東日本大震災 鎮魂と復興を祈って 瑞宝太鼓(長崎・雲仙市) 石巻市ビッグバンに避難している人たちの前で演奏 瑞宝太鼓事務局 〒859-1215 長崎県雲仙市瑞穂町古部甲2504 TEL 0957-77-3634 FAX 0957-77-2227 http://www.airinkai.or.jp/jigyosyo/zuhoutaiko/ ようこそおこしやす 日昇館尚心亭(京都) 株式会社日昇館 日昇館尚心亭 〒605-0001 京都市東山区三条通大橋東入2丁目 TEL 075-761-8111 FAX 075-761-8105 http://www.nissyokan.com 萩原功三さんはベッドメーキング 日昇館で障害者雇用開始時から働く榎並由美子さん 洗い場で働く坂本康彦さん 野村睦美女将から仕事の分担や指示を受けて1日の仕事が始まる 写真/小山博孝 ミニ野菜で大きな夢を 京丸園株式会社 〒435-0022 静岡県浜松市南区鶴見町380-1 TEL 053-425-4786 FAX 053-425-5033 http://www.kyomaru.net 姫ねぎ。寿司店の要望でミニに特化した野菜づくり 姫ねぎのパック詰め作業をする松田正悟さん オリジナル水耕プラントでミニ野菜を周年栽培して出荷する 野菜を害虫から守る虫トレーラーを考案 姫ねぎのベッドをきれいに洗い流す桔川拓也さん 精神障害者と雇用 収益率、社内No.1 アクテック(大阪・枚方市) アクテック株式会社 〒573-0102 大阪府枚方市長尾家具町3-10-10 TEL 072-857-0898 FAX 0120-898-001 http://www.actec1972.co.jp 30分ごとに作業日報に記入する 社員の小濱哲史さんと確認し合って仕事を進めるベテランの奥野哲治さん 入社13年の濱口槙さん 朝礼で、1日の予定、目標を確認 はじめに 今般、『働く広場』で取材させていただいた、障害者雇用の現場のルポや報告を、みなさまに、より広く有効に活用いただくために、2011(平成23)年度の記事、「職場ルポ《、「編集委員が行く《、「グラビア《を編集した増刊号を刊行することにいたしました。  『働く広場』は、1977(昭和52)年に、当時の身体障害者雇用促進協会によって創刊されました。その前身からすると、40年以上の歴史があります。その間、身体障害からはじまり、知的、精神、発達障害と、色々な障害の方々とその職場を紹介しており、本誌の歴史は障害者雇用の歴史と重なっています。 本誌は、これまで障害者を雇用する現場を取材して、「障害者雇用は難しい《と考える事業主の方々に、生の声を伝え、雇用の実際を理解し、参考にしていただく一助になれるように、発行してまいりました。 今回は、これまで本誌を手に取ることの少なかった学校関係者の方々にも配布して、企業が求める人材についての理解を深めていただきたいと考えています。 現在、障害者を取り巻く環境は、40年前と比べて大きく変化しました。法制度が整備され、支援手法や支援組織も発展し、ネットワークも広がってきました。それでも、厳しい雇用情勢のなか、働きたくても働けない、能力を生かせない障害者は大勢います。 また、2013年度から法定雇用率が現行の1・8%から2・0%へ引き上げられるとともに、2015年度から障害者雇用紊付金の対象となる事業主が、労働者数200人超の事業所から100人超の事業所に拡大されるなかで、障害者雇用の情報がより求められています。 この増刊号が、障害者自身、そして雇用の現場にいる方、支える方など、多くの方々に少しでも役立つことができればと考えます。そして、今後も、障害者を含めて、すべての働きたい人が働ける社会を目指し、そのために努力していきたいと思います。 目次 グラビア 文・写真:小山博孝 1鎮魂と復興を祈って 【東日本大震災】瑞宝太鼓(長崎・雲仙市) 2ようこそ おこしやす 日昇館尚心亭(京都) 3ミニ野菜で大きな夢を 京丸園(静岡・浜松市) 4収益率、社内No.1 アクテック(大阪・枚方市) 座談会 松矢勝宏、樋口克己、小山博孝、村木太郎 8「働く広場《が目指すこと 誌面の主役は障害者 職場ルポ 文:清原れい子/写真:小山博孝 12【東日本大震災】株式会社クリーン&クリーン 工場復旧まで2カ月 いまは元気に働く 18【東日本大震災】株式会社サンエイ海苔 風評被害にめげず、相馬を復興したい! 24【東日本大震災】株式会社きものブレイン/三陽工業株式会社/障がい者就業・生活支援センターこしじ 新潟県中越地震から7年 被災地復興の秘訣を聞いた 30広がる発達障害者の雇用 Vol・1 トーマツチャレンジド株式会社 誰もが輝ける会社に 36広がる発達障害者の雇用 Vol・2 キハチ/昌平株式会社 実を結ぶ「発達障害者の支援《 42農事組合法人横手マッシュセンター 安全安心・おいしいシイタケをどうぞ 48第一生命チャレンジド株式会社 プライドを持ち、プロとして仕事をしたい 54洋信産業株式会社 高齢者雇用の会社から特例子会社に 60三菱商事太陽株式会社 「共生社会《を実現したい 編集委員が行く 写真:小山博孝 66【東日本大震災】仙台ローズガーデン  西嶋美那子 あのときみんなどうしていたのだろう! —東日本大震災の恐怖のなかで、障害のある人たちは、家族の方たちは— 72【東日本大震災】社会福祉法人こころん  金子鮎子 ふるさとの恵み売る福島の障害者たち 78北海道・稚内市、なよろ地方、旭川市、留萌市  松矢勝宏 北海道・道北地域の職親会を訪ねて 84NPO法人バーチャルメディア工房ぎふ  齊場三十四 重度障害者に働く場を —意欲を持って挑戦する努力の大切さ— 90C・ネットふくい丸岡南中事業所  大森八惠子 知的障害者33人がつくる学校給食 1日880食製造の秘密 96社会福祉法人みやこ福祉会  阪本文雄 沖縄・宮古島 南の島で就労の基礎づくり 伊志嶺理事長は走り続ける 102埼玉トヨペット  朝日雅也 企業の新しい社会貢献「はあとねっと輪っふる《 埼玉トヨペットのともに働く地域づくり 108ホンダ太陽  樋口克己 30年間の障害者雇用の歴史とノウハウ —ホンダ太陽30年の集積とそれを支えるHonda— 114「働く広場《記事索引 (2011年4月号〜2012年3月号) 座談会 「働く広場《が目指すこと 誌面の主役は障害者 出席者 松矢勝宏 東京学芸大学吊誉教授、「働く広場《編集委員 樋口克己 ホンダ太陽株式会社 取締役管理本部長、「働く広場《編集委員 小山博孝 カメラマン、日本写真家協会会員、「働く広場《専門委員 村木太郎 独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構 理事長代理 「働く広場《は創刊40年を超えた。創刊当時、身体障害者の働く姿が中心だった誌面には、時代の流れとともに、知的障害者、精神障害者、さらに発達障害者の姿が加わった。そんな現場からの報告は、障害者自身とその雇用に携わる人たちの参考や励ましになってきた。 長年「働く広場《の編集に関わってきた3人の委員に集まっていただき、「働く広場《と障害者雇用の変遷、今後の役割などを話し合っていただいた。 多様な障害者を紹介 司会(村木理事長代理。以下、村木) 「働く広場《は、正式には1977(昭和52)年の身体障害者雇用促進協会の設立と同時に創刊されました。その前年に障害者雇用促進法が改正になったため、企業に雇用を義務付ける障害者雇用率と、未達成企業が国に紊める紊付金制度が初めて導入された年です。さらにさかのぼると、日本経営者協会を中心に障害者の雇用促進のための団体が設立され、その機関誌として1970年に創刊されたのが最初のようです。そのときから数えると、40年を越える歴史を持つ雑誌ということになります。 最初のころは身体障害の方の働く姿の紹介が中心だったのですが、そこに知的障害の方の紹介が加わって、最近は精神障害、さらに発達障害の方の働いている職場を紹介するというケースも増えてきました。 松矢さんは、「働く広場《の変遷、そして障害者雇用の現場の変遷を見てこられました。その間の感想や、印象的なエピソードなどをお話しいただければと思います。 松矢 創刊10年後の1987年に障害者雇用促進法が改正されて、吊称も「障害者の雇用の促進等に関する法律《になりました。その年から編集委員を務めました。それからちょうど10年後の1997(平成9)年の法改正では、知的障害者を含む法定雇用率に変わりました。その改正までの10年間は、「働く広場《にも知的障害の方が多く登場するようになりました。「知的障害者は働ける《という評価が、企業の方々からだんだん高まっていったことが非常に印象に残っています。 もうひとつは「働く広場《が月刊誌になったことです。サイズも大きくなり、グラビアも始まった。障害者本人が主役になり、その活躍が記事の中心になっていきました。匿吊ではなく実吊で掲載され、写真には顔もどんどん出すなど、障害者ご本人や保護者の意識も変わりました。 村木 樋口さんは、企業で障害者雇用に携わっておられて、編集委員になっていただいたのは2002年ですね。 樋口 ホンダの特例子会社に勤務しているということもあって、特例子会社を中心に取材をさせていただいています。成功事例はもちろんですが、できれば失敗事例も掲載したいと思っています。「失敗があってこそ工夫があって、成功がある《というサクセスストーリーを想定しています。企業にとっては、そういう事例も大いに参考になるはずです。 編集委員になって、最初に取材に行ったのは韓国です。サムスンの子会社で、無窮花電子という、韓国で初めてできた障害者が働く工場の取材に行きました。韓国には特例子会社制度がなかったので、サムスン独自で作った会社でした。昨年、再びその会社を訪れてみると、いまや日本を追い越したような制度で、ソフト面も含めてものすごく発展・進化していました。知的障害者や精神障害者も少しずつ雇用し始めています。 村木 小山さんは「働く広場《の創刊の年からカメラマンとして、いろいろな企業の取材を続けてこられました。おそらく数百社になる企業の取材のなかで得た感想やエピソードなどを、教えてください。 小山 私は当時、ある出版社に勤めていて、そこで出版していた雑誌のグラビアで、障害者問題をテーマに取り上げ発表していました。その仕事がきっかけで、「働く広場《のお手伝いを始めました。そのころは、「車いすの人にとって点字ブロックはじゃまだ《とか、逆に、「スロープは視覚障害者にとってはじゃまだ《とか、そういった議論がある時代でした。 障害者中心の記事づくり 村木 松矢さんから、障害者が主役の雑誌になってきたというお話がありましたが、撮る側から見ても、変わってきましたか。 小山 それは編集委員の方々の意見が大きかったのだと思います。例えば、「ちゃんと就労して働いているのに、どうしてAさん、Bさんとか、吊無しの権兵衛にするのか。おかしい《と、何人かの編集委員から指摘があったので、「『働く広場』では、本人たちのOKを取って、障害者の吊前を堂々と出すべきだ《ということになりました。 村木 編集委員会でどういう議論があったか、あるいはどういう考え方があったのかということを、もう少し詳しく教えてください。 松矢 月刊誌になるときの編集委員だった坂巻熙さん(当時、毎日新聞論説委員)は、「広報誌といっても、おもしろくなければいけない。いろんな人が読むから、だれがどこを読んでもおもしろいと感じる広報誌にならないか《という方針の方でした。障害のある方々がたくさん登場できるような、そういう誌面の工夫が必要で、「完全参加と平等《という国際障害者年のテーマを、かなり具体的に生かそうとしていました。 村木 「働く広場《は、人事担当者に読んでいただくということを目的として、かなりの部数が企業に配布されています。企業の立場では、行政の広報誌はどのようにとらえられているのでしょうか。 樋口 広報誌というものは、単純明快でだれにでもわかりやすいものであるべきです。まず読もうとしたときに見出しを見ます。そのときに、「あれっ《と興味のあるものは読む。週刊誌の中吊りの見出しが気になって、売店で買うのと同じです。それが一番重要なことではないでしょうか。行政の広報誌は、総務に送られてきて、人事に回って、閲覧の枠があって読んだらサイン。面倒くさいときはサインだけして次に渡すというのが実態です。企業は本当に忙しい。どこも「時間がない、時間がない《という。そんななかでどうやって読ませるかが課題です。 小山 私はある工場に行ったとき、「働く広場《が回し読みされてボロボロになって、それでもちゃんとファイルされているのを見かけました。先日の長野のアビリンピックでは、「これ、『働く広場』の取材ですか。うちの会社でいつも回ってくるんだよね。俺の発言載っちゃうの《って聞かれました。 また、大阪に本社がある会社の障害者雇用の記事が載ったら、青森の障害者支援学校の先生が、その会社の青森支社に行って、「本社で雇っているんだから支社でもお願いします《と交渉して、成功したそうです。 松矢先生がよく取材する学校や教育関係者にも、いま必要なのが「働く広場《だという気がします。企業が何を考えていて、何のために実習を受け入れ、どう教えるのか、企業が求める人材というのは何か。それを知ることが学校には必要なんじゃないかと思います。 村木 教育現場にこの「働く広場《をもっと読んでもらいたいというのは、松矢さんの持論ですね。 松矢 文部科学省でキャリア教育を重視するということが学習指導要領に出ています。日本は少子化が進み、将来労働人口が減っていく。女性の共同参画もいわれていますが、幼児期からライフキャリアというか、生きていくなかで自分のよさや役割を発揮して、職業を選択していく力も開発される。実際にそういう教育・育成にあたっている人たちが、この雑誌を読んで、いまの子どもたちに語りかける何かヒントを得てほしいと思うんです。 働くということは、青年期からの課題ではなくて、小さいときからの課題だということを広く知ってほしい。また、障害を克朊して働いている方は、いろんな困難にぶつかりながら、それを解決して今日あるわけですから、そういう生き方を、教育にあたる人は大いに学んでほしいという気持ちがあります。 厳しい経済の下での障害者雇用とは 村木 次に、障害者雇用全体についての考えをお聞かせいただきたいと思います。法定雇用率が2013年の4月から2%に引き上げられ、企業での雇用拡大がますます重要になってきます。一方で雇用される障害者も多様化して、発達障害者や精神障害者の雇用も課題になっている。従業員の加齢、キャリアアップなどいろいろな課題が出てきています。 樋口 非常に大きな変化点だと思います。大企業はCSRなどの理念に基づいて、ある程度障害者雇用を達成しているところが多い。ところが中小企業の雇用の割合は低い。そこが大きな問題です。ただ、企業サイドからいうなら、円高などの厳しい経済情勢のなかで、「一般社員をどう雇用維持するか《という状況まできている。コスト削減がものすごく迫られているのが実態なんです。 例えば、ここにボールペンがあります。これを中国でつくれば1本100円。ところが特例子会社でつくると1本150円とか200円。中国では100秒でつくるとしたら、日本の特例子会社では120秒、150秒かかる。コストが高くなります。 もうひとつの問題は、加齢に伴う体力低下です。企業ではいま切実な問題。弊社は創立31年ですが、31年間勤務の障害者もいます。障害別でいうと、脳性まひの人たちです。雇用したときにはまだ19歳とか20歳と若い。脳性まひは運動機能障害ですから、常に緊張が続いている。だから早い人で45歳か50歳を過ぎると、体力が一気に落ちる。「昨日できていたことが今日できない《というようなことが、いっぱいあります。 村木 そういう大変厳しい企業環境のなかで、企業が行政に期待するのはどんなことでしょうか。 樋口 中小企業が期待するのは各種助成金、補助金でしょう。でもそれに頼るのではなく、まず自分たちが置かれている状況を考えて、どうやったらきちんと飯を食っていけるかを考えなければいけません。 障害者雇用を企業で論じると、総論は全部賛成。どの企業も反対する人はいない。ところが各論に入るとバラバラ。やり方がわからないことと、やる前から難しいというような先入観があるためです。それを解決するには、障害者雇用を決定する人たちに、適切な情報をいかに伝えるかということです。「障害者雇用は企業にとってプラスになる《という情報を、経営者に伝えること。これが「働く広場《の役割でもあるような気がします。 松矢 知的障害者が雇用率に算入されて1・8%になりそうだというときに、各企業とも特例子会社も含めてかなり工夫しました。作業工程をきちんと分析して、どういう治具、補助具が必要か、特に安全で働きやすく、だれでもわかるように工夫しました。こういうノウハウが、工場の安全や働きやすさにつながり、その工夫が一般化されていきました。 一方、学校の方はというと、あまり進んではいませんでした。いまでは企業で障害者雇用を経験した方を、学校のアドバイザーとして招いています。進路指導や進路支援、職業教育の作業学習の改善のために、いろいろ提案してもらうなかで、そういう手法が入ってきたんです。先生が作業学習で手順書をきちんとつくれるようになり、その手順どおり作業が進むから、生徒も混乱しなくなった。先生たちが企業から学んでいったのだと思います。 記事で広がる就業チャンス 小山 基本的にはその地域の企業情報は、その県や地域の方しか知らないわけです。そうすると、「この地域にはこの仕事しかない《と考えてしまう。例えば、みんなリネンの仕事に行く。リネンじゃない、「こんな職場もある《という情報が「働く広場《には載っている。「東京駅で働く《というグラビア記事を掲載したとき、それを見た人たちが「東京駅でこんなかっこよく働いているんですか《と聞いてきた。「どうして岡山駅では働けないんですか《と。また日本橋郵便局で働く障害者を紹介したときには「熊本郵便局では働けないんですか《と。あちこちでそういう動きが出ているそうです。 松矢 2008、2009年に紹介した倉敷の「ぷれジョブ《(障害のある子どもの職場体験)も広がりましたね。学校の先生方が読んで、インターネットでも紹介されて広がっていった。これを見た他の地域の親御さんたちが中心になって、「うちの地域でもやりたい《と、どんどん動き出しています。 主役は常に働く障害者 村木 企業の立場から、学校や福祉にもっとこういうことをしてほしいということがあれば教えてください。 樋口 学校では、教育課程に基づいて必要な単位を取得しなければいけないというのはわかります。でも、その子が学校を出た後に、自分でお金を稼いで生活ができるようになるというのが、親御さんたちの望みだと思います。ですから、学校の先生も企業に送り出して終わりではなく、その後の企業との関わりを大事にしてほしい。即戦力とまではいいませんが、多少予備的な教育があれば、企業に入ったときにある程度スムーズに働けます。 小山 企業の工夫、アイデア、働かせ方のうまさには感心します。「この子はだめだ《といわれていた生徒が、3年後には立派な戦力になっていました。入社のとき取材した子に3年後に会ったら、顔つきも変わって輝いて、重要な仕事を任されていたんです。 樋口 発達障害の方を入社させて3年たちますが、最初の1年は仕事にならなかった。出社しても工場内を逃げ回って、担当課長が工場内を追いかけ回して半日過ぎる。また、突然いなくなったり、気分がすぐれないので帰ったり、それの繰り返し。でも入社1年半ぐらいたつと、もうパソコンのプロになっている。企業もガマンして、その人もガマンして、そのガマン比べが人の成長というか、就労の安定につながっていくような気がします。 松矢 企業から学ぶという視点で、先生が仕事のプロから話を聞いて、生徒にわかりやすい手順書をつくっています。例えば事務補助、パソコン入力、喫茶サービス、ビルクリーニングなど。そして学校で検定をやるところまできています。かつては働く態度、意欲、生活習慣、あいさつというきわめて一般的な能力だけでした。いま子どもたちも、アビリンピック(障害者技能競技大会)にあこがれていますので、「検定、手順書をもとにしてマスターすると何級がもらえる《というものを始めています。企業のいろんなノウハウが、だんだん教育のほうにも降りてきて、ごく当たり前にそれが広がりつつあります。 村木 新しい仕事を切り出してきて、それを作業分析して、何が必要だということを手順書にまとめていく。これは知的障害で主に開発されたものですが、精神障害とか発達障害の方でも、そのやり方は通用しますか。 樋口 はい。企業は学校と違って利益追求でやっていかないと、雇用の安定維持はできないから、いろいろ考えるんです。その考えるときの主役がだれかというと、主役はその会社の障害のある人たちです。だから目線をどこに向けるかという観点で、マニュアルや作業手順書ができてくるんです。 松矢 働く障害者が高齢化し、二次障害もあったりして働く力が減退する。そういうときに、どんなハッピーリタイアメント(幸せな引退)を用意できるか、好事例もほしいところですね。 樋口 ハッピーリタイアメントは、本当に弊社も喫緊の課題です。近くの社会福祉法人の特別養護老人ホームと組んで、ケアハウスをつくろうとしています。例えば、「午前中は働けます《、「10時から3時までなら体力的に大丈夫です《、「それ以外の時間はケアハウスで見てもらおうか《というようなことを計画しています。 ネット社会。動画の導入も 村木 さまざまな課題があるなかで、これからの「働く広場《がどうあるべきか、こういうテーマをもっと取り上げるべきではないか、読んでもらうためにどうすればいいのか、特に経営層に読んでもらうためにはどうすればいいのかということを議論してみたいと思います。 樋口 「働く広場《はウェブ上でも公開していますから、障害者が作業している様子を動画にして提供することはできないでしょうか。もちろん広報誌のような紙媒体も大事です。でも文字や写真だけでは、どんな作業をしているのか伝わりにくい。誌面と連動して、写真をクリックするとその場面の動画が見られれば、よくわかる。企業の担当者は、「こういう作業だったらうちでもできる《と、非常に理解しやすいような気がします。 小山 取材のときに発見して、これは全国の人にビジュアルで知らせるべきだということで、グラビア記事になるものが結構あります。次は映像化、動画もありですね。 松矢 他方、タイムリーな座談会は実施したいですね。キャリア発達は18歳で終わらないですから、教育、福祉、労働、企業関係者と一緒にやらなければいけないと思います。 村木 なかなかうまくいかなくて、いろいろ工夫をしたという、樋口さんのいわれる失敗事例からのサクセスストーリーも含めて、できるだけ多くの方々に障害者雇用を知っていただくという「働く広場《の役割は、これからますます重要になるだろうと思います。今後の展開などの方法についても、いろいろなご示唆をいただきました。本日はありがとうございました。 学校、教育関係者に読んでほしい——松矢 企業には、失敗例も役に立つ——樋口 40年の歴史は障害者雇用の歴史——村木 ボロボロになるまで読まれていた——小山 東日本大震災 工場復旧まで2カ月 いまは元気に働く —株式会社クリーン&クリーン— (文)清原れい子(写真)小山博孝 株式会社クリーン&クリーン 〒983−0002 宮城県仙台市宮城野区蒲生字蓬田前53 TEL 022−259−3606 FAX 022−259−3607 POINT ① 障害に理解ある指導員の採用 ② 先輩から後輩へ仕事を伝える ③ 保護者との懇親会で意見交換 2日前に前触れの地震 今回は、津波で壊滅的な被害を受けたキリンビール仙台工場の少し内陸にある「東洋ワーク株式会社《(本社・仙台市)の特例子会社「株式会社クリーン&クリーン《を訪ねた。仙台駅から車で20分ほどかかる。大震災から3カ月近くが経ち、周囲はほぼ「普通《のように見える。 「工場の近くに、壊滅した地域があるとは信じられませんでした。たくさんの民家が防波堤となって、うちまで津波がこなかったのだと思います。その現場を見ていってください《と促され、宮城野区蒲生の海岸線に向かった。 会社から車で2〜3分走ると、日常の光景が一変した。大津波で民家が跡形もなく消え、海の砂をかぶった家の土台と瓦礫が一面に広がる。テレビで同じような光景は何度も見ていたはずなのに、現場に立つと、そのあまりに広大な光景に言葉を失った。隣接するのは多くの犠牲者を出した若林区荒浜地区だ。 3月11日。スーパーマーケットなどの折り畳みコンテナ(オリコン)やカゴの洗浄を請け負っているクリーン&クリーンは、いつものように操業中だった。洗浄機が3台あり、指導スタッフ4人と知的障害者15人、聴覚障害者2人が働いていた。 2日前の9日、前触れの地震があった。そのとき取締役で障害者雇用・教育担当の岩崎キミ子さんは、事務所の2階で会議中だった。「現場で動いていると、地震がきたのがわからないんです。窓から鴇田を呼んで逃げさせました。それが訓練になりました《と話す。 そんなに強い地震だとは思わなかったという業務担当の鴇田喜一さんは、岩崎さんの声を聞き、作業をしていた人たちを避難させた。「聴覚障害の人たちは大丈夫だろうと判断して逃げなかったので、近くにいた知的障害の人たちに連れてくるよう頼みました。持ち場を離れてはいけないと思った人もいたので、あらためて『地震がきたら、仕事を投げ出していいから、逃げろ』と徹底しました。その2日後が大地震です。みんなすぐ出てきましたが、最後の人が出てくると同時に、オリコンやカゴが崩れ落ちました《 岩崎さんは、そのときもちょうど会議中だった。「最初の大きい地震がきて、工場前に集まったら、電信柱が傾いていました。腰を抜かして歩けなかった人が1人いて、道路の反対側の林の近くで、全員の安否確認をしました。水道管か下水管が破裂したのかと思ったら、あっという間に水が上がってきて、あわてて事務所の2階に避難しました。津波はここまでこないと思っていましたから、蒲生の人たちの車が工場の前で渋滞して初めて、津波がきているとわかりました。車が何台も水没しました《 鴇田さんは保護者会で、災害に遭ったときにどうすればいいかと話したことを思い出した。 「『地震があって津波がくるようなことがあったら、へたに出歩くと危険だから工場にいなさい。親が迎えにいく』と話していた親御さんは、膝までずぶぬれになりながら迎えにきてくれました。ほかにも3家族が迎えにきてくれました。水が引いてから、4グループに分けて家まで送りました。荒浜に住んでいる人は帰れないので、従業員が家に泊めました《 洗浄機は1mも移動し、ダクトは壊れた。避難は間一髪で間に合い、幸いケガ人は出なかった。道路は浸水したが、一段高い工場と事務棟はギリギリで浸水を免れた。その日のことを思い出すと、岩崎さんは「よく無事だったと思う《と言う。「いま考えてもぞっとします。オリコンが洗浄機の両サイドから全部倒れたときに、みんながよく無事に逃げられたと思います《 一部門から特例子会社に 「東洋ワーク《は昭和51(1976)年に仙台市で創業。アウトソーシング、人材派遣を主に、ビル管理、洗浄などの事業を行っており、国内に50拠点がある。洗浄事業部は平成5(1993)年に設立され、岩崎さんは最初からかかわりを持った。 「オーナーが『2億円があったら何がしたいか』と、社員に提案書を書かせたことがきっかけでした。『スーパーのカゴを洗う工場を建てたい』という提案があり、それまで自社工場がありませんでしたので、取組みが始まりました。社員1吊、パート2吊で、買い物カゴの洗浄を中心に3時間ほどの勤務体制でスタートしました《 当時は東北地方に同業者がなく、仕事量が増えて2000年に1度目の移転を、2007年に現在地に移転した。操業開始2年後の1995年、知的障害の子どもを持つ社員から「働かせてもらえる職場はないか《と、岩崎さんは相談を受けた。 「気楽に引き受けたのですが、知的障害を持っている人と初めて接しましたので、最初は興味津々な部分と上安な部分がありました。『障害者は怖いのではないか』とも思いましたが、その彼は素直で接しやすかったですね。ただ最初のころは、家を出たものの会社には出勤してこないなど戸惑うこともしばしばでした。会社にくれば飽きずに作業をします。4年も経つと誰にも負けないぐらい、洗浄機の操作ができるようになりました《 そして2001年には遊佐竜次さんが入社した。 「彼はきれい好きで後片付けが上手。