クローズアップ 障害のある人とスポーツ 第1回 〜パラスポーツの歴史と概要〜  「東京2020パラリンピック」を契機に、注目度があがりつつあるパラスポーツ。本連載では、パラアスリートの活躍をはじめ、働きながらスポーツに励む障害のある人や、パラスポーツを応援する職場、企業や団体の活動などを紹介します。  第1回は、パラスポーツについて造詣の深い日本福祉大学教授の藤田紀昭さんに、「パラスポーツの歴史と概要」について執筆していただきました。 執筆者プロフィール 日本福祉大学 スポーツ科学部教授 公益財団法人 日本パラスポーツ協会 技術委員会副委員長 藤田(ふじた) 紀昭(もとあき)さん  1962(昭和37)年香川県生まれ。筑波大学大学院修士課程修了。2017(平成29)年より、日本福祉大学スポーツ科学部学部長。研究分野は、体育学・障害者スポーツ論。文部科学省スポーツ庁「オリンピック・パラリンピック教育に関する有識者会議」委員などを歴任。 パラスポーツとは?  パラスポーツ。聞きなれない言葉かもしれませんが、これまで「障害者スポーツ」と呼ばれていたものとほぼ同じ意味の言葉です。「パラ」には「もう一つの」という意味があり、もともとあるスポーツのルールや、やり方を修正したり、参加をサポートする用具を使ったりして、障害のある人も参加できるよう工夫された「もう一つのスポーツ」という意味です。もちろん、そうした修正などしなくてもよい場合もあります。パラリンピックのような高い競技レベルのものから、日常的に楽しむレベルのものまで、また、目的も各種大会でよい成績を残すことから、リハビリや健康のため、あるいは仲間と楽しむためのものまでさまざまです。参加形態も障害のある人だけが参加するものもあれば、障害のない人とともに楽しむインクルーシブなものまで多様です。  視覚障害、聴覚障害のある人のスポーツは明治、大正期から学校のなかで工夫した体育として実施されていましたが、学校教育の枠を超えてスポーツとして発展する契機となったのは、1964(昭和39)年に開催された東京パラリンピックといってよいでしょう。これを機に現在の公益財団法人日本パラスポーツ協会(JPSA)の前身の組織が創設され、わが国のパラスポーツの発展の起点となりました。その後、1998(平成10)年の長野冬季パラリンピック、2021(令和3)年の東京2020パラリンピックを経て、わが国のパラスポーツは発展してきました。  2025年には東京でデフリンピック(聴覚障害者の国際スポーツ大会)が開かれることになっており、聴覚障害者のスポーツの発展が期待されるところです。 パラスポーツの種類と現状  現在、夏季パラリンピックには陸上競技や水泳、車いすバスケットボールなど、おなじみの競技からボッチャやゴールボールといったパラリンピックに特有のスポーツなど22競技が、冬季パラリンピックではアルペンスキーやスノーボードなど6競技が実施されています。しかし、パラスポーツはこれにとどまるものではありません。日本パラスポーツ協会にはこれらの競技協会を含め78の競技団体が登録されています。登録されていない競技団体やレクリエーションスポーツを入れると数えきれないほどのパラスポーツが存在しているのです。スポーツはむずかしいと思っている人も自分に合ったスポーツを見つけられるはずです。  2022年度のスポーツ庁の調査(※)では週に1日以上スポーツ(散歩やウォーキング、軽体操などを含む)を実施している20歳以上の障害者は30.9%という結果が出ています。20歳以上の人全体の実施率が52.3%であることを考えると明らかに低いということになります。実施率が低い原因はさまざまですが、そもそも運動やスポーツに関心のない人が多いことのほかに、自分にできるスポーツがない、指導する人がいない、サポートする人がいない、自分にはスポーツはできないと思い込んでいることなどが考えられます。国もこれらの課題を解決し、少しでもスポーツをする障害のある人が増えるよう、障害者スポーツ推進プロジェクトなどの事業を展開しています。 広がるパラスポーツ  東京2020パラリンピックを契機として、アスリート雇用(企業に社員として籍を置きながら競技に打ち込むことができる雇用形態)される障害のある人が増えました。また、一般の雇用形態でも大会遠征のための費用を出したり、大会や合宿に仕事を休んで参加することを認めたりする企業も増えました。10年前では考えられないような環境ですが、これらは一部のトップ選手に限られたことです。