エッセイ 印象深い海外の視覚障害者 第2回 ペドロ・スリータ(スペイン) 日本点字図書館 会長 田中徹二 田中徹二(たなか てつじ)1934(昭和9)年生まれ。1991(平成3)年、社会福祉法人日本点字図書館館長に就任。1993年、国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)の「アジア太平洋障害者の十年」のスタートを機に、アジア盲人図書館協力事業を立ち上げた。マレーシアを起点に、アジア太平洋諸国で点字印刷がないところを対象に、点字印刷技術を指導。2004年からは視覚障害者個人向けに、パソコン技術指導も行っている。2001年4月から2022(令和4)年3月まで日本点字図書館理事長、現在は会長。  1988(昭和63)年、スペインのマドリードで開かれた世界盲人連合(WBU)の第2回総会に出席したとき、ペドロに初めて会った。2年前にWBU事務局長になったばかりのペドロが、総会を自国に招へいしたのである。それから35年、彼とのつき合いは今日まだ続いている。  ペドロのWBUでの活躍は、その後のWBUの発展に大きく貢献した。彼の語学力はすばらしく、何カ国語を自由に操れるかわからない。初めはフランス語、次いで英語、ドイツ語、さらにロシア語、イタリア語などを学生時代から学んだ。夏休み中、各国のサマーコースに出かけていって集中的に学んだという。さらにポルトガル語、ポーランド語、中国語など、言葉についての興味は尽きることはなかった。また、語学だけでなく、世界各国の情勢にも強い関心を持っていた。いまでも日本のさまざまな様子を問い合わせてくるほどだ。彼は、これまでに世界95カ国を訪問したそうだ。現在、WBUの加盟国は190カ国を超えているので、その約半分になる。  しかし、彼のWBUでの活動は突然終わった。1997(平成9)年1月、訪問中のモロッコで乗っていた車が交通事故を起こし、重傷を負ったのである。長く入院して治療を受けて、一応回復はしたが、WBUの活動には復帰できなかった。  ペドロの自国での所属はスペイン盲人協会(ONCE)だった。当時、国際部長であり、交通事故後、2000年の第5回メルボルン総会(オーストラリア)でWBUの事務局長を引退した。ONCEの退職は2005年、それ以後も世界の知人と連絡を取り、世界情勢の収集と周知は欠かしていない。  ペドロに聞いたところによると、スペインの視覚障害者の就業事情は他国とは異なる。1984年、当時のONCEの会長が事業に一大革命をもたらした。宝くじの発行と販売を見直して、盲人に販売させたのである。それも固定した販売所だけでなく、レストラン内や路上で自由に販売させた。視覚障害者が宝くじを胸の前の箱に入れて、路上で売り歩いているのに、私も出くわしたことがある。それがたいへんな人気を呼び、毎回、宝くじは完売、ONCEに莫大な利益をもたらしたのだ。ペドロによると、宝くじを販売する視覚障害者は1万5000人におよぶという。ほかの国ではとても考えられない就業状況だ。わが国の視覚障害者の職業が、江戸時代からあん摩、はりに偏っていたのに似ている。  ONCEにもたらした利益はそれだけではない。組織を整えたことで、膨大な資金力がONCEの企業化に貢献した。資金力を活かして吸収合併した企業は多く、ONCEはいまではスペインの5大企業の一つになっている。ペドロによると、ONCE本体に企業人として勤める視覚障害者は1000人を超えるという。それだけONCEは、大きな業績をあげているのである。  そこでは盲人協会の名にふさわしい事業も行ってきた。かつては職業訓練として電話交換手や理学療法士の養成に力を入れていた。電話交換手はたいへんな人気で、1000人を超えていたときもあった。しかし、現在、世界のどこでも電話交換技術は、視覚障害者の手から離れている。理学療法士のほうは、大学に組み込んで、専門教育を強化しているという。  ONCEはそのほかに、リハビリテーションセンター、盲学校、盲人図書館、盲人用具、手で触ってわかる模型展示場などの事業も展開している。「ONCEのお陰で、スペインの視覚障害者の就業率は75%で世界一だ」とペドロは誇る。  ペドロの生家は、スペイン北部のアツウォリアス村にある。小学校校長だった父親は教育熱心で、視力が弱かった彼を10歳で家庭から離し、ONCEの盲学校に入学させた。それがペドロに語学など勉強に集中させる機会を与えたのだ。特に外国語を通してコミュニケーション能力を発揮した彼は、世界の人々との交流によって、人生を大きく花開かせたといってよい。