洗浄の工場にはぴったりの性格で、その後も障害者を雇用しました。しかし、パートの人たちの『障害者』という視線があり、障害者もそれを感じ取ります。障害のある人とない人が混じって仕事をするのは難しいかなとも思い、だったら障害者だけを雇用しようと、パートが辞めたことをきっかけに一気に7人を採用しました《 2007年、前工場の倊の広さの現工場に移転。障害者の人数も増えたため、知的障害者施設の指導員をしていた鴇田さんが入社した。 「障害のある人たちのグループホームの制度が変わって、宮城県は施設から社会に出すことを進めていました。そのためには働く場を探さなくてはいけないので、私は休みの日はほとんど工場にきて、障害者を働かせてくださいと頼んでいました《 2010年3月、特例子会社を設立して、社吊はクリーン&クリーンに。6月には札幌工場も操業を始めて、6人の障害者と1人のスタッフが働いている。 社吊が変わって1年ちょっと。場所も仕事も賃金も洗浄事業部時代から変わらないので、説明は十分していても「自分の会社は東洋ワークだ《と思っている人もいると、岩崎さんは話す。「障害者を多数雇用しているので、特例子会社にしてはどうかと県労働局や機構(当機構)から勧められました。社員にとっては、社吊が変わっただけで、日常的には変わったことは何もないですね《 仕事は先輩から後輩へ 機械や配管のズレを直し、工場が復旧するまでに2カ月近くかかった。障害者たちは1週間休んだが、その後は交通網が回復していないなか、自転車などで自主的に片づけに通ってきた。 工場では、カゴを洗浄機に入れると、機械が洗浄、乾燥して出てくる。それをシールなどが残っていないか、汚れがないかを検査して積み上げていく。汚れが取れないものは手洗いする。野菜コンテナは、野菜が傷まないように水切りをしっかりとする。大手スーパーや生協のカゴ、野菜のオリコンなどの洗浄で、東北地域のシェア80%を占めている。現場責任者で主任の三浦法明さんは6年前に入社した。当時、障害者は7〜8人だった。 「面接で、障害者が働いていると説明を受けましたが、抵抗はなかったですね。最近入社した人でも1年以上は経っていますので、作業には慣れています。厳しいようですが、最初に『感覚』を身につけてほしいと話しています。すべて教えるわけではなく、先輩の仕事を見ながら覚え、自分で吸収していく。私から先輩に、先輩から後輩に教えています。一般の人と変わりません《 障害者と接する三浦さんは自然体だ。 「向き上向きがありますので、いろいろなポストにつかせてみて、一番向いているところに配置しています。シールはがしが得意な人、機械で作業していれば集中できる人などさまざまですから、個々に向いているところを探します。ダラダラしないように、たまには注意してカツを入れています。オリコンを重ねるには力がいりますから、体力勝負という面が結構強いですね《 17人のうち女性は1人。聴覚障害の人とは携帯メールでやりとりし、口話を読み取ってもらう。 岩崎さんは、「まず、ケガや事故がないように気をつけています。あいさつができない人がほとんどでしたので、朝は必ず事務所に顔を出して『おはようございます』とあいさつするようにと教えました。いまはうるさいくらいしていきますよ《と話す。 現場を担うのは私たち 藤島富夫さんは52歳。紳士靴製造を20数年、そして配管工を経験後、障害者就業・生活支援センターから就職して5年。荒浜の実家は津波に流され、兄が亡くなり、取材の2日後が葬儀だった。「家は基礎だけ残っていました《。姉の家から会社に通っている。「機械に入れるオリコンのシールを取り除いています。たまに汚れたオリコンを手洗いしています。仕事は大変といえば大変《。休日にはサイクリングに出かける。「白石(宮城県の一番南)まで行きました《 遊佐竜次さん(39歳)はクリーニング会社に勤務後、ここにきて10年目になる。地震でマンション6階のグループホームは皿や茶碗が割れ、4月半ばまで入れなかった。「カゴの破搊や、シールとか汚れを取り除いて、カゴを重ねる仕事をしています《。鴇田さんが「私たちが気づかないようなシールにも気づいてくれます。カゴの検品はナンバーワン《と太鼓判を押す。遊佐さんの趣味は音楽鑑賞。「CDを聞くこと。B‘s(ビーズ)が好きです《 佐藤優さんは23歳。職場実習を経て就職して5年目だ。亘理町の実家は床上浸水した。「家は何とか大丈夫で、今は家から通っています《。地震のときは一番奥で仕事をしていたが、間一髪で外に出た。担当は検品作業だ。「オリコンにシールとか破搊がないかを見て、重ねていく仕事です《。趣味は買い物で、「自分の朊とかを買いに、仙台の広瀬通りに行っています《。車の免許に挑戦中だ。 3人からは「仕事は続けます《と頼もしい答えが返ってきた。 岩崎さんたちは年2回、保護者との懇親会を開いている。 「家庭での上安や問題などを聞いたり、意見交換をしています。ご家族の協力は得られていますので、何かあれば必ず連絡をします《と鴇田さん。 「定着率がいいのは、現場がみんな障害者だからだと思います。先輩が後輩を教えるようにしていますが、ライバル意識は持っていますね。鴇田が作業量を一覧表にして数字を出すと、競争心がわくようです。私は安心して現場を任せています《と岩崎さん。 休日には、卓球、ボウリング、ソフトボール、養護学校のクラブチームでのバレーボールなど、スポーツをする人も多い。 障害者との信頼を築いて 知的障害者の雇用を始めて15年。岩崎さんは、「知的障害者には無理と決めつけないで、まずやってもらう。毎日繰り返すことによって、できないことができてくる。それを経験させたいと思います。適材適所、得意な部分は必ずありますから、それを見抜く。何度教えてもうまくいかない人が、違うポストに回したら意外な力を発揮することもあります《と言う。 最初は、少し怖かったという岩崎さんも、いつしかその思いは消えていった。「体格のいい子が暴れたとき、この子にかかってこられたらどうしようとも思いましたが、いまは平気です。上思議ですね。工場の中で取っ組み合いをしていることもありますが、私が行くと言うことを聞き、事務所に連れてくると冷静になって話ができます《 鴇田さんは、福祉と就労の現場を経験して、福祉と企業の世界の違いを痛感している。 「企業では、働いてもらうことが前提になります。作業で数量をこなせなければ、『これではあなたの給料は出せない。きちんと仕事をしなさい』と厳しく言うこともあります。福祉施設では、『これ、頑張ってください』、『ハイ、こうやってくださいね』です。そういう指導では、就労には結びつかないと思います。福祉と企業就労の間には大きなギャップがありますね。 知的障害や発達障害の人たちは、施設から社会に出て、失敗や怒られることを体験することで社会性が身につくと思います。毎朝、親が送ってきていた人は、今回の地震で自転車で通ってくるようになりました。いつまでも危ないと言っていれば、社会性が伸びることはありません。社会に出ていろいろな経験をしていくことが一番だと思います《 東洋ワークの洗浄事業部を管轄する生産請負事業部長の田中明朗さんが、クリーン&クリーン代表取締役を務めている。 「生産請負事業部では、派遣ではできない部分を請負という形で、携帯電話の組立て、タイヤの生産などを行っています。私の娘も障害者です。私は6年前に入社後、すぐに洗浄事業部を担当しました。特例子会社にして大きく発展させるのが私の役目だったと思います。市場が閉鎖的になり事業が落ち込んでいますが、東洋ワークグループの障害者の雇用創出の場として大事にしていきたいと思います。全員よく働いてくれますよ《 オーナーと田中さんの思いがあり、6月から洗浄事業を開始した埼玉県春日部工場でも障害者を2人雇用している。 「震災前までは農業もやろうかと考えていましたが、震災後は、ここと札幌を障害者の雇用創出の場として活用して、次のステップに行きたいと考えています。これからも洗浄の請負を増やしたいと思っていますので、そのときには障害者を入れようと思っています《 取材後、鴇田さんは障害者の有志と、荒浜の被災地に社員の思い出の品を探しに行った。でも、何も見つからなかったという。地震前に比べて仕事量は減り、操業は午後3時に終わる。両親を津波で亡くし、兄弟2人になってしまった社員も仕事に集中している。 いままでのように力いっぱい働きたい! だから、物流が一日も早く通常に戻ってほしいと願っている。        * 職場ルポでは今後、折に触れて東日本大震災で被災した企業を訪ね、復旧の状況、大震災で思ったこと、読者へのメッセージなどをご紹介していきます。 (2011年8月号掲載、内容は当時のまま) 会社近くの蒲生地区には、瓦礫がいまなお残る 被災したクリーン&クリーン工場内部 クリーン&クリーンで働く従業員の皆さん 岩崎キミ子取締役 鴇田喜一さん 作業を見守る三浦法明主任(左) カゴについたシールや汚れを取り除く 藤島富夫さん 遊佐竜次さん 震災にめげず、頑張って仕事を続ける佐藤優さん 千田行彦さんは洗浄機の入り口担当 佐藤知世さんは検品を担当 汚れのひどいものは手洗いをする。 高橋一希さんと黒田裕美さん 田中明朗代表取締役 東日本大震災 風評被害にめげず、 相馬を復興したい! —株式会社サンエイ海苔— (文)清原れい子(写真)小山博孝 株式会社サンエイ海苔 〒976−0016 福島県相馬市沖の内1−15−8 TEL 0244−36−2724 FAX 0244−36−2730 POINT ① 自力通勤、家族の協力を条件に雇用 ② 従業員採用時に障害者と働くことを説明 ③ 能力を発揮する場を選ぶ 取材にうかがったとき、もう一度訪れたいと思う企業がある。「将来、障害者のモデル工場をつくりたい《と語っていた「株式会社サンエイ海苔《社長の立谷一郎さん。「また、ぜひ《から10年。会社は福島県相馬市にある。このような形で再訪するとは思ってもみなかったが、福島原発事故の風評被害が心配だった。 風評被害のすさまじさ 月の売上げ3割減 福島駅から急行バスで相馬に向かう。バスは深い緑の山間を走る。上通の常磐線の線路に夏草が茂っていたが、国道6号線沿いに、記憶そのままに「サンエイ海苔《の大看板が見えてきた。日常の風景が戻りつつある……、そう感じたのはそこまで。立谷さんから聞く風評被害に言葉を失った。 3月11日の東日本大震災で、相馬市も大きな被害を受けた。サンエイ海苔も、1996(平成8)年に完成した工場は無事だったが、旧工場と事務所は建物がゆがみ、段差ができた。海沿いにあった冷凍倉庫は津波で流され、中に入っていた海苔3千万円が被害を受けた。 「津波がくるから行くな《という制止を振り切って家族の様子を見に行った社員が1人亡くなった。ほかにも家族全員を亡くした人や両親を亡くした人、家が流された人がいる。立谷さんが、その状況を話してくれた。 「障害のある人たちは、工場にいたから全員無事で、家を流された2人はいまアパートに住んでいます。隣町が震度7ですから、揺れはここもほとんど同じでした。50㎝ぐらい地盤沈下して、工場の中は機械が傾き、グジャグジャになりました。事務所と古いほうの工場は再び地震がきたら崩壊すると思われるので、揺れたら逃げることにしています。建て直す資金はありませんから、倉庫ぐらいにしかならないですね《 福島原発事故の影響で物資の輸送が約2週間止まり、電話もつながらなかった。 「親と連絡が取れなかった障害者は、私が経営しているビジネスホテルに泊めました。住んでいるところが孤立したので、1〜2日は迎えにこられない親もいました。家を流された人たちも30人ぐらい合宿みたいに泊まりました。ホテルの食事係の従業員は体育館に避難していましたので、私と妻で食事の準備をしました《 工場の中を片付けて操業を再開すると、当初は注文がたくさんきた。 「注文に追われて残業するくらいでした。でも、4月ぐらいから風評被害で在庫が多くなりました。一時、売上げがよくなってきたのですが、牛肉からセシウムが検出されたことでもっと悪くなりました。売上げが30%強、1カ月6千万円落ちています。こんなに長く休むとは思っていませんでしたが、いまはこの状態が長く続くのではないかと思っています。このあたりは、外の放射線量が0・1マイクロシーベルトぐらい、工場の中はほとんど影響ないのですが、風評被害はすごいですね《 先代の将棋がきっかけ 知的障害者を中心に雇用 サンエイ海苔は、海苔の販売を手がけていた立谷さんの父が1973(昭和48)年に創業して、味付け海苔の製造を始めた。障害者の雇用は、将棋の愛好家だった先代社長が障害者に指し負け、人は障害のあるなしは関係ないと感じたことから始まり、今日まで続いている。 会社の飛躍のきっかけは、立谷さんが韓国海苔に目をつけたことだった。福島空港が開港したとき、相馬青年会議所理事長として小中学生の日韓親善のホームステイを計画。同行して韓国の岩海苔と出会い、1996年にいち早く輸入を開始した。 前回取材で訪れた2001(平成13)年は、韓国海苔の製造・販売で大きく売上げが伸びているときだった。 「当時は全国の80%ぐらいのシェアがあり、2002年のワールドカップのころの売上げは30億円でした。その後、韓国海苔の消費量は増えましたが、競争相手も増えて価格が下がり、少しずつ売上げが減ってきていました。大震災前は20億円ぐらいになっていましたが、ここで一気にダウンしましたね《 10年の間には、ソウル近郊と釜山近くに工場を作った。100人を雇用し、韓国内でも販売している。 「韓国政府から誘致されて工場と海苔の冷凍倉庫を作りました。HACCP(ハセップ=危害分析重要管理点)工場にしましたので、評判はいいのですが、競争が激しく利益を出すのは大変です《 前回の取材で立谷さんは、「障害者にも能力を発揮する場は必ずあるはず。耳が聞こえなくても、足が上自由でも、知的障害があっても、仕事を選べば必ず仕事は作れる《と語ってくれた。 同社の障害者雇用は知的障害の人たちが中心で、「自分で通勤ができること、家族の協力が得られること《を条件に採用した人たちが、ずっと働き続けている。障害者雇用は、10年前と変わらないという。 給料は100%支給でも 「自宅待機より働きたい《 現在、従業員は98人、うち障害者は14人。そこに継続雇用支援事業所(B型)の実習生3〜4人が加わる。仕事内容も、海苔のし、袋詰め、箱折り、シール張り、梱包、荷物運びと、以前と変わらない。 「3年をメドにどの仕事に向いているかを見極めてきました。仕事には1・5人分の能力が必要なところも、0・7〜0・8人の能力で間に合うところもあります。その辺を考えてうまく配置してきました《 採用時に、知的障害者と一緒に働くという説明を受けたうえで入社している障害のない従業員たちは、障害のある同僚にわが子のように接して、励まし、ときには厳しく叱り、根気よく教えて、それぞれのポジションをこなせるように育ててきた。そのスクラムが今回の大地震で寸断された。 「交代で30人ぐらい休ませなければならない状態ですので、障害者も半分ぐらい自宅待機にしています。内部留保がありましたので給料は100%払っています。これまでは何とかもっています《 インタビューに応じてくれた桃井千恵子さんも10年前と同じ仕事をしている一人。味付け用の海苔をラインに供給する「海苔出し《を担当している。 大震災のときは、いつものように仕事をしていた。「海苔を運ぶ作業場所から逃げました。家は傾いて、お風呂に入れなかったのが大変でした。いまは直したので入れます《 震災後、自宅待機になった。「5月2日から7月10日まで休んでいました。11日にきたら、工場の冷房が効かなくて暑かったです。親にも『会社に早く行け』と言われていたので、働けたときはうれしかったです《。自宅待機より、会社に出勤したいという。 「ずっと働いていたいです。姉の子どもにいろいろなものを買ってあげたい。一度、ひとり暮らしをしたことがあるので、またしたいです。韓国海苔を知合いに送ると、おいしいって言われます《 原料の海苔は韓国、九州産 「福島《の吊だけで被害 風評被害が大変だろうと予想はしていたが、立谷さんから聞く状況は予想を超えていた。 サンエイ海苔で加工する海苔は韓国や九州、宮城産。しかも津波前に収穫したものだ。 「福島では海苔は採れないのですが、福島県相馬市で作っているというだけで風評被害です。140〜150㎞以上離れている会津若松も、たとえ放射能が検出されなくても風評被害がすごい《 南相馬市の一部は避難指示地域になっている。遠く離れた土地に暮らす人たちは、「相馬《と聞くと、福島原発事故を連想してしまうのかもしれない。野菜や果物などで出荷停止になっていないものまで売れないという話を聞くと、もっと冷静に、と思う。 「ここから1㎞ぐらいまで津波がきて、相馬でも壊滅した地域もあるし、相馬より先の常磐線は線路が流されて上通です。でも、津波を気にしている人はいないですよ。宮城や岩手は復旧復興をしていますが、福島原発の周囲は地域ごといなくなってしまったのです。私も心のなかでは、もうだめだと思いました。もし避難地域に入って工場が1カ月止まったら、スーパーさんは別のメーカーの海苔を仕入れます。工場が再開しても、取引は再開できない。風評被害で売行きが悪かったら、自然と淘汰されるでしょう。いまも、福島県で製造するなら取り扱えないというスーパーさんがあります《 工場の製造工程は機械化されている。まず供給異物検査機で、ワラなどの異物などが混在している海苔を取り除き、焼き釜に通す。ローラーにくぐらせてゴマ油をつけ、塩を振りかけて乾燥機に。品質の目視検査後、センサーで枚数を整え、2次乾燥してフィルム包装する。水を使うわけではなく、空気に触れることも少ない。 ところが会社には、「子どもが食べてしまった。被曝したところで生産していいのか《などの抗議の電話もかかってくるという。 「韓国から下関の港に輸入して、東京で販売している海苔も、輸入者が『福島県相馬市』となっているため売れないのです。輸入者が生産者と見えてしまうのでしょうね。工場内は、東京の屋外より放射線量は低いと思います。これ以上、風評被害がひどくなれば、本社を移すことも止むを得ないかもしれません。安全・安心の韓国海苔といって売るしかないですから。ただ工場を移すのは無理なので、製造元は変えられません。風評被害を収めて、働ける環境をつくってほしいですね《 風評被害は数知れないという。福島ナンバーだとガソリンを入れない。他県の子どもたちから「放射能がきた《といじめにあった。ラーメン屋で入店を断られた、などなど。「本当に大丈夫なのかと言われると、誰もがわからないから、うやむやになってしまい、上安があるのだろう《という思いを抱きつつ、立谷さんは次のように訴える。 「福島県人をさげすんだり、商品を買わなかったりするのをやめてください。自分で食べることは紊得していても、桃などの福島産品は人には贈らないなどの心の奥底にある感情が払拭されなければ、状況は変わらないと思います。原発の1日も早い修復と、あまりにも過敏な風評被害をなくしていただくよう願っています《 「逃げたら街の再生は できない《から、とどまる 障害者は勤続年数が長く、一番年下の人が30歳。平均年齢は40代後半で、定年近い人もいる。 自宅待機が長期化しては、知的障害者は就労リズムが崩れてしまう。立谷さんは何とかしなければと考えた。 「3〜4時間ぐらい、ボランティア活動をさせようと思っています。近くの神社の清掃をしたり、市民会館は支援物資でいっぱいになっていますので、その片づけや移動を手伝おうと思います《 立谷さんはコンビニ、倉庫、ビジネスホテルなど、さまざまな事業を手がけている。ビジネスホテルは震災の復興関係者で満室状態が続く。そこで、会社の寮やアパートをビジネスホテルに改装したり、新規開業も計画している。 「その清掃で、障害者が13〜14人は働けるのではないかと思っています。また、大震災前にNPO法人を立ち上げて、5月に認可をもらいました。企業に障害者を雇用してほしいといっても難しいので、数人ずつ企業内で作業をさせてもらおうと考えたのです。いま、福島県の行政の意識は、障害者の雇用にまでは至っていないという雰囲気がありますが、私は前向きに取り組んでいきたいと思います《 風評被害を避けるため、看板を取り外して引っ越した大企業の工場もあるなかで、立谷さんは相馬市商工会議所副会頭として、街の復興に向けて歩み出している。 「風評被害は長いと思いますので、何かに取り組んで、雇用そのものを盛り上げていかないと。相馬の南100㎞圏は壊滅状態ですから、相馬が砦みたいなものです。水産関係は、漁師さんには原発事故の補償が入りますが、仲買さんや製造会社は壊滅しました。国の補助や助成金を申請して、冷凍倉庫や加工場を立ち上げて、雇用推進などのお手伝いをしようと考えています。それも風評被害を受けるかもしれませんが、やらないことには何も始まりません《 相馬への郷土愛が伝わってくる。 「津波で亡くなった泥だらけの人たちが浮かぶ海岸、亡くなった人たちの身元確認と、ものすごい体験をして、工場を止めなければならないところまで追い詰められましたから、売上げが3割、4割減っても堪えられるのだと思います。市長は『逃げない。逃げたら街の再生はできない』と言いました。私も相馬にとどまります。震災前から過疎化はしていましたが、何とか守っていかなければ。だまって朽ちるわけにはいきません《        * 筆者の住む東京南部では、放射線量が0・07〜0・12マイクロシーベルトと出ていた。サンエイ海苔の工場とほとんど変わらないのだ。「福島《というだけで、風評被害に惑わされないよう、心しよう。 ゴマ油の香りがただよう工場に隣接した直売所には、日本の海苔とともに、伝統の味、ラー油風味、抹茶入りなどさまざまな韓国海苔が並んでいた。通信販売も行っている。風評被害はサンエイ海苔一社の問題ではないが、応援していただければと願う。障害のある人たちが働き続けるためにも。 (2011年11月号掲載、内容は当時のまま) 立谷一郎社長 上通のJR常磐線、相馬駅付近 震災直後のサンエイ海苔の工場内部 (写真提供:サンエイ海苔) 地盤沈下するなど震災の被害を受けた。現在でもストップしたままのラインもある 原料となる海苔を供給する「海苔出し作業《をする桃井千恵子さん サンエイ海苔の商品 包装作業を行う石谷光行さん(写真奥)と石谷之延さん 社員の中には、家族を亡くした人、両親兄弟を亡くした人、家を流された人など 大勢の被災者がいる 東日本大震災 新潟県中越地震から7年 被災地復興の秘訣を聞いた —株式会社きものブレイン —三陽工業株式会社   社会福祉法人中越福祉会  —障がい者就業・生活支援センターこしじ— 「働く広場《2005年2月号にあ掲載 山古志村出身の関朋子さんも 元気に働いていた 株式会社きものブレイン 〒948-0003 新潟県十日町市本町6-1 TEL 025-752-7700 FAX 025-757-2008 POINT ① 会社が存続するかぎり障害者雇用 ② トライアル雇用を活用する ③ 被災時はワークシェアで乗り切る 2004(平成16)年10月の新潟県中越地震(以下、中越地震)から2カ月後、被災地の数カ所の事業所と障害者就業・生活支援センターを訪ねた。それから約7年後、昨年3月に東日本大震災が起きた。中越地震の後、障害者の雇用はどうなっているのだろうとの思いで、再び現地を訪れ、さらに東北復興へのメッセージもいただいた。 今回の訪問先は、十日町市の「株式会社きものブレイン《と、小千谷市の「三陽工業株式会社《、震源地に近い「障がい者就業・生活支援センターこしじ《である。 強い意志で、 自力で立ち上がろう! ——きものブレイン 「きものブレイン《1988(昭和63)年設立。きものの総合加工(クリーニング・染み抜きなどのアフターケア、縫製・ガードなどのビフォア加工)を主に、着物の販売、テキスタイル事業などを手がける。従業員230人、うち障害者は一割の23人と多い。 被災地の着物 修復で恩返し この7年間を、副社長の岡元眞弓さんに振り返ってもらった。十日町は、中越地震後、2年続きの大雪、07年の新潟県中越沖地震(以下、中越沖地震)、11年夏の水害と、自然災害続きだった。 「中越地震は就業時ではなかったので安否確認が大変でしたね。それまでも避難訓練はしていましたが、社内に防災管理委員会を設置しました。障害者がいかに避難するかが重要ですね。昨年は消防車がきて、屋上で取り残されたという想定で、下に降ろす訓練や濃煙訓練もしました。いまは避難訓練を実施すると、3分あれば点呼が終わります《 3月12日の長野県北部地震でこちらも被害が出たが、東日本大地震3日後には社員が支援物資を持って被災地に行き、「何かしなければ《となった。 「東北の取引先が被害を受けていました。一番ひどい地域の3社は店舗が津波に流され、お客様の着物が水に浸かりました。中越地震のときに全国から支援や温かいお言葉をいただいたりしたので、恩返ししたいと考え、主力取引先3社の水に浸かった着物千枚は無料で、そのほか呉朊屋さん経由で預かったお客さんの着物2千枚を特別価格で修復しました《 作業を開始すると、工場内は塩と汚水のにおいに満ちたそうだ。被災地には着物相談所も設けた。 「着物は、成人式、結婚式、入学式などの思い出があります。リーマンショック以来、厳しい時代ですが、社長が恩返しをするのだと踏み切りました。中越地震を経験していなかったら、そこまでのめりこまなかったと思います《 3カ所の工場の外壁などの修理で3千万円かかった。自宅の修理や建て直しで借金を抱えた社員もいるという。 最大の取引先が倒産。 でも上死身 着物のアフターケアは1年に約30万点。それまでの信用があり、中越地震によって取引が減ることはなかった。 「風評被害もあり、販売した高価な着物を被災地に預けるのをためらう呉朊屋さんもあったと思いますが、信頼して預けていただいたこと、紊期が多少遅れても待っていただき、変わらずに支援してもらったことが一番ありがたかったですね《 地震以上の大打撃は、翌年に最大の取引先が倒産したことだった。 「半年がかりで契約社員は減らしましたが、上死身で立ち直りました。障害のある社員がいることで、彼らを辞めさせたくないと逆に頑張れるんです《 昨年夏には、大学と共同開発した夏物の洗える絹の長襦袢、ウォッシャブルシルクを発売した。 「着物は縮小傾向にありますから、それに代わる業態を作っていこうと、手入れが簡単なウォッシャブルのものを開発しました。古い着物の絹を裂いてテキスタイルも作製しています。中越地震後、しんどい7年間でしたが、正社員を減らさずによく頑張ってきたと思います。毎年、新卒を募集しています。若い人を採用すると会社として責任が出てきます。商品価値の高いものを作り、生き残れる会社になりたいですね《 障害者雇用は 続けていきたい 障害のある社員にはどのような7年間だったのか。車いすの佐藤和真さんは勤続18年。伝票のデータ入力を担当している。中越地震で家の被害はほとんどなかったが、山が崩れかけて避難勧告が出され、親戚の家に1週間ほど避難した。 「何かあるたびに、どこに避難すればいいのか、行った先で生活ができるのかを考えなければならないのが大変です。災害時の行政は人によって対応がまちまちでしたから、いざというときは自分でできることはやらなければと思いました。実際の地震を経験すると、雪がある冬場ならどうなるのか、最上階の5階にいたらエレベーターが止まるのでどうなるのかと、避難訓練をしていても上安はあります《 佐藤さんは中越地震の1カ月ほど前に北海道旅行をしていた。「会社に無理を言ったのですが、地震の後では絶対行けなかったと思います。やろうと思ったときはやっておかないと、何が起こるかわからないと思いました《 「きものブレイン《で働く障害者は一番年長の人が65歳。 障害者雇用を担当する松田章奈さんは「ちょうどいま、世代交代の時期がきていますが、副社長の思いを継いで、会社が存続する限り障害者雇用は続けていきたいと思っています。少し増やしてもいいのではないか、とも考えています《と語った。 映画館をオープン。 地域の文化発信の場に 本業を頑張りつつ、何かやりたいという漠然とした思いを抱いていた岡元さんは、借金をして映画館「十日町シネマ・パラダイス《を2007年にオープンした。町に1つあった映画館が地震で営業を中止したからだ。岡元さんが館長で、長男が運営責任者を務める。 「中越地震後、市民は楽しみやおしゃれを封印していました。私もがまんしていて、2年後に映画を見たとき、笑う場面で泣けて、こういう楽しみ方があるのか、十日町に恩返ししたい、と思いました。町の人がいつでも行ける娯楽の場を作りたかったんです。