エッセイ 印象深い海外の視覚障害者 第1回 アンゲリーカ・ドクヴィッツ(ドイツ) 日本点字図書館 会長 田中徹二 田中徹二(たなか てつじ)1934(昭和9)年生まれ。1991(平成3)年、社会福祉法人日本点字図書館館長に就任。 1993年、国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)の「アジア太平洋障害者の十年」のスタートを機に、アジア盲人図書館協力事業を立ち上げた。マレーシアを起点に、アジア太平洋諸国で点字印刷がないところを対象に、点字印刷技術を指導。2004年からは視覚障害者個人向けに、パソコン技術指導も行っている。2001年4月から2022(令和4)年3月まで日本点字図書館理事長、現在は会長。  初めてアンゲリーカに会ったのは1998(平成10)年だ。ドイツのベルリン森鴎外(もりおうがい)記念館の職員である妻の友人から、「日本語の勉強に来ている盲女性がいるので会ってみないか」と紹介された。その記念館で会うと、20代後半の元気のよい女性で、りっぱなシェパードの盲導犬ウタを連れていた。  彼女はベルリン盲学校の卒業生で、ロベル ト・コッホ研究所で教授の秘書をしていた。 コッホ研究所は、かつて森鴎外や北里柴(きたざとしば)三郎(さぶろう)なども留学したところだ。彼女の仕事は、主として口述筆記であり、書類、手紙など録音したものも聞き取り、パソコンで文書に仕上げていた。欧米ではパソコンが普及する前から、タイプライターが使われていて、視覚障害者の職業の一つとして文書作成があった。アンゲリーカも盲学校で訓練を受けたという。  最初に会ったとき、ベルリンのテレビ塔に私たち夫婦を連れて行ってくれたことは忘れられない。入り口でなんと盲導犬拒否にあったのだ。彼女は抗議して、あちこちに電話もしたが、あきらめるしかなかった。私たちの帰国後、彼女は盲人協会やマスコミに連絡をとったようだ。翌年、ベルリンに出かけてアンゲリーカと再会したとき、テレビ塔に再び出かけた。すると今度は入場できたのはいいが、一般の見学者とは別のルートだった。私たちだけが別扱いにされたのだ。ドイツでも視覚障害者はこんな待遇を受けるのかと驚いた。日本でもドイツでも、当事者自ら動くことで壁を一つひとつ壊していくことは同じだが、その対処方法の違いには疑問を持った。  二度目の訪問の際、アンゲリーカは自分の職場へと案内してくれた。教授の広い部屋の一角で、秘書である彼女と盲導犬のスペースもとても広かった。点字の資料がたくさんあり、パソコンを前に彼女が見えなくても問題なく仕事をこなす様子がよく伝わってきた。  ベルリンの暗闇レストランにも一緒に出かけた。ドイツは「ダイアローグ・イン・ザ・ダーク」の発祥の地でもある。ハンブルクのハイネッケ博士が提唱し、暗闇の空間のなか、視覚障害者の誘導で、一般の人々が視覚以外の感覚を使ってさまざまなシーンを体験するイベントだ。日本にも導入されている。暗闇レストランは日本にはなかなかないが、ドイツにはあちこちにある。私たちは、真っ暗闇でワインを注文し、フルコースの料理を楽しもうとした。ところが、アンゲリーカが突然、「ウタが不安で怯えている」といい出した。照度ゼロの真の暗闇は、自然の世界には存在しない。犬には耐えられなかったようだ。結局彼女はウタをそこから連れ出して、明るい場所で食事をした。  2005年の夏にドイツを訪れたときは、ウタが引退して、ラブラドール・レトリバーとゴールデン・レトリバーの雑種タッコに代わったばかりだった。街中を一緒に歩いたが、彼女をうまく案内できなかった。ウタに比べると、ずいぶん能力が低いようで心配になったものだ。  その年の秋のある夜、ベルリンから電話が入った。アンゲリーカが通勤の途中、電車のホームから転落して、即死したという。まさかの出来事で、たいへん悲しく、残念だった。三度目の来日も一緒に計画中だった。  もしアンゲリーカが生きていたら、私たちの交流は続いていたはずだ。彼女の仕事は、AIの進歩で、どう変わっていただろうか。消えていく運命にあったのではないかと思う。いま、ドイツの盲女性の新しい職業分野として、乳がんの健診で触察をになう仕事が注目を集めている。すでに50人以上の従事者がいるという。年間7万人が乳がんと診断されるドイツで、盲女性がていねいに触察して、医師に説明することは、多くの人々に歓迎されている。アンゲリーカの意見もぜひ聞いてみたかった。