障害のある多くのスポーツ愛好者は仕事の合間を縫って練習をしたり、大会に出場したりしています。これらは障害のないスポーツ愛好者も同じでしょう。  現在、スポーツ庁では各都道府県や政令指定都市に一つはパラスポーツの拠点となる機能を持ったスポーツセンターをつくろうとしています。施設を新たにつくるというよりは、そうした機能を、現在あるスポーツ施設に持たせるといった考え方です。スポーツに関心が薄い人や、中途で障害を負った人などにスポーツをする方法を教えたり、その人の住む地域のスポーツ施設でスポーツができたりすることを目ざしています。  こうした拠点施設を利用して多くの人がスポーツに関心を持ち、実践できるようになることが期待されます。また、障害のある人とない人が一緒にスポーツを楽しめるような工夫も促進されつつあります。さまざまな場所で、さまざまな機会に、さまざまな人がスポーツを実践できるようになることが期待されます。 *****  連載第2回は3月号に掲載予定です。仕事と両立させながら競技に取り組んだパラアスリートの山田(やまだ)拓朗(たくろう)さんにお話をうかがいます。 ※『「障害者スポーツ推進プロジェクト(障害児・者のスポーツライフに関する調査研究)」報告書』(令和4年度)30ページ (https://www.mext.go.jp/sports/content/20230501-spt_kensport02-000029224_87.pdf) 『令和4年度「スポーツの実施状況等に関する世論調査」』(https://www.mext.go.jp/sports/b_menu/toukei/chousa04/sports/1415963_00008.htm) 日本におけるパラスポーツ年表 1928年 全日本盲学校体育連盟設立 1961年 第1回大分県身体障害者体育大会開催 1963年 日本ろうあ体育協会設立 1964年 国際身体障害者スポーツ大会(第2回夏季パラリンピック)開催(東京) 1965年 財団法人日本身体障害者スポーツ協会設立。第1回全国身体障害者スポーツ大会開催 1974年 大阪市障害者スポーツセンター開設(わが国初の障害者スポーツセンター) 1985年 財団法人日本身体障害者スポーツ協会公認身体障害者スポーツ指導者制度確立 1992年 第1回ゆうあいピック(全国知的障害者スポーツ大会)開催 1998年 第7回冬季パラリンピック開催(長野) 2001年 第1回全国障害者スポーツ大会(全国身体障害者スポーツ大会とゆうあいピックを統合)開催 2008年 第8回全国障害者スポーツ大会で「精神障害者バレーボール」が正式競技となり、精神障害者が参加可能に 2011年 スポーツ基本法施行、障害者スポーツの推進が明確化 2015年 スポーツ庁設置 2021年 第19回夏季パラリンピック開催(東京) ※筆者作成 パラスポーツ ◆ミニ知識◆ 「日本のパラスポーツの父中村裕博士」 (写真提供:社会福祉法人太陽の家)  大分県出身の外科医・中村(なかむら)裕(ゆたか)博士は、1958年から国立別府(べっぷ)病院(現 独立行政法人国立病院機構別府医療センター)の整形外科に勤務していました。  1960年、リハビリテーション研修で訪れたイギリスの「ストーク・マンデビル病院」で、国立脊髄損傷センター所長、ルートヴィヒ・グットマンと出会います。グットマン博士は脊髄損傷患者に対し、手術をするよりも、スポーツを通して残された能力を最大限に活かすという治療を推進していました。中村博士は、多くの脊髄損傷患者が、身体を動かす訓練を経て社会復帰を果たしていることを目の当たりにし、大きな衝撃を受けました。  中村博士は日本に戻るとすぐに、グットマン博士と同じ治療方法を実践していきます。義肢装具士や看護師を回診に加え、リハビリテーションにおけるスポーツの有効性を熱心に説き続けたのです。そして1961年には、全国初となる障害者のスポーツ大会「第1回大分県身体障害者体育大会」を開催、1964年には日本代表選手団団長として東京パラリンピック開催を実現させました。  翌1965年、障害者の自立を支援し、社会復帰させることを目的とした『太陽の家』を故郷の大分県別府市に設立。「No Charity, but a Chance!(保護より機会を!)」という理念のもと、57歳でこの世を去るまで、その支援活動に全霊を注ぎ続けました。 (編集部) ※参考資料:岡邦行著『中村裕 東京パラリンピックをつくった男』(ゆいぽおと/2019年)