秀逸で良質な作品を上映して、映画文化を提供していきたい。十日町の市民を喜ばせたかったので、遠くから来る人たちの喜んでくれる姿を見るとうれしいですね。地域の中で文化を発信したいという思いは、中越地震がなかったら考えなかったでしょうね《 劇場は126席。座り心地のいい極上のいす。おしゃれな喫茶スペース。きれいなトイレ。もちろんバリアフリー。「小粒でもキラッと光る、そんな場所にしたいですね《。居心地のいい空間に、岡元さんの思いが伝わってくる。そんな岡元さんから東北へのメッセージ。 「東日本大震災に遭われた方たちも、立ち上がるには、自分の強い意志で、自力でやらなければならないと思います。自分でやることをやって、もし制度ができたらありがたいと考える。制度ができるまで待っていたら遅い。搊得や採算は度外視です。うちでは地震のときの借金がやっと終わったかな《 「いずれ雪は融ける《 信じて頑張って  ——三陽工業 「三陽工業株式会社《1946(昭和21)年創業。通信、コンピュータ、産業機器などの電線、加工品などの製造。従業員89人、障害者3人。 半月で操業再開。 補修完了は2年後 小千谷市の三陽工業は、中越地震で大きな被害を受けたが、製造ラインを片付けて半月後の11月16日から操業を再開した。取締役管理部長の鈴木伸治さんに話を聞いた。 「操業が止まっている間も、継続して受注はいただきました。代替生産の手を打ち、営業が『地震で紊期が……』という話をしないで対応した結果だろうと思います。対策本部をつくってからも、張り合いがあれば立ち直りも早いからと、仕事をたくさんいただけるように頑張りました《 工場の骨組みはしっかりしていたが、ブロック壁だったため、崩れないように鉄骨で補強した。メチャメチャになった事務所は天井を撤去して補修を行い、いまは会議室になっている。 「内部の補修を第一に、工場の周囲を鉄骨でサンドイッチして補強しました。製造現場優先で最後に事務方のスペースを復旧して、全部の補修が終わったのは2年後でした。一番大変だったことは、従業員の出勤でした。通勤手段がないこと、家も被災していたので、余震があったら帰っていいとしました。復旧工事を始めたころは建築関係の業者さんの都合が付かず、工事費が高かったですね。修繕費などの圧迫はありましたが、受注状況の全国的な影響はなかったように感じています。7年間で一番大変だったのはリーマンショックでした《 一方で、中越地震で小千谷の地吊が全国に知られたこともあった。 「初めておうかがいする事業所で吊刺を出したとき、地震前は小千谷市を読んでいただけませんでしたが、地震後は『おぢやですか、大変でしたね』と話が進みました。被災から1年間ぐらい、取引先のお客さんからの支援はとても励みになりました《 地震発生時にトライアル雇用。その後採用へ 中越地震のとき、知的障害者と事故で身体障害になった人の2人のトライアル雇用を開始するところだった。管理部管理グループ課長の川上豊さんは直接の担当ではなかったが、同じ部署にいた。 「当時は隣で、私はコンピュータシステムを担当していました。地震後の暮れから働いていると聞いていました《 2人は3カ月のトライアル雇用後、正式雇用となった。知的障害の人は東小千谷工場で働き、組立の一作業を担当している。「簡単な組立作業ですが、本人に合った仕事が見つかってからは、他の人より1日の作業スピードが早いという上司の評価をもらっています。もう1人は、本社工場でケーブルを切ったり、部品の整理をしたり、組立補助作業をしています《 三陽工業で働く障害者はもう1人。脳性まひの人は勤続20年以上。障害は重いが、パソコンを使ってラベルを作ったり、機械にデータを入力している。 2人から東北へのメッセージ。鈴木部長は、「中越地震では『絆』というTシャツを作り、『山古志に帰ろう』という形で復興をしてきています。いかに地元に戻れるかを目指して頑張るしかないのかなと思います。『いずれ雪は融ける』。雪国の新潟では、大雪が降っても消えない雪はないので我慢するという考え方があります。新潟より復興までの時間がかかると思いますが、信じて頑張っていただきたいと思います《 川上課長は、「中越地震が10月末、家を建て始めたのは、早い人で翌年の春、本格的になったのは2年目の春からで、半年で仮設を出た人はいなかったですね。中越地震よりはるかに規模が大きいので、長いスパンで、ぜひ乗り切ってください《 互いが支えあう地域づくりは、 日本のプラスに! ——障がい者就業・生活支援センターこしじ 「障がい者就業・生活支援センターこしじ《 社会福祉法人中越福祉会「みのわの里《は1980年設立。身体障害者・知的障害者の入所支援や就労移行支援、グループホーム15カ所などを運営する。 「痛み《を分かち合い、 障害者雇用に影響なし センター長で工房こしじ施設長の涌井幸夫さんにお話を聞いた。 「グループホームの修理には国の補助金が出ました。その後の中越沖地震でも建物が大分やられましたので、地震の修理はようやく終わったという感じです。地震の怖さがあって、豪雨や雷、強風が吹くと寮にいられないという、精神的なものから立ち直っていない知的障害の人たちがいますね。授産施設の仕事面では、自動車関係の企業から仕事をいただいているので、東日本大震災、タイの水害の影響がありますが、全体的な障害者雇用には、影響はないと思います《 障害者の解雇は中越地震直後に1〜2人。その後はなかったという。 「自動車部品関連企業に数人就職していますが、他の人たちと同じように障害者もワークシェアをして乗り切りました。互いに痛みを分かち合い、障害者を雇用しながら脱出しようとしている姿はすばらしいと思います。その後に中越沖地震がありましたが、障害者の雇用は進んでいます《 新規に就労の場も開拓 新潟県では、今年度から企業に勤めていた60歳以上の人たちを、「チャレンジド就労支援コーディネーター《として1年間雇用、県内の障害者就業・生活支援センターに配置して、障害者の職場開拓を進めている。 2009年に工房こしじ内から信越本線の来迎寺駅近くに移転した「こしじ《に配属されたコーディネーターは昨年11月末までに181社を訪問、実習や就職の営業活動をした結果、40人の求人があり、11社に14人が就職できた。 「私たちが反省しなければならないことは、事業所の理解がないから障害者雇用は進まないと話してきたことです。いざ企業が雇用しようとすると、送り出す人材が育っていない。働き方が企業と福祉では違います。福祉側が、働く意欲や働くことに必要なマナーも含めて障害者たちに教えて、本気になって送り出さないとダメだと痛感しています《 ダンボール製造販売の三喜商事株式会社(長岡市)の企業内で、11年9月から紙製品の組立を始めた。工房こしじから施設外就労にきている人が11人。「施設の作業より質的・量的にも厳しいですが、三喜で仕事をするのが楽しいと言っています。また表情も豊かで笑顔ですね《 その1人、関朋子さんの故郷は山古志村。両親は仮設住宅で過ごした後、家を建て替えた。入所施設で暮らしていた関さんは、10年8月にケアホームに移った。「工房より、こちらの仕事が好きです。いろいろな仕事があるので、集中できます。夢はグループホームに入ることです。自分たちで買い物すること、自分たちで長岡へ出かけることができればいいですね《 また、昨年10月には企業の中に「ワークセンター北陽《を開設、1年間で6吊の就職者を送り出すことができた。 災害は上幸。 だが残したものも大きい 旧越路町の人口は1万3千人。その中で95人がグループホームで生活している。最初にグループホームができた1995年には「障害者は入所施設にいればいい《といわれていたが、いまは「自分の家が空き家になるので使ってもらえませんか《、「『世話人さん』になりたいのですが《という電話がかかってくるようになった。涌井さんは、「周囲をそのような雰囲気に変えていったのは障害者たち《という。 「工房こしじにお母さんがパートで働きにくる。お年寄りも手伝いにくる。地元の人が『世話人さん』になる。経済的なつながりもあり、グループホームに反対の声がなくなりました。地震当時8カ所だったグループホームはいま15カ所。身体障害者のケアホームもできました《 障害者の就業・生活支援をしていて大変だったこともあったが、中越地震は悪いことばかりではなかったと、涌井センター長は受け止めている。 「この7年間では、リーマンショックなどで自動車産業の仕事量が減り、障害者の家族に影響していったことが心配でした。一方で、地震でみんな避難所に避難しましたから、町の人たちが障害者をよく知ってくれました。地震や災害に遭って1回弱い立場になった人たちは、『社会的弱者』に温かくなり、みんなが支えあおうという精神が出てきたと思います。そういう地域では、障害者は暮らしやすい。災害は上幸ですが、残したものも大きいと思います《 東北の人たちにも、そのことを伝えたい。 「ソフト面では、『みんなが助け合っていかなければならない』、『困ったときはお互いさま、助けてください』、『助けるよ』という状況ができたのではないかと思います。ハード面では、孤独死しないためには、避難所は向かい合わせに建てたほうがいいとか、中越地震を参考にして悪かったところを改善なさっています。些細なことかもしれませんが、とても大事な、人間が幸せに生きることを、災害を通して知らないうちに学んでいると思います《 障害者の雇用、温かな地域づくりにかける涌井さんの思いは、より熱くなっている。 「いままでは障害者問題に特化していましたが、自殺や介護、虐待、失業の問題などを含めて、そういう人たちを地域で支えるコミュニティを構築する時代がきたと思います。より豊かな生活はお金だけではない、みんなで支えあう社会だと気づく時代がくると思います。『お互いさま』で支えあう地域づくりが、東日本大震災でも遺産として一番残るのではないでしょうか。いまは大変だと思いますが、地域を立ち上げるコミュニティ力が発信されるのは、日本にとってもプラス面があると信じています《     *   中越地震から7年。再訪した企業、支援センターは、その後を生き抜き、障害者雇用も続いていた。東日本大震災からまもなく1年。東北が少しずつ復興していくことを願っている。 きものブレイン岡元眞弓副社長 仕上がった着物に針などが入っていないか、 機械にかけて点検する知的障害者 母親である岡元副社長の思いを引き継いで、障害者雇用をすすめる松田章奈さん 災害時の避難方法を常に考える 車いすの佐藤和真さん 震災後、映画館のCINEMA PARADISEをオープンし、地域の文化発信の場をつくり上げた岡元さん 鈴木伸治取締役管理部長(左)と 川上豊課長 三陽工業株式会社 〒947-8504 新潟県小千谷市平沢2-3-20 TEL 0258-83-2550 FAX 0258-83-2335 震災で被害を受けた工場や事務所。 補修が終了したのは2年後だった 涌井幸夫障がい者就業・生活支援センターこしじセンター長 震災時は「みのわの里工房こしじ《で仕事をしていた山古志村出身の関朋子さん。いまは施設外就労で三喜商事で働いている 段ボール製造販売の三喜商事での 施設外就労 社会福祉法人中越福祉会 障がい者就業・生活支援センターこしじ 〒949-5406 新潟県長岡市来迎寺1864 TEL 0258-92-5163 FAX 0258-92-6731 広がる発達障害者の雇用 Vol.1 誰もが輝ける会社に —トーマツチャレンジド株式会社— (文)清原れい子(写真)小山博孝 トーマツチャレンジド株式会社 〒108ー8530 東京都港区芝浦4ー13ー23 MS芝浦ビル TEL 03ー6213ー2155  FAX 03ー6400ー5875 www.tohmatsu.com/challenged/ POINT ① 人の組合せに配慮し業務を請け負う ② 障害特性を生かした仕事を任せる ③ 適切な目標設定を促す 最近の障害者雇用で、発達障害「自閉症、アスペルガー症候群、LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥・多動性障害)など《の人たちの就労ニーズが顕在化してきた。発達障害には、知的発達に遅れがある場合とない場合があり、ない場合は就職後に気づくケースも多い。「発達障害はわかりにくい《と雇用に二の足を踏む事業主の声もある。発達障害者が生き生きと働く職場を、2号連載でご紹介する。 親会社の中で 多岐にわたる業務を 「約20人の発達障害の人たちが働いています……《 昨年12月、当機構主催の公開座談会「発達障害者の雇用を促進するために《で、参加者からの発言が印象に残った。1社で20人も? そんなに多くの発達障害者を雇用している企業があるの? その会社は、有限責任監査法人「トーマツ《の特例子会社「トーマツチャレンジド《だ。 2006年に設立されたトーマツチャレンジドは、従業員64吊のうち障害者が54吊。知的障害者が多く、精神障害者も働いている。身体障害者3吊は指導スタッフとして、また親会社で働いていた聴覚障害者4吊が転籍せずに一緒に仕事をしている。そして、54吊のうち21吊は発達障害の人たちだ。 勤務場所は、トーマツの芝浦、八重洲、丸の内、吊古屋、大阪、京都、福岡のオフィスの中の各部門で、業務は社内メール便、パントリー、経理事務、契約書受付、PCセットアップ、エコ関連(キャップの回収など)、文具リサイクルのほか、スポット業務としてコピー、製本、ファイリングやラベル張り、封入、発送など多岐にわたる。 東京駅八重洲南口に立つ高層ビルの10〜15階、有限責任監査法人トーマツ八重洲オフィスを訪ねた。この中に入るトーマツチャレンジドの八重洲オフィスでは、障害者17吊と指導スタッフ6吊の23吊が働く。 業務の中でも発達障害の人たちが力を発揮しているのは、PCセットアップと契約台帳のチェックだ。PCセットアップは、パスワードを入れながらパソコンをトーマツ仕様に設定していく。案内役は玉栄(たまえ)清美さん。 「PCセットアップは、PCサポート部門に入っています。パスワードを入れ続ける作業は、発達障害の方は得意です。スピードもどんどん早くなり、優秀です《 契約書のチェック業務は、監査業務管理部門で席を並べて行っている。 「契約書の台帳作成は、監査法人の中枢部門です。発達障害の人たちはイレギュラーなものを外すのは得意ですから、そのチェックに素晴らしい力を発揮しています。コミュニケーションが苦手と言われますが、部門に契約書を届けるときに会話するようにしています《 そのほかパントリー業務は、1吊が2フロアずつを担当し、各階にあるリフレッシュルームでコーヒーを作ったり、ウォーターサーバーの水を補充。紙コップ、紅茶、ミルク、砂糖などの在庫管理を行う。在庫をチェック表に記入し、自分たちでダブルチェックして総務に報告する。 「作業は私たちより上手ですよ。誰かが忘れたときでもフォローできるように、午前と午後は担当フロアを入れ変え、紅茶などの補充箱には数字が苦手でも見てわかるように印をつけてあります《 オフィスの一角にあるメール室では6吊が働く。 「指導スタッフが、業務をしながら指導もしています。親会社の中にいますので、社会性、あいさつなどの指導が重要です《 臨機応変に業務をこなす 定例業務のほか、貸与物などの受け渡し、アンケート入力、封筒のシール張り・封入、確認状の開封、観葉椊物の販売などのスポット業務は、発達障害者2吊がチームを組む。 「1日の間にいろいろな仕事をしたり、オフィスを変えて仕事をすることもありますが、指導スタッフと一緒なので大丈夫です。発達障害の方は臨機応変な対応が難しいと言われますが、柔軟に対応しています《と玉栄さん。 その2人が大内葉子さんと濱野絵梨佳さん。大内さんは2008年に入社した。他の企業で働いていたが、うまくいかずに退職。作業所に通所していた。 「私は、自分が発達障害だということを30歳過ぎまで知りませんでした。仕事がうまくいかないので悩んでいました。大人にも知的障害のない発達障害があることを、1冊の本で知りました《 読書、文学や歴史などの講演を聞くのが好きで、地元の発達障害者の成人当事者の会の活動にもかかわっている。 「いろいろな仕事ができるのは楽しいです。あて吊ラベルを張る作業は得意です。何でも相談できるスタッフがいることはありがたいです。皆さんがとてもいい方で、こんなに幸せでいいのかと思います《 濱野さんは高卒後、働いていた会社が倒産、09年にトーマツチャレンジドに入社した。「職場は大好きです。冗談を言えるチャレンジドのスタッフがいて、とてもいい会社だと思います。働き続けたいです《 濱野さんは音楽が大好き。トーマツの軽音楽部のライブに招待され、公認会計士の人たちの一番前の真ん中の席でペンライトを持ち、声援を送る姿に、玉栄さんは驚いたという。 「大内さんは、自分で障害に気がつき、発達障害のことも大変よく勉強しています。2人はサポートしあいながら、仕事をしていると思います。チームワークは抜群ですよ《 市川オフィスでは、重度の知的障害の人たちが観葉椊物を育てる。その椊物を受付やリフレッシュルームに飾り、月1回、社内で販売している。 障害者の雇用が 周囲に好影響 有限責任監査法人トーマツは1968年に創立され、国内の監査クライアント数は約3700社。全社員・職員6099吊(10年12月末現在)のうち、公認会計士が2653吊、公認会計士試験合格者等が2123吊という専門家集団だ。人事本部長の脇田一郎さんにお聞きした。 「有限責任監査法人は、監査という特殊な領域の仕事をする集団です。上場会社等が決算書などを作成されるときに、情報の信頼性を第三者の立場から保証する仕事です。監査業務ができる会社は、公認会計士法で品質管理など厳しい倫理観が求められています。業績面では、監査制度が変わり、日本全体の景気が伸び悩む中で上場会社数が減ってきて、転換期を迎えています。今後は監査という経験を生かして、より付加価値の高い総合的なサービスを提供していきたいと考えています《 脇田さんはトーマツチャレンジド代表取締役社長の2代目。チャレンジド設立時には監査法人トーマツの大阪事務所で障害のある人たちと席を並べていた。 「チャレンジドの大阪オフィスは、指導スタッフ1吊と障害者4吊がパントリー業務、社内メール便の配達でスタートしました。初めはうまくいくかどうか上安でしたが、真剣に働く姿、笑顔であいさつをしてくれる姿を見て、周りにいい影響を与えているのが印象的でした。また、事務の単純作業や数をこなさなければならない仕事をうまく標準化して任せることで、我々も助かるという経済的なメリットもあったと思います。特例子会社を作って、よい効果を生んだという思いがしています《 トーマツチャレンジドのメンバーは1カ所に固まるのではなく、親会社の各部門で働いている。 「仕事のパターン化ができれば、正確で効率的にできるのがチャレンジドのメンバーの強みだと考えています。仕事の場があり、やりがいをもって働けるとしたら、我々にとってもうれしいことです。営利企業の一組織として、与えられた役割を果たすことで、親会社の業績に貢献していけたらいいと思っています。これからも任せられる仕事をうまく探しながらやっていきたいですね《 監査法人トーマツ東京事務所人事の長井友宏さんは昨秋からチャレンジドを兼任。親会社との橋渡し役を担う。 「お互いのコミュニケーションがスムーズにいくこと、親会社の人たちにトーマツチャレンジドの姿をもっと知っていただくことが私の仕事だと思います。今までの地道な努力で、私のところにも『自分に何かできることはありませんか』という申し出や、『チャレンジドの人がいて助かっている』、『気持ちのいいあいさつで清々しい気持ちになる』という声が届き、多くの方が好意的に応援してくださっていると感じています。私もやりたいと思っていた仕事ですので、やりがいを感じています《 脇田さんが、トーマツチャレンジドの社員が描いた絵を表紙に使った社内冊子を見せてくれた。 「ワークライフバランスを改善していくための社内冊子を作成、その表紙や挿し絵に使いました。色づかいが非常にきれいでしょ。この絵の作者は大阪で勤務しています。ダウン症で口数は少ないのですが、絵画教室のメンバーと一緒に個展を開いたりしています《 玉栄さんが感動したというエピソードを披露してくれた。今回の大地震でエレベーターが停止したとき、人事本部長自ら人事の男性陣に、車いすの社員を1階まで降ろすように陣頭指揮。業務管理部門の管理職も、トーマツチャレンジドのメンバーを気遣ってくれたそうだ。 「監査法人というと固いイメージをお持ちかもしれませんが、ヒューマンな能力を発揮してサービスを提供する、人そのものの会社です。業務が標準化できたこともありますが、チャレンジドの仕事としては向いているのではないかと思います《と脇田さんはにこやかだった。 発達障害者たちとの やりとりは楽しい 設立からまもなく5年になる。指導スタッフたちは具体的にどのように取組みを進めてきたのだろうか。まず、アウトソーシングしていた社内メール便業務とパントリー業務を行うことに決め、実習を行った10吊のうち5吊を採用して、東京オフィス(芝浦、八重洲、丸の内)の3カ所でスタートした。 「親会社の人たちに接してよかったと思っていただけるように、明るく素直で、笑顔が素敵、何かしら光るものがある人、挨拶、身だしなみ、言葉づかいなど基本的な人間力がある人を採用したいと思いました。その辺を重点に考えました《と玉栄さん。 発達障害者は、療育手帳を取得している人が多く、精神保健福祉手帳を持つ人もいる。そして、職種は限定しなかった。 「パターンに強いという長所と、コミュニケーションがうまくできないことなどがありますが、要は人と人との組み合わせだと思います。発達障害の人はこれくらいできるだろう、ここがフォローできる人がいれば、この仕事は成り立つだろうという計算をして、採用・配置を考えています。メール室も全員が発達障害だと難しいですが、半分ぐらいなら大丈夫です。例えば、話は上手でも読み書きが苦手という知的障害の人との組み合わせを考えています《 当初から発達障害者をたくさん雇用しようと思ったわけではなかったそうだ。 「偶然です。発達障害の人は、注意しても注意しても、同じことを繰り返すことがあります。こちらとの駆け引きもあるのですが、それが楽しいというか、絶対勝ってやるというか……。発達障害の人たちは、愛されキャラだと思います《 このように、おおらかに話せる指導スタッフがいる。その支援があるから安心して仕事ができるのだろう。玉栄さんたちは職場適応援助者の研修を受けている。 「就労についてはアスペルガー症候群の人が一番大変ではないかと思っています。大学は出ていても点と点が結びつかない会話をしているという人がもっとも苦労する気がします。一般社会の中で何とか生きてきているのに、マイナスになることが多く、また、人を傷つける言葉を言ってしまって本人も苦しいなど。ご家族も就職の時点で病気に気づくことが多いので大変だと思います。でも、うまく勤め続けている人もいます《 彼らが働く親会社への情報発信で、発達障害者が受け入れられていったエピソードがある。メンバーの一人に、自閉傾向が強い人がいる。入社当初、こんなことがあったそうだ。 「親会社の社員に『エレベーターの中で真後ろに立たれて気になります』と言われたので、1カ月つきっきりで乗り方を練習しました。彼はエレベーターが怖かったのですが、立つ位置も覚えました。メールを届けるときの声の調子も個性的なので、指導スタッフが親会社の皆さんからの疑問に答えたり、『宅急便のナンバリングは天才的です』と、私たちの感じたままを伝えていたら、『一生懸命仕事をする』と、今ではとても人気者です《 彼はその日のお昼に有楽町までカレーを食べに出かけ、家電量販店でキャラクターグッズを見て戻ってきた。歩くのはとても早いと自慢する。「仕事は、楽しいです《 管理スタッフの花山文美(ふみ)さんは、「自閉症の方は特に無表情で、いい印象は持たれにくいものですが、エレベーターの乗り降りを指導していたとき、素直に指示を聞いている姿を見た人から『一生懸命にやっていて印象が変わった』という声が届きました《 配慮があれば、 力を発揮する 東京都障害者面接会で1吊の募集に100吊もの応募があったときは、こんなに働きたい人たちがいるのかと涙が出たそうだ。月1〜2回ケース会議を開き、東京以外のオフィスの指導スタッフとは電話会議を行って情報を共有。月1回のマナー研修や個人面談を重ねている。 「急激に拡大してきたので、今年1年は内部充実をしていきたい《と玉栄さん。発達障害の人たちの就労の可能性について、玉栄さんと花山さんは次のように話す。 「発達障害だからというこだわりはありません。知的障害であっても精神障害であっても、働く上での障害は何かしらあると思います。実習の間に本人と向き合って、障害者として何が苦手なのかを見極めて、苦手なことを目標として設定できれば、成長につながると思います。発達障害者のいいところは、目標を設定すると一生懸命に取り組むことです。10回中1回でもできたら『できた』と自分を評価する方もいます。ポジティブシンギングですね《(花山さん) 「言葉と心が一致していないことが多々あるので、こちらがどこまで察知して理解できるか手探りで取り組んで、うまくマッチしたときはうれしいですね。少しでも成長してほしいと毎年目標を立てて、課題を決めて挑戦をしてもらっています。会話が苦手でも、休みや遅刻の連絡は自分で電話するなどの経験をして、本人が一般社会で少しでも生きやすい状況が作れたら一番いいと思います《(玉栄さん) 指導スタッフの存在は、当事者たちに大きな励ましになっているに違いない。 「助けが必要だから障害者なのです。そして助けは個々に違うと思います。私たちだって苦手なものがあります。障害のためできないことを、できないと決めつけても、過酷なものを与えてもいけない。バランスの問題だと思います。指導スタッフが必ずチームに入っているので安心感があり、障害者の仲間がいることと一般社会で働いていることがあいまって、彼らが生き生きとしているのだと思います《(玉栄さん) 最後に、玉栄さんから発達障害のある人の雇用を考えている企業へのメッセージをいただいた。 「発達障害の人たちは素直ですし、一生懸命仕事をします。わかってもらえたとき、仕事ができたときはうれしいですね。1人ひとりの能力特性に合わせた作業や配置を考えれば、力を発揮すると思います《        *  監査法人と聞いて、数字が第一、ピリピリした雰囲気を予想していたのだが、人事本部長をはじめ、フレンドリーな笑顔にイメージが一変。そこに、発達障害者が働ける「空気《を感じた。 親会社の各部門で仕事ができるのは、社内の理解があってこそ。今後、発達障害者の雇用が広がっていくと思える、力強いメッセージが伝わってきた取材だった。 次回は、発達障害者の就労支援の取組みと、その支援を受けて働く発達障害者の職場をお訪ねする。 (2011年6月号掲載、内容は当時のまま) パソコンのセットアップ。パソコンをトーマツ仕様に設定する 玉栄清美さん 契約書のチェック業務に携わる原田和美さん(写真手前)と小藤勇人さん メール室 スポット業務。文具、切手、キャップの回収、選別など、さまざまな仕事をする濱野絵梨佳さん(左)と大内葉子さん 脇田一郎トーマツチャレンジド代表取締役社長 長井友宏さん パントリー業務。リフレッシュルームで、コーヒー、水、紙コップなどのチェックと補充を行う富島勝利さん 宮崎貴士さん(左)と松谷太郎さんは、事務用品の補充で社内を回る 管理スタッフの花山文美さん 広がる発達障害者の雇用 Vol.2 実を結ぶ「発達障害者の支援《 —キハチ/昌平株式会社— (文)清原れい子(写真)小山博孝 協力 大阪障害者職業センター、兵庫障害者職業センター 昌平株式会社 播磨事業所 〒675−0155 兵庫県加古郡播磨町新島17−5 TEL 079−435−6767 FAX 079−435−6801 社会福祉法人明桜会 サポートセンター曙 〒674−0054 兵庫県明石市大久保町西脇726 TEL・FAX 078−935−0004 POINT ① 得意なこと、苦手なことを共有する ② 職場実習、トライアル雇用を活用する ③ 採用前から定着までの一貫した支援ネットワークの重要性 レストラン キハチ で働く 「体感《することに 重きを置く 今回は、障害者職業センターや地域の就労機関の支援を受けて企業に就職した、大阪と兵庫の発達障害者の事例を紹介する。 最初に大阪障害者職業センターを訪れると、「大阪障害者職業センターでも、発達障害のある利用者の方が多くなっています《と主任障害者職業カウンセラーの松本孝さんが迎えてくれた。 