずにすんでいる特権」というゲタを履かされているが、透明なので見えないのである。  その透明なゲタで、当事者やその家族、支援者などを踏みつけながら生きているんだろう。  もちろんわたしも、だれかにとって他人の大人であるから、無意識にゲタを履いているんだろう。  自分の特権性(加害性といい換えてもいいだろう)に向き合うことは、心情的にかなり苦しいことだというのは理解できる。  理解できるが、「じゃあしょうがない」で片づけるわけにはいかない。  その特権性でもって、本来社会がになうべきケアを子どもに押しつけているのだ。  「家族のことは家族で解決する」。こんな美辞麗句で透明化されて苦しんでいる子どもが、いまだにたくさんいる。  子どもが子どもらしく生きるために、家庭は安心の場であってほしい。  そして、障害のある親だって同じだ。  なぜ障害があるだけで、何もかもができないと思われてしまうのか。  わたしはわたしの親を見ていて思う。わたしの親はとても明晰で論理的で外向的な人たちだ。自分一人でどこでも出かけるし、だれとだってコミュニケーションを試みるし、なんでもできる。父も母も、自ら社会に飛び込んで道を開いてきた人だ。  ただその場に音情報だけしかないときに、サポートが必要なだけなのだ。  そのサポートは、社会からもたらされるべきであると思う。  スムーズなサポートを実現するテクノロジーの進歩は目覚ましい。より安価でより手軽になっていっている。スマートフォンやアプリなどを例にとっても、日々更新されている。それをどのように使うのか、質が問われる時代になってきた。当事者とともに考え、サポートの質もより高く合理的になっていけるはずだ。  共生社会、インクルーシブ、ダイバーシティ……。よく目にする美しい言葉たちに、実感をもちたい。透明化された人々に、色を甦(よみがえ)らせたい。生きていていいんだと、ここにいていいんだと、そして幸せを追求していいんだと、本当の意味で「だれもが」思える社会になるといい。  それは、わたしたち「他人の大人」にしかできないことだと思う。 プロフィール 米内山陽子 (よないやま ようこ)  脚本家・舞台手話通訳家。広島県三原(みはら) 市出身。ろう両親のもとに生まれた聴者(CODA)で、ネイティブサイナー(手話を母語とする人)。  脚本家として舞台・映画・アニメなどに活動の幅を広げ、舞台手話通訳・手話指導としても活躍中。  代表作は、アニメ「スキップとローファー」(脚本)、アニメ「ゆびさきと恋々」(シリーズ構成・脚本・手話監修)、ドラマ「デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士」(CODA考証・手話指導)など。