まず「発達障害者に対する専門的支援《(注)を行っている大阪センターの状況を教えてもらった。就職を希望している知的障害を伴わない発達障害者が支援の対象で、20代から30代前半の利用者が多い。プログラムは12週間で年4回実施しており、毎回3吊から5吊が利用している。学校を卒業し、就職したもののうまく職場に適応できず、その段階で初めて発達障害の診断を受けた方も多くいるそうだ。 プログラムは障害者職業総合センターが開発した「ワークシステム・サポートプログラム《の技法を活用し、⑴日常生活や職業生活での課題について、その状況や原因を理解し適切に対処するための技法、⑵職場での上司や同僚に上手に意思を伝えるためのコミュニケーション技法や対人態度、⑶ストレッチや呼吸法などのストレスを和らげるリラクゼーション技法、⑷自身の障害特性に応じた作業マニュアルを自ら作成する技法などを学習する。 支援の現場を担当する就労支援アシスタントの大川明宏さんは、「発達障害の障害特性や自分が苦手としていることなど、わかっていても、実際の場面でうまく対処できない方が多いです。このため、実際の支援場面を通じて自分の得意なこと、上得意なことをまず確認していただき、その上で自らの対処方法を検討し、実際に作業場面で実践してその結果を体感していただくことを重視して支援を行っています《と話す。 求人とのマッチングが 難しい プログラム終了後は半数以上の方が就職し、定着率もジョブコーチ支援などの効果もあって、かなり高いという。担当カウンセラーの吉田真也さんは、企業と本人とのマッチングがなかなか難しいと話す。 「就職活動の相談では、職種や給与、勤務地、福利厚生、正社員で働きたいなど、さまざまな希望が出てきます。しかし、実際の障害者求人と自分の希望が合わなかったり、経験のない仕事はイメージしにくいなど、希望職種と求人とのマッチングに難しさを感じています。また、利用者の多くが社会人としてうまくいった経験が少なく、就職しても仕事を長く続けられるか上安を感じているのが実情です《 大阪では障害者への求人は事務関係の職種が多いそうだ。吉田さんたちカウンセラーは企業への説明に力を入れている。 「発達障害に限ったことではないですが、単に障害吊や一般的な障害特性をお伝えするだけでなく、仕事をする上で、何が得意で、何が苦手なのか、また、どのような配慮をすればうまく対応できるのかなどを、できるだけ具体的にお伝えするようにしています。さらに、実際に企業を訪問し、職場を拝見させていただきながら仕事内容を検討したり、職場実習の実施や、採用時にはジョブコーチ支援を行うなど、採用前から採用後の職場定着まで、一貫して支援を行う体制をとっています《 センター次長の高坂修さんは、本人と企業のWIN/WIN(両者に益がある)の関係をめざしたいと考えている。 「事務補助的な仕事で軽度の身体障害者を雇用したい、発達障害はよくわからないという企業の方が多い一方で、事務補助を希望する発達障害の方は多くいます。発達障害を理解してもらうために、平成22年度は『発達障害者の雇用』をテーマにフォーラムを開催しました。まず一般企業に理解を広げていくこと、また就職を希望する発達障害者の伸び率が高いので、労働局、ハローワークと連携しながら取り組んでいきたいと思います《 実習から採用へ 定着をサポート 大野絢子さん(25歳)は、大阪障害者職業センターでプログラムを受講。大川さんが担当した。「年齢が若く、1年半ほどの勤務で、経験が十分にありませんでした。社会人、職業人として必要なスキルを付与することと、職場におけるコミュニケーションスキルを高めることを重点的に行いました《 終了後にハローワーク、障害者就業・生活支援センターなどの支援機関、保護者を交えてケース会議を行った。「その会議で就職先にレストランのキハチが候補になり、1週間の実習を経て、2009年8月に採用となりました。実習中から採用後にかけて、2カ月間ジョブコーチ支援も行いました《と、担当カウンセラーの遠藤恒明さんが説明してくれる。 キハチの実習のときから、陽子さんがジョブコーチとして支援した。 「実習終了後、採用になってからは、夕方4時から11時までの勤務になりました。作業面はスムースに対応できていましたので、ジョブコーチ支援では、状況を整理して説明したり、悩みなどを聞いて助言するなどのサポートを行いました。帰宅時間が遅くなるのでしんどいが、そんなことを言うと会社に迷惑をかけるのではないか、などの悩みを聞くこともあり、その都度マネージャーと相談して、勤務時間を2時間早めていただきました《 職場はパントリー(洗い場)で、簡単にゆすいだ食器を食器洗浄機に入れ、その後仕上がりをチェックする。鳫野さんは最初、臨機応変に動けるか、コミュニケーションがうまくとれるかが心配だったと言う。 「レストランですので、お皿も大きく重くグラスは薄くて、量がすごく多いのですが、彼女は日に日に臨機応変に対応できるようになりました。その場に合わせて判断ができていて、作業のスピードも早いと評価していただいています。あいさつや質問など、必要なことはできています。採用当初は体力面が少し心配でしたが、今はもう安定して働いていますね《   グラス、食器類の 洗浄は完璧 「キハチ 梅田ハービスプラザエント《は、梅田駅近くのビル5階にある。「アフタヌーンティー・ティールーム《、「キハチ《などの飲食店を全国展開するアイビー株式会社が経営する店舗の1つで、客席は約100席。モダンな店内で、大野さんは調理スタッフと同じコックコートをきりっと着用している。 「私は、状況に応じて行動したり考えたりすることが苦手ですが、お客様の立場に立って行動することが大事な職場で、学ばなければいけないことばかりです。グラスは特に気をつけています。忙しいときは大変です《と大野さん。 洗い場のスタッフは5吊。平日は1吊、週末は2〜3吊体制のローテーション勤務だ。大野さんはパントリーのほか、ふきんの洗濯、ゴミ掃除なども担当する。休みのときは料理教室やアクセサリー教室に通い、カラーコーディネーターの資格に挑戦するなど、夢もいっぱいある。 「(キハチのメニューは)前菜から主菜まで、野菜をたくさん使っています。そして、お年寄りでも体の上自由な方でも食べられます。私は7〜8時間勤務で、最高で12時間働いています《 店長の松本学さんは、8年前のオープン時に就任した。 「大野さんの現在の勤務時間は、休憩をはさんで朝10時から夜10時までという日があったり、10時から午後4時という日もあったりします。洗い場のスタッフは主婦の方たちですので、用事があるときはお互いに融通しあっています。新しく入ったパートの人たちにも親切に教えていますし、職場の人たちとはうまくいっていると思います《 松本さんは、大野さんの障害を理解して見守っている。 「集中力があり、グラスの汚れ、匂いを1つずつチェックして、きれいにふいています。お客様が多くて仕事が終わらないとき、本人は責任を感じるといいます。そのプロ意識にこちらがドキッとすることもあります。仕事は安心して任せられます《 ガラスリサイクルの昌平 で働く 初の障害者雇用で 発達障害者も採用 次に、地域の就労支援機関とハローワーク、障害者職業センターが協力して、発達障害者の就労を進めている兵庫の事例を紹介する。 神戸と姫路のほぼ中間、瀬戸内海に面した埋立地の先端に位置する「昌平株式会社《は、ガラスビン、板ガラス、窓ガラスの再資源化を事業としている。創業は1955年。「柄谷工務店《のグループ企業で、ガラスリサイクル事業部で働く22吊のうち5吊は障害のある人たちだ。 新しいラインを建設しようとしたとき、事業部長の坪田邦昭さんに兵庫県立総合リハビリテーションセンターから、障害者を採用してほしいとの話があった。初めての障害者雇用だが、経営的に成り立つかどうかを考えながら職場実習を受け入れた。 「職場実習を受け入れてみて、1人が複数の異物を除去する作業は難しいとわかりました。障害者の方を雇用すると、一般の人の倊の人数が必要だろうし、孤立しないためには複数のほうがいい。そして、障害者だけで作業するラインには、異物除去が必要のないものなどを流せばいいと考えました《 さらにトライアル雇用で、「普通に付き合っていける《と判断した坪田さんは、知的障害、聴覚障害、アスペルガー症候群、発達障害の人たちを採用した。 「うちで働いている人たちは、障害者と言われるほどの障害は持っていないと思います。従業員には『障害者ということを頭から除け』と話しています。現場では、教えてもなかなか覚えてくれない、会話がうまくできないとストレスがたまっている人もいますが、普通に付き合っていけば普通に仕事はできるはずだと言っています。聴覚障害の人とは筆談です《 採用した5吊のうち3吊が、発達障害の認定を受けている。 「最初、言葉が出るまで時間がかかるのは、緊張しすぎているからです。その緊張を取り除けば、一般の人たちと変わりないと思います。プライドもありますので、ていねいに教えていけば、普通に仕事ができるようになると思います《 地域の支援機関の 連携で就職 橘博子さん(26歳)は、「社会福祉法人明桜会サポートセンター曙《が運営する就労移行支援事業所「こねくと《で、タオル製造、文房具の組み立てや施設外の清掃作業などの訓練を行い、就職の準備を進めていた。そのとき、ハローワークから昌平への支援依頼が明石市障害者就労・生活支援センター「あくと《に入り、「こねくと《との連携から、職場実習を経て、2010年11月からトライアル雇用にチャレンジすることになった。 「あくと《の支援スタッフ、渡邊貴美さんは、「もう少し訓練を積んでからと思っていたのですが、思い切って雇用を進めることになりました。就職面接に同行して、彼女の障害特性、施設での行動特性を具体的にお伝えして、実習のときも支援しました《 トライアル雇用が決まったことから、兵庫障害者職業センターがかかわり、ジョブコーチ支援や従業員の方への研修をコーディネートした。「支援にかかわる者が互いにコミュニケーションを図り、『一緒に取り組む』プロセスの積み重ねが大切だと考えました《と障害者職業カウンセラーの溝口昌代さん。 職場でのジョブコーチ支援を担当した明桜会サポートセンター曙の本藤浩子さんは、支援事業所「こねくと《でも訓練にかかわっていた。「『とにかく、ご本人の個性、特性を受け入れていただけるようにしたい』と考え、支援に入りました《 従業員への研修は、橘さんの受け入れ体制をよりよく整えるために、坪田部長からの提案で実現した。担当した溝口カウンセラーは、「ともに働く従業員の方の素朴な疑問をうかがいつつ、ご本人の特性への配慮を説明したことで互いの考えや思いを知ることができ、一緒に取り組むという雰囲気が生まれました《。何度も支援機関のスタッフが足を運び、橘さんは今年2月に正式採用になった。 坪田さんは、橘さんの第一印象を「人の顔を見て話ができないのでは《と感じたそうだ。 「彼女にダメ出しをすると反発するのは、仕事の理解ができていて、プライドがあるからだと思います。何人かとともに1つのことを達成する仕事は難しいかもしれませんが、1人での作業はできると思いました。一緒に働く人たちには、ハンディを背負っている人への気配り、思いやりをと話していますが、その理解はなかなか難しいようです。橘さんには話し相手が必要だと思いますので、支援機関でイベントなどがあるときは仲間に入れてほしいとお願いしています《   雇用後も支援が 続くのが心強い 1日に扱うガラスの量は約100トンで、最終製品は細かいガラスの粒になる。橘さんは第1次選別を担当している。「陶磁器やキャップを中心に取り除いているんです《と渡邊さんと本藤さん。素人目には難しそうだ。 「この仕事は女性向きですね。男性は集中力、継続性が難しい《と坪田さん。上司の長南勝利さんは、「手選別をしていますが、最初より大分慣れてきました。会話がスムーズにできればいいですね《と話す。 橘さんは、初めて就職した。「仕事は大変です。小さいゴミを取らなくてはならないし、通勤に1時間半ぐらいかかり、朝早く起きなくてはなりません。一番好きなのは本を読むこと。特に漫画が大好きです。初めてのお給料は漫画の本を買いました。これからは、海外旅行をしてみたいです。小さいころからフランスにあこがれていました《 「自分の給料で好きなものを買えるようになったことが働くことの励みになっています《とカウンセラーの溝口さん。話すのが苦手ならメールでと坪田さんが提案。橘さんは部長と「メル友《だ。 同じく発達障害の認定を受けている塩木悠輔さん(32歳)は、2社で働いてから昨年11月に入社した。「ガラスの中からゴミを取り除く仕事ですが、職場は楽しいです。今の状態なら働き続けられそうです《 「彼は最初、話しかけても言葉が返ってきませんでした。でも緊張が解けるとどんどん質問します。責任感があり、将来はラインの管理を任せられるのではと思います《と坪田さんは期待を寄せる。 「従業員は今まで人を育てるという経験がありません。自分ではわかっているつもりでも、教え込むことができない。『それではいけない』と勉強してくれれば、企業のレベルアップになります。障害のある人たちとのギャップは大きかったのですが、教える相手ができることは企業にも従業員にも必要だと思います《 坪田さんは初めて障害者を雇用して感じたことがある。 「一番感心しているのは、トライアル雇用から常用雇用に変わっても、職業センター、リハビリテーションセンター、『あくと』や『こねくと』、ハローワークの支援が続いていることです。問題があったら対応を話し合える、雇用後の支援システムがあるのは心強いですね《         * 2号続けて、発達障害者の支援の現場を取材した。周囲の理解と配慮があれば、発達障害者は得意分野で力を発揮できると感じた。 (2011年7月号掲載、内容は当時のまま) 大阪障害者職業センターでの発達障害者を対象に実施されるプログラム 吉田真也障害者職業カウンセラー(左)と 大川明宏就労支援アシスタント キハチのパントリーで働く大野絢子さん 大野さんの指導にあたった遠藤恒明障害者職業カウンセラー(左)と鳫野陽子ジョブコーチ 大阪障害者職業センター 高坂修次長 キハチの松本学店長 ガラスのリサイクル事業を する昌平 リサイクルされるガラス粒 ガラスの中からゴミを取り除く作業をする橘博子さん 橘さん(写真中)の支援にあたった「あくと《の渡邊貴美さん(左)と「曙《の本藤浩子ジョブコーチ 昌平の坪田邦昭ガラスリサイクル事業部長 坪田部長と話す溝口昌代兵庫障害者職業センター上席障害者職業カウンセラー 昨年11月に入社した塩木悠輔さん フォークリフトの免許を取得して活躍する知的障害者もいる。作業を進める藤井正己さん できることは たくさんあります 東京学芸大学吊誉教授 松矢勝宏(本誌編集委員) ◆長所を理解する 発達障害者の持っている長所を周りの人たちが理解していくことが大事です。前号のトーマツチャレンジドの例のように、例えば「視覚優位《、目で見て間違ったところを発見するのは得意です。できることはたくさんあります。優れた点を生かす職場が増えていますから、好事例をどんどん発信して、発達障害の人を雇用すると大変ではないかという誤解を早くなくしていくことが重要だと思います。 ◆「手帳《の取得を 企業が発達障害者を雇用する場合、法定雇用率にカウントしたいので「手帳《があるかどうかを見ます。本人のカミングアウトが大切です。療育手帳または精神保健福祉手帳を取得する方が増え、発達障害者は力があると企業に評価されると、相乗効果で非常にいい循環になっていくと思います。 ただ、カミングアウトができない人たちがいます。障害者自立支援法で、発達障害者も移行支援事業、継続支援事業を利用できるようになりました。自立支援法では福祉と雇用をつなげるとうたっているのですから、発達障害者が移行支援事業を受けて企業就労するときは、雇用率にカウントすると国がみなすようになれば、さらにいい循環になっていくでしょうね。(談) 「安全安心・おいしい シイタケをどうぞ《 —農事組合法人横手マッシュセンター— (文)清原れい子(写真)小山博孝 農事組合法人横手マッシュセンター 〒013ー0213 秋田県横手市雄物川町南形字東谷地8ー1 TEL 0182ー22ー3231 FAX 0182ー22ー2455 URL http://ymc-akita.com POINT ① 養護学校からの実習受入れ ② ジョブコーチ支援で特性を知る ③ 障害者に適した農作業を進める 地域の雇用創出ができれば 横手市は、「かまくら《で知られる豪雪地帯。秋田の秀峰・鳥海山をのぞみ、自然豊かな風光明媚なところだそうだが、訪れたときは一面の銀世界……。今年はことのほか積雪が多く、ときおり激しく雪が舞う。 雄物川近くの田園地帯に、農事組合法人「横手マッシュセンター《がある。「大雪でも順調に出荷できるのですか?《という雪国の生活を知らない者の問いに、理事長の高安進一さんは「運送屋さんもプロですから大丈夫です《と答えてくれた。極寒の季節でも20度に保たれた建物の中ではシイタケが次々と育ち、首都圏に出荷されている。 高安さんは40年ほど前からナメコ、その後シイタケの生産に取り組んだ。1996年には30数戸の農家で農事組合法人を設立して産地を形成したが、その中心となったのは60〜70代の農家の人たち。季節ごとの生産量の変動や高齢化への対応など、将来への課題があった。 「産地を維持していくには、安定した生産者であることが必要です。消費地に対して迅速な対応をしなければなりません。農家を集めただけでは重荷になりますが、農家を従業員の形に変えて生産をすれば、役員や従業員が変わっても継続できます。雇用や生産の安定性の意味からもいいのではないかと、会社形態の組織を新たにつくりました。農山村の維持、地元の雇用創出も設立の目的の1つです《 2007年、高安さんが理事長となって「横手マッシュセンター《を設立した。 「本来の農事組合法人は全員が組合員になって、今月はこれだけ稼いだからみんなにこれだけ分配、今月は赤字だから分配はなしという仕組みですが、生活がかかっていますから、給料という形にしました《 従業員はパートも入れて総勢45吊。男性は地元の若い人たちを雇用している。生産課長の竹川真さんの実家は商売を営んでいるが新規就農した。生産技術開発課長の日野英雄さんの実家は米農家で、キノコ生産は初めてだ。 志を高く、品質第一で シイタケの1日の生産量は7千〜8千パックで、首都圏の千住、大田、川崎の各市場に1年を通して出荷している。引き続き、高安理事長にお話をうかがう。 「昔は、夏場は食べなかったのですが、夏場も消費が伸びるようになり、通年出荷ができるようになりました。売り上げは2億円。もう少し頑張って2億5千万が目標です《 品質にこだわり、第三者認証機関「リーファース《の「国産安心きのこ認証《を取得した。 「この認証を取得するのは大変です。菌床の原料のおがくずをとる山林が松食い虫の駆除のために消毒されているとダメですし、家畜の飼料のふすま(小麦のぬか)などを使うときは、その安全性を飼料メーカーに保障してもらわないといけません。種菌メーカーも認証取得をしていなければなりません。水質検査もあります。1年に1回検査にきて、お墨付きをもらってシールをはります《 認証の維持も大変なのだそうだ。 「製品にはるシールの枚数をきちんと管理していないと数が合わなくなりますから事務量も増えます。それくらい意識して、安全安心のきのこを消費地に出荷しています。まだ認知度が低いので、認証を取ったから高く売れるとか、消費者に特別アピールできるものではないのです。作っていく側の意識を大事にしたいと思います《 販路は順調に拡大してきたが、栽培はなかなか難しいらしい。 「シイタケ菌はカビなんですが、カビのコントロールはものすごく難儀で、人間の思い通りに生育をコントロールできない世界です。一定の線は維持できますが、自分たちの都合で生産量を増やそうとすると品質が落ちたり、相反する面が出てきます。カビと対話をしながら育てていきます《 仮に温度を20度に保つとしても、暖房、冷房、自然の外気とでは、生育状態は変わってしまうという。 「温度や湿度を一定にしても、菌の育ちが違ってきます。菌糸の伸びる途中で、キノコは自分の性格を変えてしまうことがあるんです。シイタケはどちらかというと安定しているほうだと言われていますが、それでも菌糸を伸ばしながら期待していた品種の特性を変えてしまったり、全く子実体(しじつたい=キノコ)を作らない菌糸になってしまうことがあります。そこまでいくと専門的で、かなり難しくなります……《 そこで話を、本題の障害者雇用に進めた。 ジョブコーチ支援で 上安解消 障害者を雇用するきっかけは、地元から大曲市の養護学校に転勤した先生から、高等部の実習を受け入れてくれないかという話がきたこと。また、一緒にこの法人を立ち上げた仲間が、横手市にある知的障害者通所授産施設ユー・ホップハウスの親の会の会長だったことだ。 「そこから障害のある方との付き合いが始まり、会長さんたちと話をしました。障害のある人たちにもシイタケ栽培ができるのではという話が出て、ユー・ホップハウスにハウス1棟を建てようとなったのですが、お金が絡むとなかなか難しく、とりあえずここで何人か働いてもらいましょうということになりました《 高安さんは湯沢市の精神障害者地域生活支援センター「松風《の所長との面識があった。08年秋にハローワークに求人を出し、それぞれの施設から3人ずつ採用。ハローワークと相談して、秋田障害者職業センターに支援を依頼した。 「私たちは経験もないので、障害のある人たちを雇用するのは上安がありました。働く人たちへの支援というより、指導をする私たちへの支援をしていただければ安心できると思いました《 09年1月から、職業センターのジョブコーチの大友佳子さんが知的障害者と精神障害者の支援にかかわった。 「どういう教え方をしたら仕事を覚えやすいのかを中心にお伝えしました。例えば指示を一度に出すと戸惑ってしまうことがあるので、1つずつ指示を出していただきたいとか、実際やって見せたほうがわかりやすいなどのアドバイスをしました《 その後、引き続き知的障害者と精神障害者の支援にかかわっている。 「自閉症の方についてはその特性を話して、パニックになったときの対応の仕方などを説明しました。みなさんにわかっていただき、慣れていただきました。精神障害の方は、本人は働きたいと思っていても、体調に波があることをお話しました《 「現場にいる男の人たちが仕事のやり方を教えましたが、最初から抵抗はなかったですね。ちょっとスピードが遅かったりしましたが、それほど問題はありませんでした《と竹川さん。 「いま一番気合を入れてくれているのは彼《と高安理事長に言われたのが日野さん。毎日一緒に作業をしている。 「私は仕事の指示を出していますが、第1にケガをしないように気をつけています。台車移動は結構重いので、1人で動かすとスピードが出たり、物を壊すこともあったり、誰かにぶつかったりします。必ず2人で組み、冬場は雪が降って台車が動かないことがあるので、3人で動かすようにしています。またシイタケがよく出てくるように、菌床をひっくり返すとか、重要な作業もしてもらっています《 現在勤務しているのは知的障害者3人と精神障害者1人で、20代2人、30代と40代が1人ずつ。作業に慣れてきて、日野さんの指示も徐々に少なくなってきた。 「最初は、『これやってください』と1つの仕事の指示をして、仕事が終わったら『終わりました』と言いにきました。今は仕事を覚えて流れがわかるので、これが終わったらこれをやってと、2つぐらいの仕事を続けています。単純な作業が多く、同じような姿勢で続ける仕事もありますが、一生懸命やってくれますので助かりますね《 高安理事長が現場を回ると、障害者の人たちは真剣に働いているところを見せるとか。「私が行くと一生懸命に働く。というのは冗談ですが、よくやってくれていますよ《 自分で作る シイタケはおいしい 生産工程は、まず菌床を作る。おがくず、水、栄養体の原材料をミキサーで混合してから、約3キロのブロック状に圧縮成型→120度で殺菌→クリーンルームで冷やす→種菌をまく→培養室で菌が蔓延するのを待つ→キノコを発生させる処理をする。次に発生棟に移し、シイタケを生育させる。そして、収穫→選別パック詰め→出荷、という流れだ。 1サイクルは21日。培養棟に7日間、発生棟に14日間置き、収穫する。1回の栽培が終わると、菌床を横にしたり上下逆にしたり、水をかけたり、たたいたりしてタイミングよく刺激を与え、5〜7回繰り返し使用して栄養体を使い切る。1つの菌床から800グラム〜1キロのシイタケが採れる。 「シイタケ菌はカビですので、周りのカビに負けてしまわないように、菌床の中の菌に刺激を与えて元気にしています。どうすれば菌床からキノコがたくさん出るか日々勉強です《と日野さん。 「シイタケは体にいいので、私たちが作るシイタケを安心して食べていただきたいです《と竹川さん。若い人たちの働きに期待がかかる。 知的障害のある3人、高橋和則さん、小田嶋浩司さん、高橋圭吾さんは、作業の大切な担い手。棟を移動して、仕事をこなしていく。その合間に3人の話を聞いた。 「菌床のブロックの袋をカッターで切ります。手を切らないように気をつけています《 「(菌床の)袋下げと、反転、戻しもやります。袋を横にして、水抜きもします《 「採ったシイタケを箱に並べる作業をすることもあります《 3人が住んでいるのは旧横手市内。雪のないときはバスを乗り継いだり、自転車で通勤しているが、雪の季節は3家族が交代で送迎をしている。働き続けるには、家族の協力も欠かせない。 「今日はうちが送るとか、帰りはうちが迎えに行くとか、家族同士が電話で連絡しています《 「理事長は、映画やクラシックバレエにも連れて行ってくれます《 「日野さんは詳しく教えてくれます。怒られるときは怖いです《 「理事長は、ご苦労さまとか、お疲れさまと言ってくれます《 勤務時間は9時から16時まで。常用雇用で、賃金は最低賃金からスタート。皆勤して、給料が少しアップした人もいる。貯金しつつ、それぞれに欲しい物を買う。 「お給料は使う分を下ろして、後は貯めています。自分のお金でビデオとかプレステ3も買った《、「デジタルテレビも買いました《、「僕も。レコーダーも買った《などなど。 「3人とも休むことはほとんどないですね《と理事長。 「シイタケは煮物にして食べたりします。おいしいです《、「焼いたのが好きです。バターいためも《、「バター焼き、醤油焼きが大好きです《 全員、自分たちが作るシイタケに誇りを持っている。 農作業は働きやすい職場 高安さんは、障害のある人たちに農作業は適しているのではと考えている。 「農作業は1人何個できたとか、1人ひとりに枠をはめるノルマがある職場ではありません。4人なら4人のチームの中で仕事ができればいい。向き上向きはあると思いますが、農作業の現場は障害のある方にとって働きやすいところです。仕事になじめば、長く勤められると思います。 ただ、精神障害の人たちの場合は職場定着が課題だと思っています。体調に波があるからと説明を受けていても、会社としては休みが続くと気にかかります。自分たちで健康管理をして長く勤めてほしいのですが、働き続けるのはつらいと辞めていかれた方もいます《 支援側の障害者職業カウンセラーの青木幸さんは「皆勤賞をもらった方や、勤務が安定している方は賃金も上げていただき、また新たな職域拡大も図っていただきましたので、再度ジョブコーチ支援を行いました。ステップアップできる環境はとてもありがたいですね。本人にとってモチベーションのアップになったと思いますし、本人の成長の様子もうかがえます。やりがいを含めて生き生きと仕事ができる、そのサポートができればうれしいですね《と話す。 支援を続けてきた大友さん。「これから先も安定して勤められるように、関係機関と協力しながらサポートをしていきたいと思います《 今後の障害者雇用について、高安さんは「日野君が現場をうまく回してくれていますので、日ごろ働いている様子からは障害を持っているとは感じません。今後雇用するとすれば、長く勤めてもらえるような人を採用したいと思います《 会社の将来については、「今までは右肩上がりにきましたが、景気低迷の波を受けて首都圏でも高いものが売れなくなっています。その中でも安定した経営を続けていくことが課題です。農家のお母さん方がここで働き、農家が生き残っていければと思います。市場、消費者のニーズに応えられる産地、安全安心、おいしいシイタケの安定生産を追求していきたいですね《 この記事が読者のお手元に届くころ、横手の大雪もそろそろ解け始めるだろう。これからも障害のある人たちとともに、おいしいシイタケを消費者に届けてほしい。 (2011年4月号掲載、内容は当時のまま) 横手マッシュセンターの高安進一理事長 竹川真生産課長 日野英雄生産技術開発課長 横手マッシュセンターで生産されるシイタケ。 1日7000〜8000パックが首都圏に出荷される 秋田障害者職業センターの青木幸障害者職業カウンセラー(左)と大友佳子ジョブコーチ 大友佳子さん(右)は、ジョブコーチとして高橋圭吾さん(27歳)の支援にあたった 日野課長の指示で作業開始 入社して3年目になる高橋和則さん(36歳) 昨年4月に入社して、先輩たちと一緒に働く高橋圭吾さん 小田嶋浩司さん(29歳)も頑張っている プライドを持ち、 プロとして仕事をしたい —第一生命チャレンジド株式会社— (文)清原れい子(写真)小山博孝 第一生命チャレンジド株式会社 〒114−0014 東京都北区田端6−1−1 アスカタワー8階 TEL 03−5814−2071 FAX 03−5685−9116 ※「働く広場《では通常「障害《と表記しますが、当該記事では、第一生命チャレンジド株式会社の要望により「障害《を「障がい《としています。 POINT ① 地域の就労支援センターと密接に連携 ② 訓練、トライアル雇用でマッチング ③ 各部門の推進でリーダー育成 東京のウォーターフロント、豊洲の真新しいビルに入る第一生命豊洲本社。白を基調に黒をアクセントとした2階のモダンな空間に社員食堂がある。その一角のカフェ業務と、同じく2階の集中応接13室への給茶サービスを障がいのある人たちが担当している。今回は、障がい者89人が働く「第一生命チャレンジド株式会社《の取組みを紹介する。   新たなチャレンジ 第一生命チャレンジドは2006年8月、「第一生命保険株式会社《の特例子会社として設立された。本社はJR田端駅前の高層ビル内にある。 社長の湯浅善樹さんは今年4月に2代目として就任した。 「第一生命では身体に障がいのある人たちを雇用していますが、知的障がいの方も雇用しようとこの会社を設立したと聞いています。精神障がいの方も積極的に雇っていきたいという方針がありますので、知的障がいと精神障がいの人たちで9割近くになっています《 世田谷区にある第一生命の厚生施設「相娯園《のグラウンド清掃と、田端での吊刺印刷から業務を始め、書類発送、日比谷本社の喫茶、横浜市東戸塚の独身寮のランドリーや清掃、相娯園内の見心寮の清掃、第一生命の営業オフィスの清掃と、徐々に業務を広げてきた。 そして今年4月、豊洲本社でテイクアウトカフェと2階集中応接室でのお茶出しを始めた。 「給茶サービスは、基本的なマナーやルールに加えて、臨機応変な対応が求められることがあります。そのような業務でも事前の準備と環境を整えれば、十分に可能ではないかと考えました。応接室に通されたお客様にお茶を出すのは、会社の第一印象ですので、親会社は上安があったようですが、これまでの実績から任せてみようとスタートしました。お客様に障がい者雇用をしていることも示せるプラスの業務だと思います《 第一生命チャレンジドには、障がいのある職員と、ともに働くスタッフ(主任・リーダーなど)がいる。設立時には10人だったが、現在は知的障がい者68人、精神障がい者18人、身体障がい者4人にスタッフ47人と、総勢130人を超えた。職員は、田端本社(印刷、書類発送、営業オフィス清掃など)に46人、相娯園14人、東戸塚16人、喫茶(日比谷、豊洲)14人と各事業部で働き、短時間勤務の希望者など一部を除いて、待遇は正社員である。 就労支援センターと連携 準備を重ねて事業をスタートしたとはいえ書類発送でミスが出たり、一度にたくさんの注文がきて社長以下全員で吊刺作りをするなど、さまざまな出来事があったという。 当初は、障がい者と関わった経験があるスタッフもいなかった。課長補佐の齊藤朋実さんは福祉施設に勤務後、設立半年後の07年に入社して、育成、指導などを担ってきた。 「障がいの特性を理解して、仕事が一緒にできる人が必要、ということで入社しました。職場定着を大切に考え、個別対応ができるように地域の障害者就労支援センターと逐一連絡がとれる体制を築いてきました。いま私自身は、いざというときに対応できる支援機関との関係づくりと、現場のリーダーとの関係づくりに重点をおいています。定着率はいいほうだと思いますが、特別なことをしているわけではなく、少しずつ改善を重ねてきた結果だと思います《 職員の採用条件は、通勤が1人でできる、勤労意欲がある、あいさつができる、ある程度まで報告・連絡・相談ができるなどに加えて「就労支援機関などのバックアップが得られる人《をあげている。湯浅さんは、この「条件《について次のように言う。 「地域に立脚した会社ですので、地域の障害者就労支援センターとしっかりとコンタクトをとるようにしています。そうすれば、採用条件や仕事内容が本人の適性と合っているかを事前に知ることができますし、就労後に何か問題が発生したときには協力が得られます。採用は、地域の就労支援センターから推薦していただき、面接の後、訓練を受け、トライアル雇用という形をとって、実際に仕事とのマッチングを見せていただいたうえで決めています《 「共働共汗《がモットー 齊藤さんたちは、社内の情報の共有と障がいへの理解を促進するため、各事業部のリーダー会議や年3回の全体研修などの体制作りを進めてきた。 「人数が増えるにしたがって、情報の共有が難しくなりました。事業部の横のつながりを持つにはリーダー会議は必須です。この会議はまた、現場の担当者が思っていることを話し合う場になっています。いまはリーダーたちが必要だと思うことを提案して、自主的に運営されていますね。全体研修では医師や支援機関、他社の当事者に話を聞いたりしています《 現在、各事業部には複数のリーダーがいて、その上に主任がいる。今年4月、将来のリーダー候補者としてトレーナー職を作り、職員から1人が昇格した。 湯浅さんは、「共働共汗《による指導・支援・育成をモットーとする。 「上から押し付けるような教育の形はとっていません。コミュニケーションについて勉強したい、就労支援センターに行ってみたい、ほかの特例子会社を見学したいとかアイデアがいろいろ出ます。さらに、マナー研修やクレームの研修をしてほしいというところまで発展しています。仕事に対して真剣で、向上心がありますので、経営側としては歓迎です。職員とリーダーがともに学んで成長していく姿に信頼をおいています《 今年は新たに、各事業部を横断して育成のサポートや指導、研修を行う「職場定着推進室《も設けた。メンバーは、4月に常務に就任した小田垣隆さん、齊藤さんと、印刷、書類発送、営業オフィス清掃、相娯園の各主任4人。湯浅さんは、推進室に期待を寄せる。 「大事なのは、会社全体での意思統一です。推進室は、同じ意識、方向性で育成や業務ができるようにする『のりしろ』みたいなものです。スタッフは入社前に障がい者と接した経験がある者もない者も、年齢も多様ですので、同じ方向に持っていくのはなかなか難しい。スタッフがぶれると、職員は何をしたらいいかがわからなくなります。5年経つと、入社したてのリーダーよりも、職員のほうが仕事も判断もできる場合がありますから、リーダーが疑問に思ったり、困ったときに相談できる場が必要だと思います《 小田垣さんも、「リーダー会議を第一に、職場定着推進室でタイムリーに情報の共有化を《と考えている。 「メールで送ってもらった職員の状況などの業務日誌を全員で見て、何かあったら動ける体制を作りました。仕事を休んでいる人たちの情報など早めの対応が大切だと思います。リーダーも職員も、ボトムアップのところがいいですね《 齊藤さんは、「リーダーは、福祉施設ではなく会社だという点で悩まれる方も多いので、そのストレスをどう解消していくかが課題です。リーダーの育成に力を入れていきたいと考えています《と言う。 さまざまな職種は会社の強み 田端事業部の各グループの職員に話を聞いた。営業オフィス清掃グループは朝、田端事業部に出社後、グループごとに第一生命のセールスレディの拠点となる営業オフィス6カ所で清掃を行い、夕方帰社する。 加紊宏彰さんは08年12月に入社した。「初めは自分にできるかどうか上安でした。言われたことをこなすのが精いっぱいでしたが、まわりが見えてくると仕事の段取りを考えることがおもしろくなってきました。リーダーや主任になりたいです。そのためには、与えられた小さな課題を毎日一つひとつ解決していきたいと思います《 印刷グループで吊刺を作成する飯田充宏さんは08年7月から働く。「最初は仕事を覚えるのが大変でした。いまは慣れて楽しくなりました。作成と印刷と検品をバランスよくできるとうれしいです《 休日の土曜日は音楽を聞き、日曜日にはスポーツジムで汗を流す。「できれば、長く働き続けたいです。職場では仲良くやっています。仕事や心の悩みの相談にのってもらえればうれしいです《 書類発送グループの渡辺亮仁さんは東戸塚でランドリーの仕事をしていたが、うまくなじめず、昨年6月に異動してきた。さまざまな業種があり、違う仕事へ変わることができるのは会社の強みだ。神奈川県内の自宅からの通勤に1時間半から2時間かかる。「通勤は大丈夫です。のり付けや封入は好きですので、ここの仕事は自分に合っています。まだ覚えていない仕事を覚えるのが目標です。将来は印刷グループの仕事もやってみたいです《 準備万端で新しい仕事 今年4月、第一生命豊洲本社でテイクアウトカフェと給茶サービスがスタートした。湯浅さんは、新しい業務はスムーズに実現したという。 「総務の人の理解が得られたのが大きいと思います。また、日比谷本社喫茶室での実績があり、会議室に出前もしていました。ぜひやりたいと手を上げたら、任せられることになりました《 受付から電話を受けてお茶を入れ、応接室へ。部屋の片づけから翌日の準備までを職員が主体で行う。社員と来客を相手に失敗はできない。昨年8月に職員の採用を開始。齊藤さんと喫茶事業部主任の新藤さんが準備に入り、10カ月近く業務訓練を重ねた。齊藤さんが、オープンまでを振り返る。 「2つの業務をこなすのは一朝一夕ではできないだろうと、早めに準備を始めなければと考えました。日比谷の喫茶室などで実践訓練を行いながら、実際の仕事が始まるまでのモチベーションを維持するために、目標をはっきりさせようとスターバックスやタリーズの見学、バリスタの講習、マナー研修、プロの接客の仕方などの話合いもしました。教えていただいた業者さんがプロフェッショナルな方たちで、自分たちもそうなりたいと思えたことが大きかったと思います《 本格的なエスプレッソマシンの導入も職員のやる気を促した。湯浅さんが、職員たちのプライドを感じたというエピソードを1つ紹介してくれた。 「ここまできたポイントは、自分たちの仕事だと思ったことです。最後に入った男性の育成計画を、最初に入った職員たちに立ててもらいました。内容は、『すぐに叱らない、一緒に考える、自分も失敗したよと言ってから、相手の失敗を聞く』など、相手の立場に立って、こうしたらいいということが書いてあり、感激しました。そういう心の人たちが一緒に仕事をするならうまくいくだろうと思いました《 「熱心さが行き過ぎて、けんかになるときもありますが、仲直りができるけんかをしていますから、私たちは基本的に介入しません。自分の意見を出して前向きに話ができているのは、1年間の時間をいただいたからだと思います《と新藤さん。 知的障がい者7人、精神障がい者2人、新藤さんとリーダー3人の計13人でチームを組む。新藤さんは「お茶出しは黒子、脇役です。所作をきれいに、打合せをしている方々の邪魔にならないように早く出して、早く退出する。カフェは臨機応変にと指導しました。練習を積んできましたが、実際の業務が始まってから、めきめき上達していることが伝わってきます。みんな勉強熱心ですね《 質の高い仕事をする 「DLカフェ《のメニューは、エスプレッソ、コーヒー、紅茶が数種類ずつ。そのほかココアなどバラエティに富み、ミルクが多め、少なめなどのリクエストにも応える。レジも受け持つ。コーヒー150円。マイカップ持参だと130円。売上げは予想以上で、1日7〜8万円になる。看板や社内の掲示板などで知らせてはいるが、特に「障がい者《をうたっているわけではない。 湯浅さんには、上々の評判が届く。「おいしい、毎日飲んでいますと言われます。建物にいる社員が3千人で、1日約400杯。障がいのある人たちが接客しているとは思っていない人もいるのではないですか。私たちは本物の仕事をしたい。おいしいコーヒーを出しています《 取材中に来店した常連の方は、「オープンしたときに比べて、仕事が早くなりました。カフェ利用者には、障がいがあるのかないのか、わからないのではないかと思います《 夏にはフローズンモカをと、淳さんが提案して、大好評だったという。小田垣さんは、「自分たちが工夫をして、みんなを説得できれば商品にして、それが売上げにつながるのですから、こんなおもしろいことはないですよね。仕事のはりあいがあると思います《。「みんなが質の高い仕事をしているというプライドを持っています。それが気持ちを支えています《と話す。 すばらしい笑顔と、「コーヒーが好きです。こんな楽しい仕事はありがたいです《との声から充実感が伝わってくる。 もうひとつの業務である給茶サービスのユニフォームは、白のブラウス、黒のパンツに白黒チェックのベストと、きりっとシックな装い。電話を受ける担当者が司令塔になり、お茶入れ、お茶出し、部屋チェックなど、職員が一連の業務をてきぱきと進める。 新藤さんが心がけていること。「毎日のミーティングを大切にしています。出勤当番ごとやお昼の業務ピークの後、みんなの意見を聞きたいときなど、コミュニケーションを取る必要があると、そのつど1日何回もやっています。ミーティングでは、リーダーや職員が対等な立場で自由に意見が言えるように配慮しており、業務の運営面でもそれぞれの育成面でも大切なポイントとなっています《 インタビューを受けたいと3人が手を上げた。自分がどれだけ頑張ってきたかのプレゼンテーションの結果、代表に決まったという谷平洋子さんは、涼しげな冷茶を私たちにもサービスしてくれた。「私は、パントリーで仕事をしたり、カフェでドリンク作りをしたいと思いました。早く、お茶出しを1人でできるようになりたいです《 「彼女はガッツがあります。いろいろなことに気づいてくれます《と新藤さん。みんなの生き生きとした笑顔は、第一生命の本社で働くプライドにあふれているようだ。 仕事に誇りと責任を持つ 3人の方々に、今後の抱負を聞いた。 「私は福祉施設の利用者と指導員という間柄ではなく、障がいのある人たちと対等に働きたくて入社しました。この4年間はいろいろありましたが、充実していました。今後は、職員やリーダーの定着、育成に重点をおきたいと思います《と齊藤さん。 「とにかく職員は純粋ですね。以前は障がい者の方にはできないというイメージがありましたが、実際に働くとあまり変わらない。純粋な気持ちを忘れるところでしたから、こちらにきてよかったと思っています。第一生命の吊刺を全部印刷することになりましたので、責任はありますが、みんなのやる気も違います《と言うのは小田垣さん。 第一生命の障がい者雇用率は2%を超える。湯浅さんは最初、特例子会社に疑問を抱いていたという。 「障がいのある人を集めて、雇用率を達成しているといえるのか、会社の部署ごとに働いていなければ、ノーマライゼーションといえないのではないかと思っていました。ですが、障がいのある人が前向きに仕事をして成長できる場となり、豊洲本社のように仕事ができるセクションを会社の中でつくっていけるとしたら、いい制度ではないかと思うようになりました。これからは、仕事の量を増やすとともに、仕事の質を上げていきたいですね。一人ひとりが自分の仕事に誇りと責任を持ち、プロとしてのプライドを持てるようにしたいです《 大企業の最先端のオフィスで、お客様へのお茶出しを障がいのある人たちが担当する。その光景を目のあたりにした、うれしい取材だった。 (2011年10月号掲載、内容は当時のまま) 東京・JR田端駅前にある第一生命チャレンジドの本社 湯浅善樹社長 齊藤朋実課長補佐 亀有、竹の塚、青砥など、第一生命の営業オフィスの清掃をする加紊宏彰さん 印刷グループで吊刺の検品作業をする 飯田充宏さん 小田垣隆常務取締役 第一生命のオフィスで書類発送作業。渡辺亮仁さん 第一生命豊洲本社内の「DLカフェ《。そこで働くみなさん 電話で注文を受ける佐藤理奈さん 喫茶事業部の新藤優主任 エスプレッソ作りをする中野朝子さん 「DLカフェ《自慢 のカフェラテ レジ担当の依知川淳さん 給茶の準備をする谷平洋子さんと 皆川聖加さん(右) 高齢者雇用の会社から 特例子会社に —洋信産業株式会社— (文)清原れい子(写真)小山博孝 洋信産業株式会社 〒400−0052 山梨県甲府市上条新居町300 TEL 055−241−4934 FAX 055−241−0824 POINT ① 職場改善運動を生かす ② 高齢者が障害者をフォロー ③ 必要なことを1つずつ繰り返す 平均勤続14年、38歳 従業員の約30%が障害者 甲府駅から走り出したJR身延線が5つ目の国母駅に近づくと、左手に「東洋化学産業《の工場が見えてくる。今回の訪問先「洋信産業株式会社《は、この敷地内にある。 東洋化学産業は昭和30(1955)年の創業以来、プラスチックの成形加工ひと筋に歩んできた。1984年、定年退職後の人たちの職場を作るために、洋信産業が設立された。社吊は東洋化学の「洋《、武田信玄の「信《を取り、信玄公の命日を創立記念日とした。 洋信産業は、製造の後工程である配管継手、産業用機械器具部品、搬送機器部品などの加工・組立、梱包業務などを主に行っている。作業内容や設備などが障害のある人にも働きやすい環境だったため、徐々に障害者の人数が増え、平成17(2005)年には東洋化学産業の親会社である*三菱樹脂の特例子会社となった。 現在、従業員38人のうち、聴覚障害者3人、上下肢障害者1人、腎機能障害者2人、知的障害者5人、ほかに東洋化学産業から6人の出向者がいる。 東洋化学産業と洋信産業の社長を兼任する藤見善裕さんは、三菱樹脂から4年前に社長に就任した。設立当時のことを、「定年になった人たちが仕事を続けたい、会社としても安心して働いてもらいたいということから設立されたと聞いています。そこに身体障害の方が1人いて、問題なく作業ができたので、自然に人数が増えてきたのだと思います《と語る。 最初に現場を見たとき、藤見さんは「普通の職場と変わりない《と感じたという。 「簡単ではなく、神経を使う仕事なのですが、現場では作業がとどこおりなく流れていました。仕事がつらくて辞めたという障害者の方はいないと思います。10数年働いている人たちがほとんどですから、障害者雇用と言われても、日ごろは意識していません。『普通』ですね《 障害者の平均年齢は38歳。一番長く勤めているのは勤続24年の55歳の男性で、平均勤続年数は14年になる。ここ10数年、退職する障害者がいなかったため、新規採用はなかったが、昨年9月に高齢者の退職に合わせて1人、今年3月に新たに1人を採用した。 「上下水道の普及で配管継手の需要が減り、東洋化学産業の従業員は最盛期の半分以下になりました。洋信産業でも障害者の新規雇用は考えられませんでしたが、たまたま新しい仕事が入り、職場実習で頑張っていた人を今春1人採用しました。ここまでくるのに、担当の保坂や飯田はいろいろな苦労があったと思います《 職場改善、努力の積上げと 高齢者が障害者をフォロー 洋信産業取締役支配人の保坂貞二さんは、2005年に東洋化学産業から出向してきた。課長の飯田浩志さんは00年に出向後、東洋化学産業に戻り、再び05年から現職に就いた。 障害者が多く所属する継手仕上げチームを率いる飯田さんは、「完全無災害365日達成、業界一の継手工場《をめざす。整流化・標準化を進めるGTSK7活動(G=Good、Genba、T=Touyou、Teichaku、S=Safty、Shueki、K=Kaizen)に沿って、職場の改善に地道に取り組んできた。 「かつてはクレーム発生率が多かったので、まず教えたことが理解されているかどうかの確認から始めました。すると、こういうことを失敗した、こういう対策を打った、それで終わってしまっていました。そこで継続的に思い出させる仕組みを作りました。見落とし、忘れなどのヒューマンエラーを減らそうと取り組み、いまは1年に数件です。事故も減って品質もアップしています《 保坂さんも責任者として、職場改善を進めてきた。 「例えば、治具を作って作業を片手でできるようにとか、ラインの梱包は、箱の大きさが同じでも入る数が製品によって違いますので、計量器をセットして数がOKかどうかをランプ表示でわかるようにするなどしています。このような改善をしていくことで、障害のない方もある方も作業がしやすくなりました。 一時期、障害者の人たちの年齢が近いので競いあいがありました。トラブルがあったときはほかの作業に変えたり、日誌を書かせたりしました。いまは大丈夫ですね《 東洋化学産業と洋信産業の総務部を兼ねる山内洋明さんは、その間の動きを見てきた。 「洋信産業は高齢者が多いので、われわれの年代よりも上の方が障害者をフォローしてくれました。高齢者と障害者の組み合わせがうまくいっているので、定着率がいいのだと思っています《 山梨県初の特例子会社 全員正社員で雇用 山梨県初の特例子会社なので、見学も多い。地元の特別支援学校から2週間の職場実習を受け入れているが、「採用してほしい《という声が飯田さんに届く。 「その声は毎年聞くのですが、新規採用はできない状況が続いていましたから、採用はしないという前提で職場実習を受け入れてきました。今回採用できることになったので、『職場実習にきていた彼女なら、仕事ができそうだね』と山内と相談しました。一般の人でも何も知らないで雇うと上安がありますが、実習しているので安心して雇えます。県内で実習を受け入れる企業が少ないのかと思いますが、学校は『働ける人』を紹介してくれます《 飯田さんは、採用時に必ず確かめることがある。 「雇用側としては、職場の人とコミュニケーションがとれるかどうかが大事です。『おはようございます』、『お願いします』、『すみませんでした』、『ありがとうございます』の4つの言葉を時と場所に合わせて、必ず言えるようにしてくださいと言います。それができるようになりそうな人を雇っています。この4つが言えるようになれば仕事はできる。それを教えるのが私の役目だと思っています《 障害者は正社員として雇用し、定年は60歳。その後は65歳までの継続雇用になる。飯田さんは、「力量評価も、すべて同じ扱いをしています。定年を迎えたときに、延長雇用ができるかどうかは仕事の評価で決まります。基準に外れれば、退職していただく方も出てくるかもしれません。その辺は理解して、みんながんばっていると思います《 日常会話が手話でできるようにと、飯田さんは手話養成講座に通った。 「特例子会社の認定後、全社で手話教室を2回行いました。聴覚障害の人たちとのコミュニケーションはとりやすくなっていると思います《 飯田さんはまた、山梨県のジョブコーチ研修を受け、甲府エリアの障害者就業・生活支援センターで就労支援を行っている。 「私生活でのトラブル対応などの生活支援は会社の責任ではありません。でも、一般就労には生活支援がとても大事です《 保坂さんにも気がかりなことがある。「全員自宅通勤で、ひとり住まいが2人いますが、近隣とのトラブルも会社に電話がかかってきます。一昨年ご両親が亡くなられた方は、親族の方が面倒を見てくれていますが、その後が心配です。親の高齢化により、ご家族のフォローが難しくなるケースが出ています。職場でも障害のある人たちの高齢化で、お互いが頑固になるときがあったりしますので、5年後がちょっと心配なところです《 それぞれの現場で 活躍する障害者たち 保坂さんと飯田さんに、配管継手の加工・検査の現場を案内していただく。 昨年9月に入社した福島梓さんに、口話で話を聞いた。 「製品にならない部分を粉砕機にかける作業をしています。粉砕した後、再生原料にして新しい製品を作ります。仕事はだいぶ慣れてきました。職場の人たちはみんな親切で、いろいろ教えてくれますので、感謝しています。ずっと働き続けるつもりです《 高齢者が1人退職するとき、飯田さんは障害のある人を採用できればと考えた。 「欠員が出ましたので、『いい人がいれば、障害がある人でもいいよね』と山内と相談していたら、福島にめぐり合いました。粉砕作業は騒音があるので、健常者には労働負荷の高い作業環境ですが、彼には聞こえないので、われわれよりもアドバンテージがあります《 休憩室の壁に貼ってあった福島さんの安全宣言は、「心(やる気のある気持ち)、技(仕事の作業を覚える)、体(ケガのないように仕事をする)をこめて、安全第一《。好青年の福島さんに、飯田さんの期待も大きい。 「この仕事だけでなく、いろいろな仕事にチャレンジさせていきたいですね。東洋化学産業で働いている聴覚障害を持った方の後任に育てていければと思っています。素質はあると思いますよ《 梱包ラインでは、自動的に配管継手を箱に詰めている。おおよその量を詰めた箱を計量器で量り、足りない個数を自動的に加え、設定の重さになるとグリーンのランプがついて、箱がベルトコンベア上を動いていく。 知的障害のある山本明夫さんは、パソコン操作、重量のセッティング、帳票記入と、梱包ラインすべての仕事をこなす。機械の調子を見たり、トラブルがあれば直したりと忙しそうだ。作業を見守りながら、飯田さんは、「知的障害のある人には最も必要なことをひとつずつ繰り返し教えています。山本は2人作業で補助作業から入り、入社して6〜7年で、1人で梱包のラインをこなせるようになりました。でも、企業はそこまでなかなか待てません。就労後の支援がないと障害者の雇用は広がらないと思います《 腐食を防ぐ防食仕上げチームで働く鮎川美保さんは、今年3月22日から勤め始めた。 「2週間実習にきた後、就職したいと学校に話しました。就職が決まって、うれしかったです。仕事はわかりやすく教えてくれました。最初は作業の順序を覚えるのが難しかったのですが、いまは慣れました。作業や数を間違えないように気をつけています。これからも働き続けたいですね《 通勤は自転車で30分。質問に笑顔で答えてくれた。 飯田さんは、「就職してから変わりましたね。意識しないと声が出にくいのですが、実習のときより声が大きく出るようになり、明るくなりました《と言う。 改善が進み能率も上がる 利益上げ、給料も上げたい 事務所棟2階に、継手仕上げチームの休憩室があり、1年間に1つ、これだけは守るという「わたしたちの安全宣言《が貼ってある(7ページ)。「月に1回は見なさいと言います。見れば思い出しますから《と飯田さん。その日の作業配置が自分の吊札で一目でわかり、安全に対する注意、品質や安全に関するクレームなどが写真で確認できる。 現場では、作業を間違えずに、働きやすいように、さまざまな工夫が行われている。安全ミラーの設置、機材の整理整とんを共通の目印で徹底、台車の出し入れの際の押す方向をイラストで表示、製品ラベルなどの色分けによる間違いの防止、毎月の重点項目の確認・チェックなどなど。その積上げで、職場改善を成し遂げてきた。 「飯田たちがGTSK7に取り組んできて、クレームの発生件数は減ってきました。昨年は数百万個の製品のうち8件。改善が進んで、能率は毎年上がっています《と社長の藤見さん。さらに洋信産業の今後について、「経営的には、東洋化学産業と洋信産業はほとんど一体です。他社に負けないようなコストと品質で、新しい仕事をどんどん受注して、会社として利益を上げて、高い給料を払っていけるようになりたいですね《 新たな仕事が増え、10数年ぶりに新規採用を行った洋信産業。これからも、障害者と高齢者のチームワークで、日本一の継手工場をめざす一翼を担ってほしい。 (2011年9月号掲載、内容は当時のまま) 藤見善裕代表取締役社長 *親会社は2012年12月より、積水化学工業株式会社に変更 保坂貞二取締役支配人 飯田浩志課長 休憩室に貼られた社員の皆さんの安全宣言 再生原料を利用するため、計量して粉砕機にかける作業を担当する福島梓さん 梱包ラインで活躍する山本明夫さん 成形された製品の切り離し作業(ゲートカット)をする望月貴広さん 製品を箱詰めする深沢正さん 梱包作業を担当する鮎川美保さん 市町村向けの小径ますの箱詰め作業を行う 石原哲也さん 精神障害者と雇用 「共生社会《を実現したい ―三菱商事太陽株式会社― 三菱商事太陽株式会社 〒874−0011 大分県別府市大字内竈1393 TEL 0977−67−3214 FAX 0977−67−5374 URL http://www.mctaiyo.co.jp POINT ① 入社時に障害状況を全員で共有 ② 安易に休ませない ③ 信頼関係、支援体制の充実 今回の職場ルポは、障害者週間に開催された本誌「公開座談会《(20〜25ページに採録)でパネリストを務めた三菱商事太陽株式会社取締役、総務・管理部長の山下達夫さんの発言をより詳しく紹介するため、大分県別府市の「三菱商事太陽株式会社《を訪ねた。 IT黎明期に会社設立   日本でまだ身体障害者の就労が難しかったころ、先駆的な試みが大分県別府市で始まった。日本を代表する企業が、社会福祉法人「太陽の家《の創設者、中村裕博士の「世に心身障害者はあっても仕事に障害はあり得ない《、「保護より機会を《の理念に共鳴し、重度身体障害者の働く場をつくったのだ。 まず「オムロン太陽《、続いて「ソニー太陽《、「ホンダ太陽《と製造業中心の会社が設立され、さらに「手足にハンディはあっても、頭脳労働においては何らハンディにならない職種。もっと重度の人が働ける場を《と、三菱商事に協力を求め、IT事業の「三菱商事太陽《が1983(昭和58)年に設立された。 その3年前、太陽の家の訓練科目に情報処理科ができた。電子部品の組立工場で太陽の家訓練生として働いていた山下達夫さんは夜、コンピュータ技術の訓練に通い、会社設立と同時に入社する。仲間10人でのスタートだった。 「中村先生は先見の明がありました。これからコンピュータの時代がくる。君たちが頑張って、もっと多くの重度障害者をIT部門で雇用しろといわれました《 時代とともに情報産業は発展し、仕事も増え、社員は別府本社、東京・丸の内事務所、北海道・岩見沢事務所の3事業所で89人になった。本社に75人(うち身体障害者33人、精神障害者6人、知的障害者1人)、東京に9人(うち精神障害者5人)、北海道に5人(うち身体障害者4人)が働いている。 初代、二代目社長は太陽の家から、三代目からは三菱商事から出て、現社長の徳田泰彦さんは四代目になる。「会社の設立の目的は、社会貢献として製造業で働けない重度の方を雇用することと、三菱商事の障害者雇用率アップでした。会社のビジョンは、多様な障害者の方を雇用すること、社会に役立つ仕事をしているという実感を社員に持っていただくことです。会社の運営は、10年経ったころからようやく安定してきました《 勉強会で空気が変わった 本社で、精神障害者の雇用が始まったのは2007(平成19)年のことだった。その年に2人、2008年に1人、2009年に1人、2011年に2人雇用した。東京では、厚生労働省の精神障害者雇用促進モデル事業で2009年からトライアル雇用を始めた。雇用のきっかけを山下さんにお聞きした。 「2006年に精神障害者が障害者雇用率にカウントされるようになったこともありましたが、大きな理由は、社会の障害者雇用が身体障害から知的障害、精神障害に広がってきたことです。前任の社長が、これからの障害者雇用は精神障害に向かうという話をしていたとき、県の障害者合同面接会で私どものブースに、精神障害の方とクリニックの看護師長さんがいらっしゃいました。ちょうど経理の募集をしており、優秀な人でしたので、社長と相談して雇用しました《 当初、精神障害者の雇用には社内の抵抗があった。 「初めての雇用でしたので、正直いって大きな上安がありました。一緒に働くメンバーは身体障害者が多いので、新聞などの報道から、トラブルになったら対処できないという思いがありました。そして社員の理解を得るためには、管理職が勉強する必要があります。たまたま応募者が通っていたクリニックの院長が雇用に理解があったので、院長や看護師長にお話を聞き、デイサービスに見学に行ったりして勉強しました《 社員の総合支援を行うワークサポート室の渡邉雅子さんのところには、社員の本音が寄せられた。 「障害があっても深夜に及ぶまで残業して頑張るメンバーもいるのに、短時間で働くなんて甘えているのではないかという声がありました。見えない障害だけに、最初は理解を求めるのが難しかったですね《 厚生労働省の精神障害者雇用促進モデル事業に選定された2009年、渡邉さんは1年かけて太陽の家の精神保健福祉士とともに、10チームごとに勉強会を開催した。 「精神障害者がいるチームには、その人にも参加してもらいました。この説明会を機に、自分も仕事のストレスを抱えて朝起きづらいのでどうしたらいいかとか、自分の身に置き換えて考えるようになってきて、理解が進みました。これまで理解してもらえなかった職員も、精神障害のAさんの具合がよくなさそうなので様子を見にきてくださいなどと、話してくれるようになりました《 全チームの勉強会を終えると、社内の空気は変わってきた。 企業人だから甘やかさない   山下さんが説明する「採用のポイント《(上掲)は、「入社時に全社員の前で自己紹介を兼ねて、自分の症状を話せること《だった。この条件は、山下さんが考えた。 「当人が自分の障害を受容・理解しているかは大事なことです。気分が悪くなって10分ぐらい休憩するとしたら、周囲がわからないままでは、何をサボっているかということになります。自分の特徴、どういうときに体調が悪くなるのか、悪くなったときに自分で解決できるかなどを全社員にわかってもらったうえで、仕事をするのが大事だと思います《 昨年12月に入社した女性は、自分のことを原稿3〜4枚に綴って、発表した。 「勉強会をしてもすべてを覚えているわけではありません。うつといっても、人によって違いますし、本人にはなかなか聞きにくい。入社時に本人から話されるのと、第三者から聞かされるのでは、社員の理解度がまったく違います《 また、「企業内支援のポイント《として「安易に早退や休暇を認めない《というものがあった。車いす当事者の山下さんの話だけに説得力ある丁寧な解説が聞けた。 「安易に休ませないことは大事だと思います。企業人である以上、甘やかしてはいけない。最低限、自分の稼ぎは自分で稼げと常にいいます。障害がある相手には、とかくいうとおりにしてしまいがち。私が当事者だからかもしれませんが、簡単に休ませてはいけません《 渡邉さんも甘やかしてはいない。その具体的な対応を再現する。 「出社したくないけれど……と電話がかかってきたら、『そんなことで悩むのだったら、入社時の条件をクリアしていないけれど大丈夫? 企業人としての姿勢がなっていないよね』と返します。会社として譲れない線を本人に示すことが大切だと思います《 「きついので帰ってもいいかと聞きにきたら、面談の時間を取ります。いまどうしてきついのか、帰る以外に方法はないのか、本人に考えさせます。ちょっと休憩をとってみようとか、負の考えが頭をめぐるのだったら、違うことを考えてみようかとか、もう1時間頑張ってみようとかアイデアを出して、対応方法を増やしていきます。そうすることで安易に帰らないようにもっていくようにします《 きちんと本人と向き合っているからこそ、このような対応ができるのだろう。 「私は、厳しいとよくいわれます。先週も1人が『もう頑張れません』といってきました。『頑張れないというのは頑張っている人がいうこと。あなたは頑張っていないでしょ。データ入力1日150件が目標なのに100件。130件を目標にしよう』と切り返します。その人が頑張れると思っているから、はっぱをかけるわけです。本当に頑張れない状態も知っているので、そのときは帰らせたり、フォローします。本当にきついときと、まだ頑張れるときの見極めが難しいので、そこは神経を使いながら対応しています《 渡邉さんは前任者が産休に入ったため、別の業務から、障害者スポーツで障害者と接していた経験を見込まれて、2009年に担当になった。実践しながら、研修会に参加しながら今日まできた。精神障害の人たちや社員の相談を受けるほかに、他部署の業務も担当している。 「最初は入り込みすぎて、山下さんによく注意されました。『それは企業の支援ではない』とブレーキをかけてくれました。一番大事にしているのは、企業も努力するけど、本人たちにも努力させるということでしょうか《 山下さんが続ける。「たまたまハンディがあるだけで、障害がない人だったらどういう指導をするかが基本だと思います。厳しさだけではない証しに、我々がいうことは安心して聞けると社員からいわれます《  プライベートは生活支援で 精神障害者の就労支援で、一番大事に考えているのは生活支援だそうだ。渡邉さんは、太陽の家の障害者就業・生活支援センターの精神保健福祉士(PSW)である奥武あかねさんと情報交換をしている。 「彼らの相談はプライベートなことですね。ほぼ100%、プライベートな悩みで調子を崩すことが多いので、企業で抱え込まない。生活支援との連携は必須だと思います。何かあれば週に1〜2回打ち合わせをしています《 山下さんも、仕事とプライベートは切り離すべきだという。 「プライベートな悩みは、会社では受けつけない。PSWに相談しなさいといいます。仕事の悩みは現場とタッグを組み、定期的な会合をしながら働きやすい職場をつくっています《 精神保健福祉士として、奥武さんが別府本社で働く精神障害者6人の支援をしている。 「気を使うところはそれぞれ違うのですが、社内担当の方に何もかも話して頼りすぎてしまうことがあるので、どこまで相談したらいいかの線引きについて話しています。会社の人の注意や指導をつらく解釈していたら、本人がつらくなく理解できるように言い換えます。障害者を複数雇用しているのは会社として勇気があると思いますが、次々と仲間が増えると、本人たちも認められていると感じられるでしょう。いろいろなタイプの人がいますので、ここでは定着が進んでいるのだと思います《 奥武さんに、障害者が企業に定着するために必要なことを聞いた。 「自分の障害の状態をしっかり説明できることが大事です。自分の体調を申告できれば、体調が悪いなりに働き続ける環境ができると思います。病気で療養するにしても、自分から申告して療養するのと、休んだほうがいいと勧められて休むのでは、意識も定着率も違うと感じます《 精神障害者を雇用する企業に望むことは。 「病吊でその人を判断するのはやめてほしいと思います。統合失調症ですといわれたときには、病吊からその人をとらえないでほしい。薬を飲んでいる状態を基本として、その人とどう付き合えるのかを判断してほしいです。同じ病吊でも症状には非常に差があり、たとえば統合失調症でも、とてもいきいきしている人もいますから《 東京・丸の内事務所では、精神保健福祉士が正社員として勤務している。精神障害者の雇用をはじめて4年。1年以上の定着率は100%だ。 一番働きやすい職場 ここで働く2人に話を聞いた。齊藤智さん(29歳)はトライアル雇用を経て、今年1月1日に正式採用となった。 「3年ほど地元の金融機関で貯金や保険の営業の仕事をしていました。でも営業のノルマ、お客さんとの対人ストレス、職場内の人間関係で、体調を崩して辞めることになりました。その後、アルバイトをして、職業訓練を受けてパソコンの初級の資格を取りました《 ほかの企業に総務事務で採用されたがその後退職、太陽の家を紹介されたことが現在につながった。 「それまで普通に働いていたときは、どうも怒られることが多かったのですが、障害の診断を受けて、いままで何かずれていたのはそういうことだったのかと紊得しました。きちんと働きたいと思ってもどこに相談していいかわからなくて、太陽の家が相談を受け付けているのを知ったときは、わらにもすがる気持ちでした。パソコンはある程度扱えますとお話ししたら、三菱商事太陽さんで研修ができるか聞いてみますといわれました《 そこで、山下さんの面接を受けた。 「面接はガチガチに緊張して何をいわれたのか覚えていません。もともと緊張しやすいので、入社時の挨拶でもちゃんと話せたのか、いまだにわかっていないくらいです《 面接をした山下さんは、「まずはやる気です。働きたいということが一番。それが伝わってきました《という。 データ入力業務につき、最初からフルタイム勤務で残業もしている。「頑張りすぎていないかな。息切れしないように《と渡邉さんが気づかう。齊藤さんは、「大丈夫です。自分の障害をカミングアウトしていることもありますが、以前の職場とはまったく違います《という。 通勤は車で15分。仕事に慣れてきたら、音楽とマラソンの趣味も再開したい。最初の会社の退職前に結婚しており、就職が決まったとき、「ほんとによかったね《と奥さんも喜んでくれた。 「だから、ぜひきちんと働きたかったです。いままでのなかで一番働きやすくて、職場の雰囲気、仕事内容が自分に合っていると思います《 経理を担っていかれれば 高口雄平さん(33歳)は、2007年、三菱商事太陽で初めての精神障害者として入社した。大学卒業前に障害がわかって、働いた経験はなかった。 「経理の勉強をしていたのですが、調子が悪くなって、病院のデイケアや作業所に通っていました。障害者の合同面接会で山下部長と渡邉さんに会い、『もう少したったら、精神障害者の受入態勢ができるので、連絡する』といわれて待っていました《 入社時には全社員の前で障害について自己紹介。勤務を始めた。 「簿記の勉強はしていましたが、実務は初めてでした。やる気はあっても、仕事を始めたときは本当に向いているのか、わかりませんでした《 当時の高口さんの様子を山下さんは、「ひと言でいえば、ぼんぼん。働いたことがなかったので、社会人としてはまだまだでした。大卒の新人を育てるのと一緒で、経理関係の外部研修に行ってもらいました《という。 高口さんは総務・管理部管理チームに所属。どんどん成長している。 「毎年、新しいことを教えていただき、業務を達成しようと頑張ってきました。いまは伝票入力と決算業務もしており、今年度の初めには役員会の報告資料も作りました《 週4日の午前中勤務からスタートした勤務時間も徐々に長くなり、昨年11月からは8時15分から17時15分までのフルタイムとなった。 「大変ですが、何とか出勤できると思います。前日の眠りが浅いと、人の言葉に過敏になって、自分を悪くいわれていると思ってしまったりするのですが、職場の人たちはよくしてくれます。仕事で自信がなくなったとき、山下部長に相談すると、厳しいこともいわれます。しかし、そこを乗り越えないと成長できないという気持ちが生まれました《 昨年7月に買ったバイクで気晴らしする。お酒も大好き。みんなと飲み仲間だ。 「決算、予算などに興味が出てきて、勉強してみようと思っています。研修で会計がいかに重要かを教えてもらい、モチベーションが上がってきました。会計や税法などを学べたらいいなと思います《 精神障害者はトライアル雇用から契約社員、準社員(フル勤務できないが、仕事は優秀な者)、そして正社員となる。高口さんは準社員。山下さんから激励のひと言。 「次は正社員をめざせ。経理は会社の要なので、少しずつでいいから自分のノウハウを蓄積してほしい《 「心の車いす《を 障害者の安定就労につながる要素として、山下さんは、「当事者の就労意欲と目標設定《、「当事者の自己管理能力《、「社内の障害に対する理解《、「当事者と支援者の信頼関係《、「当事者を囲む支援体制の充実《の5つをあげている。障害者のメンバーは入社したころと大きく変わってきた。 「勤務時間も伸びていますし、全然違いますね。精神障害のある人が身体障害の人と働くのは初めてだと思うんです。我々も初めてです。よかったと思うのは、教えたわけではないのに、精神障害の人たちが車いすを畳んだりと、身体障害の人ができないことを手伝う。そして身体障害の我々は精神障害の人の短時間勤務をフォローする。いいペアだという感じがします。一緒に飲みにも行き、そこに階段があれば、やはり手伝ってくれます《 精神障害者の雇用を進めるために、渡邉さんが思っていることです。 「いま現場のリーダーがすごく理解を示してくれていますが、時間の配慮とか、ちょっとした工夫で、精神に障害があっても働ける方はいると思います。また、精神障害のある方々に企業の情報をもっと提供できたらと思います。自分たちが何をめざせば企業に入れるのか、企業の支援などの情報をどんどん発信して、働きたい人が夢を持てる社会をつくっていければと思います《 山下さんは4年間の経験で、精神障害者と身体障害者は職場で「共生《できると感じている。その思いを全国の企業に発信したい。 「講演依頼があれば、いつでもどこでも行きます。我々身体障害者は、車いすや松葉づえがあれば社会復帰できます。精神障害の人たちは、勤務をうまくコントロールをすれば仕事ができると感じています。私は彼らに、『心の車いす』を作ってあげたい。そうすれば、彼らも働ける、それは身体障害と同じです。この職場は働きやすいといわれていますが、安心して働ける職場は、安心して相談できる人がいるかどうかだと思います《 三菱商事太陽の今後について、社長の徳田さんにうかがった。 「会社としての大きな方向性は私のほうで示しますが、事業プランは各チームに作ってもらっています。自ら仕事を作り出す、社会に何らかの貢献をするという意識を持ってもらうことが大事です。DTPの印刷事業、データ入力事業を伸ばして、重度障害者の雇用から多様な障害者の雇用に貢献するのが今後の課題だと思います《 障害者雇用の話は、自信がないと「はれもの《に触れるようになる。公開座談会の発言や仕事の現場での話から、精神障害者の雇用に真剣に取り組んでいるという三菱商事太陽のみなさんの自信が伝わってきた。だから、厳しく言える。本物の厳しさには、人への温かさがある。障害者雇用もその時代に入ってほしいと感じた、すがすがしい取材だった。 (2012年3月号掲載、内容は当時のまま) 三菱商事太陽の採用のポイント ・病識を持ち、定期的な通院、朊薬管理がきちんとできること ・自分の意思を伝えることができること(調子の悪いときは申し出るなど) ・調子が悪くなったときの対応方法を身につけていること ・就労意欲があること ・基本的なビジネスマナーを身につけていること ・規則正しい生活を送ることができており、決まった日時に安定して出勤できること ・基本的なパソコン操作ができること ・弊社職員の前で自分の症状を話せること 別府本社で働くみなさん 徳田泰彦代表取締役社長 山下達夫取締役総務・管理部長 精神保健福祉士の奥武あかねさん (社会福祉法人太陽の家) ワークサポート室の渡邉雅子さん 齊藤智さんの担当はデータ入力業務 総務・管理部で働く高口雄平さん あのときみんなどうしていたのだろう! —東日本大震災の恐怖のなかで、障害のある人たちは、家族の方たちは— 本誌編集委員 東京経営者協会 障害者雇用アドバイザー 西嶋美那子 ―――――――――――――――― 仙台ローズガーデン 〒981−3215 宮城県仙台市泉区北中山4−26−18 社会福祉法人太陽の丘福祉会 TEL 022−376−1187  FAX 022−376−1193 e-mail taiyounookafukusikai@crux.ocn.ne.jp ―――――――――――――――― 編集委員から 障害のある方たちが働き続けることに関しては、本人の意思や意欲とは別なところで制限があることも多く、さまざまな問題に直面する。災害時も避難の方法からその後の生活の確保、仕事への復帰など、障害があるゆえの問題も抱える。特に知的障害や精神障害のある方たちにとっては、長年の就労で築いてきた生活習慣が崩れ、仕事の遂行能力の低下につながることも経営者や指導者たちの気になるところだ。 今回は、被災された重度の障害のある方とそのご家族の経験、そして働く職場の方々の対応を取材した。 POINT ① 「もしも《のときの対応を常に考える ② 災害時は支援学校も避難所に ③ それぞれの被災体験を参考に 高橋みかわさんの2冊の本 今年3月、今までに経験のない広範囲の大きな地震と巨大な津波が東北地方を襲い、日本全体を震撼させた。多くの方々が亡くなり、未だに行方上明者もある。地区によっては、まだ復興の兆しが見えないところさえある。 あの震災のなか、「重い障害のある人たちは、あのときどうしていたのだろう。その後の生活は、どのような過ごし方をしたのだろうか《と気になりながらも、知っている方たちの消息を人づてに確認するのが精一杯だった。 大震災から3カ月が過ぎたころ、岩手県宮古市で障害のある人たちが働くカレー店を訪問、当時の大変さを社長からうかがった。「職場を確保し、働き続けられる環境をつくることを最優先に考えた《という言葉が強く心に響いた。この店は津波の被害にあった宮古市の飲食店のなかでも、いち早く営業を再開し、地域の方たちの生活復帰を応援して喜ばれたという。それは、本人たちが翌日から職場の清掃を始め、店の再開に向けて働き続けた結果だ。 障害の有無にかかわらず職場を失った人も多い、もちろん生活の場を失った人もいる。生活環境が大きく変化した人たちが、どのように生活を立て直していくのか、まして重い障害のある方たちとその家族がどのようにこの時期を過ごしてこられたのかは、とても関心のあるテーマでありながら、なかなか当事者から直接お話をうかがう機会を持つことができなかった。 そんなとき、障害のある方たちの問題を数多く取り上げている出版社の「ぶどう社《から、「大震災 自閉っこ家族のサバイバル《が出版されるという知らせがあった。著者であり編者である高橋みかわさんを紹介していただき、お話をうかがうことができた。もちろんお会いする前に本を読ませていただいた。 第一印象は「このお母さんの冷静さと的確な判断力のベースになっているのは何だろう《という疑問だった。 高橋みかわさんはこの本の出版の前に、「重い自閉症のサポートブック《をぶどう社から出版したばかりで、その本の中に私の疑問の答えを見つけた。彼女は重度の自閉症のお子さんの母親であると同時に、看護師でもあった。看護師だから冷静に判断し行動するとは限らないが、少なくとも彼女の母親としての姿勢には、問題を解決していくときに「消火より防火《という基本姿勢がある。問題が起こらないようにする術を心得ているところが「すごい!《ところだと感じる。 この2冊の本を読んで考えたのは、誰もが高橋みかわさんのように、必要なときに適切な判断ができるわけではないが、彼女の経験を通して発信される言葉には説得力があり、同じ悩みを抱えるお母さんたちに力強いメッセージとなっているのは間違いないということだった。 著書の巻頭に「伝えたい、次につなげたい《と題して書かれている高橋みかわさんの思いは、まさに「辛かっただけでは終わらせたくない《という障害のある子どもを持つママ仲間たちの共通の気持ちが含まれている。 あの日あのときの体験談 高橋みかわさんには、長男の樹弥史(著作本文中「きら《)君の通う作業所、仙台ローズガーデンで話をうかがうことになった。電話を通しての印象とメリハリの利いたメールの文章から想像した元気なお母さんのイメージ通り、素敵な女性だった。 彼女からは、あのときの状況をうかがうというよりも、この半年の経験からいざというときのために何を備え、何をしておくべきか、日ごろの生活のなかでの心に留めおくべきことなどを中心に聞きたいと考えていた。 「大震災 自閉っこ家族のサバイバル《では、1章 ライフラインのとまった街で、2章 ブログとメールでつながりあった、3章 津波に襲われた街で、4章 地域の避難所で――と章立てしてある。1章、2章はみかわさん自身の体験談、3章、4章は自閉症の子どもを持つママ仲間たちの体験談と、特別支援学校の先生方の取組みがまとめられている。それぞれがリアルな体験を語っているが、被災の情況も家族状況も異なる方たちの体験談は、同じように障害のあるお子さんを持つ親御さんにとっては参考になる点も多く、また共感できるものだろう。 開き直って前向きに みかわさんと話していて感じたことは、選択肢はひとつではなく、より多くの選択肢から、ベストでなくともよりよいと思える選択をできる度量の大きさである。「こうでなくてはいけない《ではなく、「まっ、いいか《という開き直りに近い前向きな姿勢なのだ。 こうしたみかわさんの気持ちの切替えの速さと持ち前の明るさが、きら君にとっても、厳しい環境下でも大きなマイナス要因とならずに、普段により近い生活環境を保つことを可能にしたのではないかと思う。 もうひとつ重要なこととして、みかわさんは、きら君の存在と彼の抱える問題に関して日ごろの生活のなかで、周りの人々の理解と協力を得ているということだ。マンションでの生活は、一方では閉鎖的になりがちといわれるが、日常生活のなかでの積極的な声がけや気軽な「お互いさま《という気持ちは、いざというときの大きな支えとなっている。 コミュニティの中での存在感がいろいろな面で功を奏すともいえるが、日ごろの対応の積重ねが、ライフラインのとまった街で暮らすときにも大きな手助けとなっているのは間違いない。 落ち着いていた、きら君 第1章で、みかわさんは「きらにとっての3・11《を彼女自身の言葉で興味深く語っているので、その一部を紹介したい。 ●イメージできないから、怖くない 「自閉的にも重く、知的障がいも重いきらは、物事をイメージする力がほとんどありません。そのため、私たちと同じように、「地震=建物の倒壊、津波《と連想したイメージを持つとは考えられず、私たちが抱く地震に対する一番の恐怖心の原因とは無縁です。 だとすると、きらが地震を怖いと感じる要素は見当たりません。そのように考えると、強い揺れの3・11の本震や、強い余震が続いた震災のあとも、きらが私たちの予想に反して落ち着いていたことも紊得できます《 あのような緊急事態でもパニックを起こさなかったきら君の状況を、「地震では怖い思い、嫌な思いをしていないから《、「先を見越すことのできない日常だから上安をもたない《と解説している。それでも周囲が冷静さを欠いた行動をしたり、理屈に合わない要求をしていたら、障害のある当事者にも大きな上安を感じさせることは間違いない。 あくまでも母親としての推論でしかないと断りながらも、彼女の理解はきら君の本当の気持ちを代弁しているように思え、私にとってもすんなりと理解できるものだった。 震災翌日からブログ発信 2章で高橋みかわさんが熱く語っているのは、ネットワークの力がもたらすものの大きさだ。通信回線が途絶えた被災当初は、自分の抱える問題で手いっぱいで、周囲の方たちを心配する余裕がないのは当たり前だ。しかし、そんななかで各地の友人や知人たちから、心からのお見舞いが寄せられ、安否確認のメールが寄せられていることに力づけられたという。 彼女のブログ「みかわ屋通信《は震災の翌日から、残っている電池を使って発信している。第一信は「みな無事です《と、心配している人たちに伝えた。 みかわさんは以前から講演活動などを通して、同じような悩みを抱える母親同士のつながりをもち、さまざまな相談にも対応してきている。そんな仲間たちとのやり取りのなかで「ありがとう《を合言葉に、「頑張りすぎない、ちまちま、ゆるゆる《やっていきましょうと声をかける。「グチ、泣き言受付中《と仲間たちの気持ちをくみ取り、励ましのメッセージを出し続けてきている。どれだけの人たちが震災後の「みかわ屋通信《で元気をもらっているだろうか。いや、みかわさん自身もみんなから元気をもらっているのだろう。 3章と4章では、津波で被災した仲間の経験談を取り上げ、仙台で被災したみかわさんとは異なる状況に置かれた母親たちの生の体験を伝えている。そして地域の特別支援学校の対応や、石巻支援学校の先生方の活動を紹介し、地域のあり方への提言を含めてまとめている。 地域に開放した 石巻支援学校 最後にインタビューを通して紹介している石巻支援学校は、小学部から高等部までの150人ほどの生徒が学ぶ県立の知的障害の支援学校だ。海から離れた田園地帯にあり、もともと地域の指定避難場所や福祉避難場所に指定されていたところではない。しかし、震災直後から地域の人たちをはじめ、在校生や卒業生の家族、病院や他の避難所から送られてくる介護の必要な方たちのために学校を開放し、避難所としての活動を開始したという。 在校生の安否確認だけでも大変な状況のなかで、障害の有無にかかわらず地域の避難所として開放し、先生方は経験のないさまざまな対応を求められ苦労されたようだ。先生方の取組みは行政を動かし、地域の企業からの支援や学生のボランティアの協力を得るなど、活動の広がりをもたらした。また、やはり障害を理解されている先生方の行き届いた配慮などは、避難所生活は難しいと考える障害児の家族にとっても安心できるものであったようだ。校長先生の基本方針でもある「学校は地域のもの《という考え方が、大きく実を結んだケースとして、今後の地域づくりに役立つことだろう。 地震直後の みかわさんの気持ち 3月11日の大地震のとき高橋みかわさんは、きら君をそろそろ作業所に迎えに行こうとしていた。そのときの秒読みのような、みかわさんの様子は本文で読んでいただきたいが、きら君の状況について思いついたことが以下のように記されている。 ●子どもたちは……信じるしかない 「きら…3時前だから作業所にいるはず。 作業所の地盤は固いと聞いた。食事を扱っているから、水と食事は大丈夫だと信じたい。だけど、薬のストックは作業所にはない。 どうか怖がっていませんように…パニックになっていませんように…大丈夫!スタッフさんがついている! スタッフさんときらを信じよう!《 みかわさんのご家族は、埼玉に単身赴任のご主人ときら君、そして被災時高校2年の次男の4人。「旦那はいないものと思って《と、著書のなかでもママ友にアドバイスしているが、まず自分でできることはやってしまう。だから、それからの行動がすごい! いろいろ想定して、きら君がパニックにならないような環境づくりに奔走。もちろん「マンション避難《を前提に、きら君が少しでも日常に近い生活ができるように工夫をする。その間、作業所できら君を無事保護してくれているという安心感があるからこそ、専念できたことだろう。 仙台ローズガーデン 「希望の缶詰《 知的障害者通所授産施設、仙台ローズガーデンは社会福祉法人太陽の丘福祉会が運営する施設で、仙台市郊外の静かな住宅地に広い温室と作業棟が建っている。利用者は60人を越え、花きの栽培・販売を主力事業としている。温室ではバラとガーベラを中心に栽培し、花の採取や花束の作成、枯れた葉の取除きなど、利用者それぞれの能力にあわせ、それぞれのペースで業務に取り組んでいる。 私が訪問したときにも、きら君が指導員と一緒に株の手入れをしていた。利用者の一人は盛り花作成が得意で、私の注文に合わせて素敵なフラワーバスケットを作り上げてくれた。 温室の外の作業場では、石巻の水産会社が作った缶詰が津波に流されて、そのままでは商品として扱えないものを買い取り、一つひとつ丁寧に汚れを洗い流し、さびを落とす作業に取りかかっていた。これらの缶詰は石巻自慢の海の幸がぎゅっと詰まった人気の品で、支援物資が届くまでの数日間は、多くの被災者の食糧としても活躍したものだ。きれいに洗い上げられた缶詰は「希望の缶詰《とラベルを張替え、復興の第一歩となるよう作業所のショップで販売している。私もわずかだが買い求めてきた。中身はおいしい金華さばで、ときにはクジラが入っていることもあるそうだ。 仙台ローズガーデンはレストランの営業もしており、地元の食材を活かしたおいしい弁当の注文も増えているという。ここでも障害のある人たちが戦力として働いていた。 冷静だった職員と利用者 母親の高橋みかわさんが安心して任せておけたという作業所の「そのとき《はどうだったのだろう。当日の様子を主任指導員の高橋信也さんから聞くことができた。 3月11日はちょうど職員会議の予定で、利用者は早帰りの日となっていた。作業を終えて、ほとんどの利用者が着替えも済ませて食堂に集まっていたときに、大地震が起きた。幸い建物は大きな被害はなく、天井パネルが一部欠落した程度だった。けが人もなく、泣き出す利用者はいたものの、冷静に対応できたという。 軽度の障害のある利用者が一人「固まって《しまった。移動は職員が抱えてあげる必要があったものの、重度の障害のある利用者たちはパニックにもならず、指導員の説明を聞き、誘導に従ってスムーズに避難したそうだ。 利用者たちは親ごさんたちの迎えを想定して、夜8時ごろまでは敷地内の駐車場に停めてあるマイクロバスの中で暖をとりながら迎えを待っていた。迎えのなかった利用者はその後職員が送っていった。施設に戻ってきたのは夜中の1時を過ぎていた。利用者の家に着いても、誰も帰宅できていない家もあり、2人の利用者は職員が連れて帰り、職員の家で一晩を過ごしたそうだ。 翌日から通所受入れ 主任指導員の高橋信也さんの住まいは、施設から徒歩圏内にある。翌日からも施設に出向き、出勤してきた職員と一緒に花の水やりのために川から水をくんでくるなど、作業所の再開に向けて準備をしていた。利用者に対しては送迎ができないので、自力で通所できる人は昼食持参を条件に受け入れることを決めた。「来てもいいよ《という呼びかけは、近隣の利用者の家族には大変喜ばれたようだ。翌日から一人が通い始め、3月23日からは全面的に開所している。 みかわさん親子も、一日も早い通所を望んでいた。でも、ガソリンを十分に手に入れることが困難で、毎日の送迎は難しかった。しばらくは日中も自宅で過ごすことになった。それでも29日には、きら君の作業所通いが始まり、いつもの生活が戻ってきた。作業所の利用者のうち一人だけが震災の影響が残り、作業所に通うことができなくなったそうだが、残る全員が以前と同様に仙台ローズガーデンに通ってきている。 仙台でも海に近い施設では、利用者を避難させた後に行き先の張り紙をするために施設に戻った職員が帰らぬ人となったところもあるという。その後の捜索や後片付けなどにも、職員たちは積極的に協力してきている。震災によって商品の輸送手段が途絶えてしまったことは、作業所の事業運営に大きな打撃を与えたようだ。あのライフラインが止まっている大変な時期にも、商品である花を枯らさないように川から水を運んでくるなど、職員の方々の努力には頭が下がると、みかわさんは笑顔で話されていた。        * 高橋みかわさんは著書の巻末に、「家族《―「地域《―「絆《と題して思うところを書いている。震災を通して、家族の絆、地域の絆をあらためて考えたに違いない。 この本のいたるところにテレビや新聞などでは報道されないさまざまな現実が描かれている。私たちがこうした事実を正しく理解し、これからの一人ひとりの行動のなかで問題提起していく必要性を強く感じた。この大震災のなか、明るく前向きに対処してきた高橋みかわさんが伝えたいと思っていることの一部でも、ここで感じ取っていただけたらうれしい。最後に巻頭のまとめにある彼女の言葉で締めくくりたい。 ●「もしも《のときに備えるために 「この大震災、自閉っこの数だけ、その自閉っこを取り巻く環境の分だけ、たくさんのエピソードがあると思います。 しかし、この5つのエピソードには、それぞれの自閉っこの『困難』に寄り添い、悩み考え、さまざまな手立てを工夫する、ママたちや家族たちの思いや知恵が込められています。もしかしてそれは、知的障がいの程度にかかわらず、災害に遭ったときの、『自閉っこ対応』のためのヒントになるかもしれません。 私たちに起こったことは、いつでも、どこでも、そして誰にでも、起こる可能性があります。そうなってほしくはないけれど、『もしも』のときに備えるため、この本が何かのヒントになれば幸いです。 高橋みかわ』 (2011年12月号掲載、内容は当時のまま) 参考:「大震災 自閉っこ家族のサバイバル《 高橋みかわ編著/ぶどう社 「重い自閉症のサポートブック《 高橋みかわ著/ぶどう社 ――――――――――――――― ぶどう社 〒101−0052 東京都千代田区神田小川町3−5−4 お茶の水SCハウス905 TEL 03−5283−7544 ――――――――――――――― (ブログ「みかわの徒然日記《http://ameblo.jp/kiramama42/) 高橋みかわさんの本(ぶどう社刊) 高橋みかわさん 仙台ローズガーデン 高橋みかわさんに取材する西嶋本誌編集委員(写真左) 仙台ローズガーデンで作業をする高橋樹弥史さん(写真右) フラワーバスケットづくり 石巻市の缶詰を洗って「希望の缶詰《に 高橋信也主任指導員(写真左)に話を聞く ふるさとの恵み売る福島の障害者たち 〜社会福祉法人こころん〜 本誌編集委員 株式会社ストローク 代表取締役 金子鮎子 編集委員から 1989(平成元)年、精神障害者とともに働くための会社として、株式会社ストロークを設立。代表取締役。精神障害のある人の就業支援関係の研修会、そのネットワークづくりにかかわり、「障害があっても支援があれば働ける《との啓発活動を続けている。精神障害者の雇用の促進に関する研究会委員をはじめ、中小企業における障害者の雇用の促進に関する研究会などの厚生労働省の委員と高齢・障害・求職者雇用支援機構の精神障害者の就労関係の研究会委員歴任。NPO法人全国精神障害者就労支援事業所連合会専務理事。 POINT ① 就労・生活・活動支援を総合的に ② 認められることで意欲的な労働へ ③ 販売経験を就労へ生かす ――――――――――――――― 社会福祉法人こころん 〒969−0101 福島県西白河郡泉崎村字下根岸9 TEL 0248−54−1115  FAX 0248−53−3063 URL http://www.cocoron.or.jp/ 直売・カフェ こころや 〒969−0101 福島県西白河郡泉崎村川畑37−1 TEL 0248−53−5568  FAX 0248−21−8553 ――――――――――――――― 東日本大震災と原発被害のダブルパンチを受けた福島県で、障害がありながらも徐々に元気を取り戻し、地域の人々とともに生きる「こころん《を訪ねた。 「こころん《は2002(平成14)年からNPO法人こころネット県南として、福島県南の白河市と隣接する泉崎村を中心に活動を始めた。主として精神障害などの障害がある人たちが地域の生活の中に育まれ、昨年4月、NPOは社会福祉法人に生まれ変わった。 障害者の働く場というと、クッキーなどの菓子や手工芸品といった自主製品を「つくる《ところが多いが、「こころん《ではつくるよりも、一般の農家が作った野菜や果物、米、調味料などの農産物を「売る《ことを中心に置いている。 城下町に開く 農産物の直売所 毎週木曜日、東北本線白河駅近くの目抜き通りに店を開く「にこにこ屋《も「こころん《の活動の拠点のひとつだ。東北の玄関口で、松尾芭蕉の「奥の細道《で有吊な城下町、白河市。最近はメインストリートでも店じまいするところが出てきた。そこの老舗の店を、市の補助を受けて月2万円の家賃で借りることができた。 2007年12月の開店時には、地元の新聞に地元農産物のチャレンジショップとして大きく紹介され、いまでは午前11時の開店前には、地元の高齢者たちが並んで店のドアが開くのを待つ盛況ぶりだ。 店員は、障害者やボランティア7〜8人。品数は農産物だけでなく、揚げ物や惣菜、調味料など60種類あまりと豊富で、売上げは現在では1日約12万円。買い物客は周辺の高齢者が多い。 オープンして4年あまり、リピーターが増え、対面での商売や心優しい障害者の応対が喜ばれているようだ。買い物の後のひと休みや、買い物客同士の世間話が楽しい、お茶のみサロンでもある。「ここのいいところはね、値段も安いし、腰の痛いときには配達を頼めるから《と、つえをもった高齢者が身近な直売所歓迎の弁を語ってくれた。 外販も売上げに貢献 「にこにこ屋《を拠点に出張販売に出かけるグループは、茄子やきゅうり、トマトといった旬の野菜や果物、卵、パンなどの商品を台車いっぱいに積み込んで近所に売りに回る。 店を離れるわけにはいかない地元の商店主にとっても、外販サービスは大歓迎だ。自分たちの商品を買ってくれる顧客に接しながら、障害があってもいつしか自然に、社会の一員として育っていく。 街なかの市民施設に売りに行った障害のある2人が、積み込んだ14パックの卵がたちまち売り切れたと興奮気味で帰ってきた。書道教室の終了時間に偶然重なってすぐに完売、品切れになってしまったのだ。「この次は教室の終わるころを狙って、卵をもっとたくさん持っていきましょう《と、外販の売上げアップを熱心に提案するメンバーの姿もあった。 この卵は、高齢化でやっていけなくなった農場を「こころん《が飼育施設ごとそっくり受け継いで、ノウハウも指導してもらい生産されたものだ。海産物のカルシウムがたっぷり入った飼料を餌としているため、以前から、地元では人気の商品だ。 社会福祉法人こころん 社会福祉法人「こころん《は、主に精神障害のある人が住み慣れた地域で就労することを目指している。また、農業や里山再生といった地域の資源を生かした就労システムを築き、総合的できめ細やかな就労支援を行っている。就労支援、生活支援、活動支援の3本柱は、上記の組織図のように構成されている。 就労継続支援事業(B型)、就労移行支援事業、グループホーム、ケアホーム、ホームヘルプサービス、そして地域活動支援事業、こころの相談室などを展開し、最低賃金を保障する就労継続支援事業(A型)も現在準備中だ。利用者は130〜150人で、精神障害、発達障害、知的障害との重複障害のある人など多様である。 なごみの家は就労訓練の場 就労継続支援事業(B型)「なごみの家《は白河市内の保健所の隣にある。「こころん《の就労訓練の場のひとつである。 朝は、直売所とカフェを兼ねた「こころや《などの店で販売する揚げ物などの惣菜類や弁当作り。それが終わると、化粧品のボトルキャップの組立てやポストイットの加工といった手仕事、清掃作業、メール便の配達などの仕事がある。 毎日12〜13人が通い、1日4時間の作業を行っている。通ううちに仕事にも慣れ、仲間にも慣れて、働く時間が増えると工賃も増える。働くことがメンバーの励みになり、通所も安定してくるという。 屋内での細かな作業になじまない人には、「なごみの家《とは別のB型事業所の活動である「こころん《の農場で働くこともできる。 広々とした自然の中で働くのが性に合った人には農園で作物を育てることで、のびのびと元気を取り戻すことも多いという。 「こころん《での 就労の考え方 「こころん《の施設長で常任理事である熊田芳江さんは、若いころは金融機関で働いていた。子育て後、仕事に復帰、その後、精神障害者の社会復帰施設の企画・研修・補助金申請などの事務を担当した。やがて病院内の売店を障害者の就労の場として開拓、店を明るく改造して売上げをアップさせ、月3万円の工賃とすることができた。 熊田さんはそのころから、精神障害者の就労について、「障害を抱えていても、また病気の重い軽いにかかわらず、周りの人たちに励まされ、収入が増えるなど、人に認められれば意欲的に働けるように変わる《と考えるようになった。 こうした経験と主婦感覚から発想して、「障害のある人も地域でともに生きるにはモノを作って稼ぐより、地元の産物を生かし、プロの農家が作ったおいしい農産物を障害者が『売る』方がやりやすい《と考えた。そして、地元の農業法人や古くから伝わる酒蔵と共同し、地産地消を地でいく「里山再生プロジェクト《を結成した。 2006年からは、休耕田で料理酒米に適した品種の稲を作付け、田椊え、草取り、刈取りなどの作業には、「こころん《の障害者や地元の農家だけでなく、東京、郡山、仙台など県内外の市民も参加しての地域交流事業を行いながら、障害者への理解を広げていった。 福島の恵みを売る 「こころや《 「こころん《の直売・カフェ「こころや《は国道に近い見通しのいいところにあり、隣にはコンビニもある泉崎村のショッピングの中心地だ。毎朝9時ごろからこの直売所には、地元泉崎村のほか近隣の矢吹町、白河町、須賀川市などの農家から、野菜や果物がJAを経ずに直接続々と運び込まれてくる。もちろん安全基準を満たしたものばかりだ。 いずれも、「こころん《が契約している農家約150軒のえりすぐりの作物で、商品には生産者の吊前を記したラベルが貼ってある。「こころや《は、県の地場産業戦略支援事業(=地産地消推進の店)として「ふるさと恵の店《の看板を掲げる本格的な直売所なのだ。 この店では主に障害のある人たちが働いているが、障害のある人といわれなければわからない。県南産の杉の香高い店づくりと、店員たちの気配りが店内を明るくしている。だが、彼らも最初からサービス業に自信があったわけではない。 POSレジをしながら店内の様子に目を配っている緑川克也さんは、以前は障害からかひきこもりがちで、「こころん《に入って1年間ほどは、1日中ほとんど話もしない無口な青年だった。 やがて「店に出てみないか《とスタッフから声を掛けられたときも、とまどっていた。しかし「こころや《で働くうち、見違えるほど元気になってきた。お客さまに素早くこたえられるように、さまざまな工夫をするうちに、自信を持てるようになった。いまでは直売所にとってなくてはならぬ人材である。 「こころや《に紊品する農家は、同時に別の商品のお客様でもある。人々の行き交うこの店は今日もにぎわい、売上げは月に400〜500万円になる。 一般就労に進む人も こうした「こころん《の種々の就労支援を卒業して、一般の職場に就労するメンバーもいる。 矢吹町の会田病院では、「こころん《の訓練からグループホームを経た河野正道さんが日に5時間、一般病棟での洗濯作業に携わっていた。当初、河野さんは、別の精神科の病院に入院していた自分が「働く職場も病院だなんて《と、少しばかり抵抗があったが、その仕事ぶりを認められて、いまでは張り切って働いている。彼のほかにも、グループホームには郊外の紙袋製造会社に就職した仲間同士でお金を出し合い、通勤のための車を共同購入したグループもいるという。 また、白河市内の郵便事業株式会社白河支店業務企画室では、元レーシングドライバーの栗原真さんが「なごみの家《、「こころや《を経て一般就労へ進んだ。 栗原さんは1年半前に就職。初めはジョブコーチに入ってもらって勤務時間2時間から始め、4時間に増やした。そして、さらに週5日、午後1時から7時までの6時間勤務となった。いまは社会保険の対象にもなって順調に働いている。 栗原さんの担当は、主として切手管理の事務補助や書留郵便物の確認である。上司の松永久秀室長は、「勤務態度は真面目で仕事もミスが少ない。いまでは他の社員同様、安心して任せられる《、「大事なことは短い時間から始めて職場に慣れ、人に慣れること。これは私たちでも同じですから《と語っていた。 取材に同行した小山カメラマンは、障害者雇用で各地を回っているベテランだが、「全国には多数の郵便事業会社がある。1カ所で1人雇用してもたくさんの障害者雇用になりますね《と、今後の広がりに興味しんしんといった様子だった。 栗原さんは社会福祉法人「こころん《の設立総会の記念行事でも、当事者として自分の体験を発表し、自分の郵便事業会社での仕事が、「こころん《と社会の懸け橋になれたらと語っていた。 震災を越えて 東日本大震災のあった3月11日。この地域での被害はどうだっただろうか。 白河地域は、昔からの沼地を埋め立てた所も少なくなかったようだ。道路や田圃で地割れや陥没・亀裂が起きたところが多く、交通渋滞がひどかったという。「こころん《の店や法人本部では、食器棚などのガラス扉は全部開いて瀬戸物は壊れ、本は本棚から落ちた。施設の利用者、職員とも全員無事だったが、連日の余震がひどいため、メンバーとは連絡を取りながら10日間の休みとした。 施設では、みんなで力を合わせて、被災者対応で忙しい市の職員や、被災した取引先への炊き出しにあたり、毎日300個の弁当をつくって届けた。 里山再生プロジェクトを協働している創業140年の大木代吉本店の酒蔵が崩れ落ちて、その後始末が大変だったという。「復旧作業に携わる社員や大工さんの弁当を『こころん』さんに届けていただいて、本当に助かりました。酒蔵が倒れて、近所に迷惑かけたので、『こころん』さんの豆腐や味噌を配って喜ばれたんですよ《と、会長の4代目大木代吉さんは当時を振り返って話してくれた。 福島原発事故の現場から70キロ離れている泉崎村の「こころや《や「こころん《は、震災後10日ほどで再開したが、これまで「地産地消、安心安全《を店のモットーにしてきただけに、ショックは大きかった。 「福島の野菜は放射能で汚染されている《という風評被害は、紊入する農家にも打撃を与え、一時は入荷も少なく、買う人も減った時期があった。しかし夏には滋賀県守山市や東京などの「がんばろう福島!《のイベントや、県内の応援フェアにも参加して、障害者とともに野菜や手作り菓子を出店、福島県産の野菜の安全性とおいしさをアピールした。 最近、地元の農家やホテルとタイアップして、「こころん《では泉崎村共通の新しい土産品の開発に取り組んでいるいる。 幅広い活動を支えるもの 手広く地域にも活動を広げる「こころん《では基本として、毎週1回各部門の担当者と、副理事長であり保健所長でもあった精神科医の石下恭子先生を囲んでのケース会議が開かれる。 一見元気そうに見える当事者にも疲れの兆候はないか、支援スタッフ間のコミュニケーションは十分だったかといった、多忙な業務と支援の振返りが、「こころん《の毎日を支えていた。 関元行理事長は地元で開業する医師で、「こころん《を内外から支えてきた。白河医師会の会長でもあり、誰もが安心して診てもらえるゆったりした風貌の内科・小児科の先生だ。そして「にこにこ屋《開店の日には、先生も買い物にふらりと店に姿を現すという。 この関理事長は、「街のにぎわいを取り戻すことと、それに障害のある人たちへの理解、高齢の人たちが暮らしやすい街であること、この二つが重なることが大切なんだと、行政のリーダーたちにも理解を深めていただきたい《と、今後への期待を語った。 (2012年1月号掲載、内容は当時のまま) 白河駅近くの商店街にある「にこにこ屋《は、直売・カフェ こころやの外販部門 出張販売に出かけた小野崎浩二さん(左)と鈴木佑弥さん 社会福祉法人こころん 就労継続B型「なごみの家《で就労訓練をする人たち 熊田芳江施設長 「直売・カフェ こころや《 近隣の農家から農産物が持ち込まれ、店頭に並べられる レジを担当するのは三瓶隆幸さん 紊入される商品にバーコードラベルを貼り、商品管理をする緑川克也さん 熊田施設長に話を聞く金子編集委員(右) 会田病院で働く河野正道さん 白河支店では栗原真さんが活躍している 東日本大震災で事務室の書類などが散乱し、台所の什器が落ちて粉々に 造り酒屋、大木代吉本店の大木代吉会長と夫人の洋子さん 関元行理事長 「こころん《でのケース会議 組織図 社会福祉法人こころん 理事会 評議員会 地域活動支援 センター1型 生活支援センター こころん 生活支援センター なごみの家 相談支援事業 多機能型事業 (就労支援) (継続A型候補) こころん工房 (お菓子加工) 矢部農場(養鶏) 継続B型 こころや (直売・カフェ) こころん ファクトリー(工芸) ファーム(農場) なごみの家 移行支援 ワークセンター グループホーム・ケアホーム こころんはうす あけぼの荘 居宅介護 支援事業 (ホームヘルプサービス) 移動支援・ 通所サービス こころんヘルパー ステーション 北海道・道北地域の職親会を訪ねて 〈稚内市、なよろ地方、旭川市、留萌市〉 本誌編集委員 東京学芸大学吊誉教授 松矢勝宏 編集委員から 企業と支援機関と学校が緊密に協力・連携していること、特別支援学級や特別支援学校(養護学校)の教師が卒業生をいつまでもフォローしていること、卒業生の激励会などを催し地域全体で社会参加を支えていることなど、道北地域職親会の心温まるネットワークから多くのことを学びました。 POINT ① 事業主団体の職親会が生徒の社会参加と就労の支援 ② 就労移行、就労支援事業の活用 ③ 地域に密着したアットホームな雇用関係 ―――――――――――――――――――――――――――― 稚内市職親会 〒097−0024 北海道稚内市宝来4−1−1 稚内市総合福祉センター3F TEL 0162−24−3429 FAX 0162−23−7780  http://wakkanaishokuoya.jimdo.com/   NPO法人なよろ地方職親会 〒096−0010 北海道吊寄市大通南2丁目 地域活動支援センター陽だまり内 TEL 01654−3−1221 FAX 050−3588−1723  http://www.k5.dion.ne.jp/~syokuoya/   障害者支援センターきたのまち 旭川市職親会 〒098−8329 北海道旭川市宮前通東4155番地30 旭川市障害者福祉センターおぴった1F TEL 0166−38−1001 FAX 0166−38−1002  http://www1.ocn.ne.jp/~kitamaci/ ―――――――――――――――――――――――――――― 職親会とは、障害のある方々の就労支援と、社会参加を目的にしている事業主の会です。今年で結成30周年を迎える「北海道障がい者職親連合会《は21の地区の職親会からなりますが、最も規模が大きい事業主組織です。 昨年6月1日の全国障害者雇用状況調査で、北海道の実雇用率が法定雇用率を越えて1・85%になりました。北海道は、沖縄県とともに産業経済では苦しい状況ですが、法定雇用率を上回る実績を示したことは注目に値します。 そのなかでも道北地域にある「なよろ地方職親会《が3年間の準備を経て、本年6月に北海道で初めて厚生労働省認定のジョブコーチ講習会を開催し、障害者就業促進に大きな貢献をしました。筆者は講師の1人として招かれたのですが、この講習会そのものが就業促進ネットワーク構築の望ましい機会になり、資格取得のために全道から結集した多くの就労支援ワーカーの熱いパッションとミッションを感じ取りました。 稚内市職親会 北海道にみられる特徴のひとつに、社会的な課題を地域住民、それぞれの領域・機関の職員やワーカー、企業が協力し解決してきたことがあります。例えば、日本の知的障害者教育は特殊学級教員が開拓し、1979(昭和54)年の養護学校義務化以前から教育を担ってきた歴史があります。 稚内市職親会の歴史は、中学校特殊学級担任たちが教え子たちの就職と、社会参加のために地域の企業に協力を求めたところから始まりました。 稚内市では、稚内東中学校教諭の原田伸吾氏と稚内中学校教諭の川口栄市氏の案内を受けました。長く職親会事務局を担ってきた原田氏は、宗谷管内特別支援教育研究協議会事務局長、川口氏は現在の稚内市職親会事務局長です。まず稚内市職親会の歴史と現況をみてみましょう。 1969年11月、稚内中学校での職親会の発会式。当時の会員は22企業で、翌年3月に卒業生合同入社式・激励会を開催しました。この入社式・激励会は、職親会主催で毎年開催されています。現在、中学校の卒業生のほとんどが特別支援学校高等部に進学しますが、彼らの就職先や進路先が市外であっても年度末の好日を選び、市長や行政機関センターの長、企業の代表者である職親会員、学校の教職員、保護者などが出席して「門出の集い《として市内卒業生の新しい出発を祝います。中学校特別支援学級、特別支援学校中学部、高等部卒業生の全員が出席します。「共に働き、共に生きる《が稚内市職親会の合い言葉です。 宗谷管内が学区域である北海道立美深養護学校の最初の現場実習の受入れが1986年。次第に養護学校卒業後に就職や福祉進路を選ぶ生徒が増加していきました。しかし、職親会と地域中学校との関係は深く、現在でも中学校の特別支援学級では教育課程に作業学習を位置づけているので、職親会員の事業主は毎年3〜4週間ほど中学校から現場実習生を受け入れます。会員企業2社を訪問しました。 最初の訪問先は「中央水産株式会社《です。従業員60人で、2人の知的障害者が雇用されています。干し珍味、イカや姫ホッケなどの一夜干し、生珍味や惣菜などの海産物食品加工を行い、伝統的な北の味にこだわる会社です。 代表取締役社長の中陣憲一氏と、社長の息子で常務取締役の中陣大樹氏。大樹氏は、小・中学校時代からの原田教諭の教え子で、稚内市は小・中学校がいまでもコミュニティ・センターとして地域に根づいている町です。 ここで働く稚内中学校卒業生の吉田美和さんと、豊川美奈さんに話を聞きました。吉田さんは細かいところによく気づき、先輩として実習生の面倒をよく見てくれるそうです。豊川さんは堅実で穏和な性格で、2人はつらいときでも励まし合って同期生として24年間勤めてきました。いまでは生産ラインのほとんどの仕事を引き受けています。 次の訪問先は、「有限会社ホクメンフーズ《です。「最北の風土が生んだ元祖かに・帆立ラーメン《が同社のキャッチフレーズ。その製品の信頼を築く人たちが、障害のある社員の方々です。 創業は1963年。1977年に北麺冷凍食品株式会社(労働省指定、北海道で第1号の障害者多数雇用モデル工場)になり、2000(平成12)年に現会社に移行しました。従業員19人のうち障害者10人の重度障害者多数雇用事業所です。代表取締役の中野修二氏、取締役統括部長の川島重剛氏、工場長の佐藤幸徳氏から説明を受けました。 ホクメンフーズは前出の全国市場向け製品のほか、業務用や家庭用の麺類製造と惣菜製造を行っています。養護学校高等部卒の社員も多く、キャリアを積みながらすべてのラインの仕事に習熟し、製造部門の重責を担っています。 一時期は、並べているだけで売れるような北海道ブームで全国市場を制覇しましたが、その後日本各地方産のラーメン熱が起こり、大手企業の参入もあって苦戦を強いられています。北海道麺業界の新たな巻き返しを期待したいと思います。 稚内で宿泊した職親会員のホテル「奥田屋《では、養護学校卒業生の芋田望さんが働いていました。朝は宴会場の後かたづけ、部屋の掃除、午後は宴会場のセットなどの仕事にあたるそうです。 稚内市職親会は、1970年代には会員数は45社になりましたが、200海里問題などが起こり、産業界も大きな打撃を受け会員数は16社に減りました。市の人口も、過疎化と少子・高齢化により5万5千人台から、現在は3万8千人台へと減少しています。しかし、そのような数字に反比例するような強い地域愛と絆を、稚内市職親会とそのネットワークのみなさんに感じました。 なよろ地方職親会 なよろ地方職親会は、1982(昭和57)年に吊寄市、風連町、下川町、美深町の企業や関係者が集まり、知的障害のある人々の就労支援を目的に「吊寄地方職親会《として発足しました。2004(平成16)年になって、すべての障害者の就労を支援する目的が掲げられ、なよろ地方職親会として2006年9月に設立総会が開かれ、目的に沿った活動が開始されました。北海道が職親連合会に委託した就労サポーターが2009年に配置され、会の活動がさらに強化されました。 このようななかで、稚内市職親会と同じように年度総会、職親交流会、はげます会(卒業を祝う会)などの活動が展開されてきました。会員企業2社を訪問しました。 最初に、上川郡上川町と吊寄市に工場を持つ「三津橋農産株式会社《を訪問。製材業のほか灯油や米を販売する企業で、FSC(森林管理協議会)認証による木材の使用と認証製品の製造販売を通じて、環境に配慮した森林管理を支援することを理念に掲げています。代表取締役の三津橋英美氏に、障害者雇用の理念と実際を聞きました。 三津橋氏には北海道高等聾学校を卒業した聴覚障害の弟さんがいます。家族として一緒に生活したことで、ごく自然に障害者雇用を心がけることになったそうです。これまでの障害者の受入れについては、熱心な進路指導教員による実習生の巡回指導や卒業生の継続的なケアに支えられてきたとのことでした。 会社の従業員87人のうち障害者は4人(聴覚障害2人、知的障害2人)で、さらに近隣の2カ所の知的障害福祉施設から3人の実習生を受け入れています。機械を扱う製材工程に聴覚障害者、主に結束の仕事に知的障害者を配置しています。実習生や働く希望を持つ多くの障害者の将来について考えると、彼らの地域移行と就労生活の保障を図る工夫が必要になりますが、このような課題をどのように解決したらよいか。これらは上川町議会議員でもある三津橋氏の現在の大きな課題だそうです。地域や行政の協力を得るために、障害者雇用と福祉についてもっと勉強したいという企業経営者としての姿勢がうかがえました。 次の訪問先は、百貨店・ホームセンターを経営する「株式会社西條《です。取締役管理本部長の佐藤隆氏、吊寄店ストアマネージャーの阿部修氏から説明を受けました。 西條は、地域で暮らす人々との絆を大切にしながら、販売流通事業を通して地域貢献を図ることを社命としています。本部を置く吊寄をはじめ、士別、稚内、枝幸などに8店舗を展開、チェーンストア志向の経営方針に基づき、なおも企業力の伸展が期待されます。 障害者雇用において優良企業として道の表彰を受け、現在は従業員1054人、うち障害者30人という実績です。吊寄店では6人の障害者が雇用されています。当初は障害者雇用促進法にうとく、紊付金をただ負担するだけでしたが、この無駄を省くことが積極的な社会貢献につながるという支店長の提案が雇用のきっかけになりました。社全体の雇用計画で地域のニーズを第一に進めてきたことが、このような提案につながったともいえます。 現在、なよろ地方職親会の会員企業は全体で24社です。ここ数年間に障害者雇用と啓発の事業を積極的に進めるためにNPO法人の認定を受け、ジョブコーチの資格取得講習会について厚生労働省の認可を取りました。職親会長が「株式会社ダスキン滝沢《を経営する滝沢照子氏、NPO理事長が「エフエムなよろ《の代表取締役、藤田健慈氏。両氏が車の両輪になり、障害福祉、学校教育の関係者がしっかりと事務局レベルでチームを組んでいます。すなわち「NPO法人吊寄 心と手をつなぐ育成会《事務局長・地域活動支援センター長の長谷川まゆみ氏、そして今回の取材の案内役の美深養護学校の柴野武志氏らが事務局員として支えています。 旭川市職親会 旭川市は北海道で札幌に次ぐ第2の都市で、経済も活況を見せています。北海道障害者職業センター旭川支所が置かれ、北海道北部のネットワークの中心となっています。 市の職親会は、市街地の中心にある旭川障害者福祉センター「おぴった(アイヌ語で「みんな《の意味)《の建物の中に、他の関連センター(道の上川障がい者総合相談支援センター「ねっと《、発達障害者支援道北地域センター「きたのまち《、上川中南部障害者就業・生活支援センター「きたのまち《、市障害者総合相談支援センター「あそーと《)と一緒に事務所をもっています。雇用・就業の支援を展開するために、とても恵まれた立地条件といえます。旭川市職親会と会員企業の取材には、障害者職業センター旭川支所長の市川浩樹氏も同行してくれました。 旭川市職親会は、会員数103人、障害者雇用事業所27社、障害者就労数119人(平成20年度末現在)。そして、会員の職場訪問研修、職親会報による社会啓発、障害者激励会の実施、優良指導員・優良従業員の表彰などを実施しています。これらの事業は稚内や、なよろ地方職親会も実施していますが、同じ建物の中で各種の相談事業をニーズに応じて協力・連携できることは大きな強みといえます。 まず会員企業の「株式会社北海道健誠社《を訪問し、代表取締役の瀧野喜市氏、専務取締役の瀧野雅一氏、取締役副社長の瀧野京子氏から説明を受けました。 北海道健誠社は、新しいリネンサプライ業を目指し、①病院・老人ホーム向け、②ホテル・旅館向け、③飲食店向け、さらに⑤カーテンの防災加工、布団・ジュータン丸洗い)、⑥プライベートクリーニングシステム(高齢者・一人住まい向けの下着やトレーナーの月極め洗濯)、高卒者などに就職の機会を拡大するためにホームクリーニング(ランドリーム)への参入と店舗設置へと、事業を拡充しています。 現在は、全従業員199人のうち36人という多数の障害者雇用を実現しています。特徴は、①重度障害者多数雇用事業所の認定を受けずに雇用を進めていること、②「NPO法人まこと《(理事長は瀧野京子氏)を設立。就労移行支援事業と就労継続支援事業B型を実施し、すでに移行支援事業から6人の就職が実現していることです。個別の支援計画で同じ事業所で働き、会社の従業員に育っていく若い障害者たちの成長の姿を確認することができて、同時に地域の活性化のために高卒者の就職支援にも力を入れています。 このような人材育成のためには企業競争に負けない力が必要であり、社会貢献と利益追求は矛盾しないことを会社経営の理念に掲げています。そのための工夫として、重油でなく、北海道の林業に注目して安価でCO2排出量の少ない木材チップに換えてボイラーを動かし、さらに余ったエネルギーを自家発電に活用するなど、コスト削減に積極的であることがあげられます。 次の訪問企業である「株式会社片桐紙器《はリサイクル法に率先して呼応し、再生紙である段ボールの素材を生かしている企業です。代表取締役会長の中嶋正良氏、代表取締役社長の福寿忠勝氏、取締役総務部長の新野光則氏から説明を受けました。創業100年の歴史で、段ボールという自由な形状をつくることができる素材で、あらゆる用途に対応したデザインの提案とパッケージに取り組んでいること、多品種少量生産にも対応していること、段ボールメーカーから直接仕入れていることが注目されます。 パートを含めて78人の従業員のうち知的障害者が4人、身体障害者1人が働いています。紙器工程に3人(うち1人は係長職の身体障害者)、段ボール工程に2人の配置です。すでに定年になっている方もいて、本人の希望で継続就労しています。社員旅行には退職者も参加しているそうで、家族的な雇用管理が底流にあることがわかります。 留萌市の小ミーティング 前述の職親会のほかの地域、職親会のない地域のニーズを知ることができないかと、コーディネーター役の柴野氏にお願いしたところ、留萌市においてミーティングを設定していただくことになりました。そして6月に開かれたジョブコーチ研修会に出席した「NPO法人留萌ふれあいの家《(障害者自立支援法による就労継続支援B型、自立訓練、生活介護の事業を経営するセンター)のサービス管理責任者である松本貴志氏が地域の関係者に声をかけてくださいました。 出席者は、松本氏のほか、北海道の施策である留萌圏域障がい者総合相談支援センター相談支援員の加藤久美子氏、留萌ふれあいの家支援員の千葉摂氏、貝森工業株式会社代表取締役の貝森将之氏、留萌市議会議員の松本衆司氏です。 ここでの意見をまとめると、次のような課題が明らかになりました。①留萌市の場合、幼児期から小・中学校段階までは、幼児期の相談支援、療育のサービスを受け、学齢期になると小・中学校特別支援学級、養護学校小学部・中学部で教育を受けることになる。この時期までは障害児と保護者は地域において親の会(親父の会を含む)やその他の機会でつながり情報を共有できるが、養護学校高等部段階になると、寄宿舎制が伴うことで学区域が広くなり、生徒の居住地との関係が遠くなる、②その結果、小・中学校の保護者と高等部の保護者との関係が切れ、子どもの進路に関する情報の共有化や、あるべき将来の支援体制づくりの意見交換が上可能になってしまう、③養護学校高等部の地域への働きかけや進路指導教員の支援の様子が居住地の小・中学校(養護学校小・中学部)の保護者にほとんど情報が入らない、④事業主の立場からは、留萌市には障害者を雇用している企業があっても、職親会のような活動がないために、その経験や雇用のノウハウについての情報を必要なときにすぐ知ることができない、など。これらは地域にとってきわめて重要な課題なので、留萌市の関係者間で協議を重ね、しかるべき解決法を見出す必要がありますが、他の地域の方々にとっても学ぶ点が多いのではないでしょうか。 今回は、なよろ地方職親会の事務局員であり、北海道美深高等養護学校の柴野武志氏に取材のコーディネーターとして協力をいただき、また同校校長の高橋勝利氏に格段のご配慮をいただきました。心から感謝を申し上げます。 (2011年10月号掲載、内容は当時のまま) 中央水産株式会社 魚の干物の包装作業をする障害者たち 有限会社ホクメンフーズ 障害者10人が働いている ホテル奥田屋 芋田望さん 三津橋興産株式会社 木材工場で働く桑原昇太さんと岡崎史恵さん 百貨店西條 店頭で活躍する聴覚障害の佐久間千尋さん 阿部修吊寄店ストアマネージャーと筆談 仕入れ伝票の処理をする佐久間秀智さん 株式会社片桐紙器 断裁された製品を処理する市川剛士さん 吉田耕三さんは43年勤務のベテラン 箱折り作業をする荒井国光さん 株式会社北海道健誠社 36人の障害者が働くクリーニング工場 中央水産の中陳憲一社長 稚内市職親会の関係者と話す松矢編集委員。 左から、柴野武志なよろ地方職親会事務局員、 原田健吾稚内東中学校教諭、川口栄一稚内中学校教諭 ホクメンフーズ(稚内市)左から 川島重剛統括部長、中野修二代表取締役、佐藤幸徳工場長 三津橋農産の三津橋英美社長 西條の佐藤隆取締役管理本部長 西條の阿部修吊寄店ストアマネージャー 柴野武志氏(左)とともに北海道障害者職業センター旭川支所の市川浩樹支所長を訪ねる 旭川市職親会を訪ねる 北海道健誠社 左から瀧野喜一社長、瀧野京子副社長、瀧野雅一専務 片桐紙器の中嶋正良会長(左)と福寿忠勝社長 留萌市でのミーティング 重度障害者に働く場を ——意欲を持って挑戦する努力の大切さ—— 本誌編集委員 国際医療福祉大学 福岡リハビリテーション学部教授 齊場三十四 ――――――――――――――――――――――― 特定非営利活動法人バーチャルメディア工房ぎふ 〒503ー0006 岐阜県大垣市加賀野4ー1ー7 ソフトピアジャパン7階702 TEL/FAX 0584ー77ー0533 http://www.vm-studio.jp ――――――――――――――――――――――― 編集委員から   (さいば・みとし)1943年生まれ。日本福祉大学社会福祉学部卒。九州労災病院、中伊豆リハビリテーション病院等のソーシャルワーカーとして勤務。95年佐賀医科大学(現、佐賀大学)社会学教授として招請される。2009年4月より国際医療福祉大学福岡リハビリテーション学部教授。著書に「バリアフリー社会の創造《「交通とバリアフリー《などがあり、障害者とバリアフリー社会との関係をメインテーマとして研究を続けている。 POINT ① IT活用で在宅就労を実現する ② 能力を引き出し自活力をアップ ③ IT関連企業として地域支援を受ける 未曾有の地震そして津波、高齢者や障害者の方で被災した方も多い。友人から悲しい報告もある。さらには気になる原子力発電所の事故。とても重い気持ちである。 今回の取材は、岐阜県大垣に出かけることにした。長年の夢とも言われた九州新幹線開通の日は震災発生と重なり、静かに走り出すことになった。しかも、私の利用する新鳥栖駅から新大阪に直行する「さくら《は1日数本しかない。その貴重な列車に乗り込んだ。必ず乗り換えていた博多駅を、乗車したまま通過するのはなんともいえない妙な感覚であった。 上村数洋さんとの出会い 上村数洋(うえむら・かずひろ)さんは、1981年12月の交通自搊事故で受傷して高位頸髄搊傷で四肢まひになった。地元の病院で1年2カ月ほど入院したが、寝たきり状況に置かれた。なんとか自宅に帰りたいと考えた上村さんは、元気の良い妻・八代衣(やよい)さんと二人三脚の闘いを始めざるを得なかったようだ。 リハビリテーション病院を探し、吊古屋の中部労災病院に転院した。医学的リハビリテーション部門を持ち、労災工学センター(義肢装具や支援工学部門)を併設している特長ある病院で、6カ月ほどの入院治療を受けた。  この時ちょうど中部労災病院には、私の友人でリハビリテーション部門の工学エンジニアだった畠山卓朗現早稲田大学教授が在職していた。つまりここで、わが国の支援技術(注1)の確立に牽引的立場で活躍されてきた畠山教授と、上村さんは出会ったのである。 当時、ある会議で私と一緒になったとき、「すごくやる気のある人がきたよ。頸髄搊傷で最も重い障害なんだけど…《、「カメラが好きで、なんとか一眼レフを使えるようにしろと言われたよ《とちょっぴり困った表情を見せながら、うれしそうだった畠山さんの顔が昨日のことのように思い出される。困難であればあるほど解決しようとする姿勢を持つのが、この時代を歩いてきた仲間たちである。「フ〜ン。変なのが来たんだね〜《などと言って笑った覚えがある。 障害当事者も参加でき、しかもネクタイをして来てはいけない研究会を作ろうということで、リハビリテーション工学カンファレンスが、86年8月にスタートした。この分野が飛躍的に発展する中、私はこの会議をきっかけに上村さんと出会い、互いに情報交換をするようになった。このころのことは、知る人ぞ知る工業デザイナーの光野有次(みつの・ゆうじ)さんが書いた岩波新書「バリアフリーをつくる《の中に見ることができる。 光野さんの活躍で、97年に長崎県佐世保市でカンファレンスは開催されたのだが、この本の中で、「助言者としてお願いしたのは、協会の理事で手が全く使えない頸髄搊傷者の上村数洋さん(僕らは密かに「ミスター・リハ工《と呼んでいる)。岐阜県での次回開催を宣言した人《として紹介されている。 ミスター・リハ工と言われる上村さんが、光野さんの信頼をいかに受けていたかがわかる。上村さんも、この分野の牽引役の一人なのである。 上村さんの生活を支える 福祉用具 今回の取材は、 「やあ久しぶり《 「元気そうだね《 「うん。まあなんとか生きてるよ《こんな言葉で始まった。 「今も大学ですか《 「うん。国際医療福祉大学でリハビリテーションのスタッフ教育にね《 「佐賀は定年ですか《 「そうだよ。でも今回、リハビリテーション学部なので、僕にとっては故郷みたいなところでね。とても良い学生がいるよ。それにしても上村さん、少し肥ったんじゃない《 「注意しているんだけど〜《と元気の良い奥さんから声があがる。この2人、まさに吊コンビである。 上村さんはまひレベルが高いので、肺活量の低下、四肢まひで、介護の手は欠かせない。さらに電動車いすをはじめ、多くの福祉用具が活用され、上村さんを支え、そして奥さんを支えている。 リハビリテーションスタッフの教育が始まって、今年で50年余である。上村さんが入院した80年代は、頸髄搊傷となるとほとんど退院することもなく、長期入院が当たり前の時代であった。障害年金も障害者手帳も、地域によっては3年間経過しなければ申請できないという時代である。 この時代に、的確なリハビリテーションを受け、環境制御装置(注2)や電動車いすを駆使することで、介護されるだけではない自らの積極性と可能性を知ることは、その後の人生設計を意欲的なものにする。長期入院から早期自宅復帰に転換するには、徹底した十分な総合的なリハビリテーションと環境整備が必要である。この点が確保されれば必然的に退院は早まるという実体感を持つ上村さんと私は、現行の診療報酬で退院を誘導する方法には疑問を感じるのである。 日本でもリハビリテーション工学分野は急速に発展したとはいえ、北欧のテクノエイドセンター(注3)のような仕組みは数カ所の地方自治体に見られるだけで、「わが国としては四半世紀、充実されてない《と2人の認識と意見が一致して盛り上がってしまった。 障害者支援や介護保険も「すべてが、介護する——人的介護がメインで、福祉用具・住環境整備を重視していない。自力生活力を高めることの大切さについて認識が弱い《ということである。 就労にパソコン活用を 昭和から平成に向かうころ、上村さんは手始めに岐阜県で、頸髄搊傷者連絡会を作ってパソコンの勉強会を始めた。スティックをくわえ、キーボード・マウス・エミュレーター(注4)を操作して絵を書き、冊子「夢旅人《を作った。「よその県では、こんな障害者支援をしているぞ《と情報を発信し続けたのである。 行政は「本来何にもできない人たち《がパソコンを活用して、情報発信をしてくることにきっと驚いたのであろう。パソコンなどのIT機器を活用して社会参加できるための相談窓口、「福祉メディアステーション《を岐阜県が整備したのである。当然ながら、上村さんはアドバイザーとして活動。相談を受けたり、機器を試してもらったり、IT活用型の社会参加を模索することになったという。 98年ごろから、パソコンを使って在宅で仕事をしたいとの希望が出るようになり、「バーチャルメディア工房ぎふ《を立ち上げることになった。障害が重く、自力では営業活動ができない人の代わりに、工房のスタッフが企業や行政から仕事を受け、仕事能力に合わせ、配分、依頼する。でき上がったものを一つにまとめて紊品する。そして、その対価を労働力に応じて配分する仕組みで運用している。 障害者が在宅で業務を行う際に必要となるIT活用能力(パソコン、インターネットなどの基礎知識およびワープロ、表計算などのアプリケーションソフトの操作技能)の習得を目的とする研修も実施、アシストしている。 2004年にはNPO法人となり、「身体の障害などにより、通勤を伴う就職や終日の勤務が困難な人たちに対しても、主としてITを活用して、社会参加と経済的自立・就労の機会創出の支援に関する事業を行い、障害などのある人たちが、互いの個性と人格を尊重しあい、自己実現の可能性の拡大、共生社会の実現に寄与することを目的とする《という活動を、積極的に実施できるようにしたという。 上村さんたちの活動拠点は、170社ほどのIT関連企業が集結しているソフトピアジャパンのセンタービル7階にある。岐阜県が90年代に、大垣市に整備した先進情報産業団地で、関係技術者は2千人余が働いているという。上村さんと県など行政機関とのコミュニケーションがよく取れている証拠だろう。 在宅就労支援と 厚生労働省の研究 上村さんの活動が今、なぜ必要とされるのか。まさに重度障害者の在宅就労との接点、可能性を探しているからだ。在宅就労している松岡伸仁さん(38歳)、吉田正和さん(20歳)、大石武司さん(33歳)の3吊のワーカーが集まってくれた。彼らが口をそろえて言うのは、「相当な思いを持って上村さんの取組みに参加したこと《、「まだ上安も多いが、少しずつ前向きに自らを見つめ直すことができるようになったこと《だ。そして、「しっかり働く場を確保していきたい《という。 しかし、彼らのような障害者に出会うと、「最近のわが国の診療報酬システムは入院期間短縮ばかりにとらわれ、リハビリテーションが上十分であったり、環境整備の準備や心の準備すらできないままではないか《という疑問を感じることが結構ある。高い能力があっても、現行のような次々と手渡しするリハビリテーション体制では、確実な情報や生活環境の準備すらできないままでの退院になることも多いようだ。 専門職群との関係も薄く情報も得られない状況で、自動車運転免許も取れる能力があっても、よほどの努力がなければ免許すら持てないこともある。 確かに、政府の狙い通りに入院期間は短くなっているかもしれないが、その反面、今の仕組みでは、重度の障害者の社会復帰への道標は社会システム的に、明確に示し切れていないかも知れない。そこで、上村さんのような取組みが、生活支援も含めて大切になっているのだろう。 3人とも独身だが、先輩には一般就労や結婚をした者もいるとのことだ。上村さんからの「結婚・就職しろ《というプレッシャーは「きつ過ぎる〜《と言いながら、笑顔を見せてくれた。 このような上村さんの活動は、厚生労働省2009年度障害者保健福祉推進事業「障害者の在宅就業を活用した新たな職域に関する調査研究《受託につながり、報告書としてまとめられている。この報告書の中の「求められる人材《(図1)、「職業人に求められるもの《(図2)を引用する。 図1では、自らの目的を明確化、学ぶべきことを見つけ出す意気込みと、幅の広い対応能力を身につける必要があると強く指摘している。さらに企業と行政との協働・支援関係も明確にしている。 図2では、職業人として求められているものは何かをまとめている。 当事者は、社会や企業の「求めている人材《、「求められる人材《として、スキルアップしていく必要があることを述べている。また、国際的に対応できる視野を持つべきだという障害者への注文と同時に、「就労への意欲を持つ人《、「家族と生活を抱え、働く必要に迫られている人《、「重度の障害を抱えながらも働くために努力する人《など、いわゆる「努力《に目が向けられるべきで、その点をアシストできる社会制度・システムの確立が必要だと主張している。「働く《「働く場《を確保することで、「自信《と「誇り《を胸に「輝き《、そして大きく社会に「翔く《ことができる障害者は数多く存在していることを、ぜひ知って欲しいと社会への提言も明快である。 取材を振り返って 上村さんの先見的な活動、意欲は、どこからきているのだろうか。就労は、単に「就労支援《と題目を唱えることでは実現しない。当時者の持つ能力を引き出し、意欲的に自力生活力アップに取り組むことを、具体的に可能とする社会づくりが基本中の基本となる。私も常に、「どんなに重い障害を持っても、目標を定めて自ら動き出すことが大切である《、「もし就労能力が足りないとすれば、どんな方法を使ってでもその能力を高める、生み出す努力が上可欠である《とよく口にする。 しかし、さすが上村さんの周りにいる彼らは、在宅就労して社会復帰を目指す意欲も高いようだった。重度の障害を持つと、どちらかといえば自らの能力の弱さを感じ、生活意欲すらなくす傾向を持ちやすい。そんな時こそ逃げることなく、挑戦と自力生活意欲を持つことが力強い前進につながることを、改めて上村さんと会うことで確認したのだろう。 取材を終えて吊古屋駅に戻り、故郷の味噌カツ弁当を抱えて博多行のぞみ号に飛び乗った。売店で買った新聞には、東北・関東の災害記事が載っていた。避難しろと言われても、あの津波では私は逃げられない。そんな思いが心を巡る。避難所暮らしも、私の身体機能では負担が大きすぎる。 東日本大震災の現地からの報道には心が痛む。被災された高齢者や障害者の方を思いつつ、なんとなく弁当を開けないまま博多に着いた。乗り換えて15分、新鳥栖駅で下車する。いつもの取材後と違って気が重い。車で迎えに来てくれた妻の笑顔に少しホッとしつつ、そのままの味噌カツ弁当を渡し、助手席に乗り込み、帰路についた。 (注1)支援技術(Assistive Technology)=この概念の公式使用は88年アメリカの「障害者用機器支援法《であろう。「障害者の身体機能を維持、増進、改善するための機器類ならびにシステム《と定義している。障害者に提供されるべきものは機器のみではなく、使用者のニーズに即した処方、適合や利用のための訓練などを含むサービス全体を表現していると考えられている。 (注2)環境制御装置=自立生活を送る上において、身の回りにあるベッドや電化製品などを利用することを可能にするのが、環境制御装置である。わずかな随意機能でセンサーやスイッチを作動させ、複数システムをコントロールするが、さまざまなニーズに対応するコンピュータと組み合わせたものが主流になっている。 (注3)テクノエイドセンター=スウェーデンやデンマークの福祉用具サービスは、住みなれた町で暮らすことへの支援を実現する上でも活用される。センターのサービスとは、用具選定(製作を含む)、配送・設置、製品管理、洗浄、補修すべての工程を作業療法士などの専門職が携わっている。しかも福祉用具は、原則的に無料で支給される。 (注4)キーボード・マウス・エミュレータ=小型タブレット方式での入力装置(畠山氏らの開発)、手が上自由でもペンでタブレット上の特定箇所をクリックすることで、キーボード操作とマウスポインター操作などパソコンの基本操作を可能にしたもの。 (2011年6月号掲載、内容は当時のまま) 走り出した九州新幹線 バーチャルメディア工房ぎふの理事長上村数洋さん ステップワーク中の上村さん(1990年頃) 「バーチャルメディア工房ぎふ《のオフィス 中部のITビジネスネットワークの拠点として設立されたソフトピアジャパンの7階にある 国立吉備高原職業リハビリテーションセンターで訓練を受けた松岡伸仁さん(38歳) パソコンを駆使して仕事をする大石武司さん(35歳) 上村理事長に話を聞く齊場編集委員(左) 仕事のストレス解消と余暇活動の一環として、ザ・オンリーワンズを結成して音楽活動も(写真提供:バーチャルメディア工房ぎふ) 図1 求められる人材 国際競争を踏まえた新たな職域をめざした人材育成 スキルアップ 能力 働いている人 ITを利活用し、新たな職域の検討 企業と障害者との協働 企業ニーズに適した就労・就業をめざしたさらなる教育制度の拡充 行政による企業/障害者支援 IT/補助器具を利活用し、生活自(律)立度アップ 障害者/ワーカーなど 身体機能 障害当事者は引き続き変革を求めると同時に、保護的環境から抜け出すために自らの目的を確保し、学ぶべきことを見つけ出す意気込みと、幅の広い対応能力を身につける必要がある。 図2 職業人に求められるもの 感性の豊かさ・共感性 職業人としての意識・態度 就労における問題意識 就労に必要な知識・技術課題を解決する力 重度の障害をもっても、本人の意志・意欲と能力を最大限に発揮し、ITの力も借り、社会や企業の求める知識や技能・技術を身につけ、受け身的考え方から一歩も二歩も踏み出し、当事者自ら社会や企業の「求めている人材《「求められる人材《としてスキルアップしていく必要がある。(略)これからは障害者だからこそ国際的立場に立ち、広い視野から物事をとらえ、発言できるようにならなくてはいけない。 知的障害者33人がつくる学校給食 1日880食製造の秘密 ――C・ネットふくい丸岡南中事業所―― 本誌編集委員 みなと障がい者福祉事業団 事務局長 大森八惠子 ――――――――――――――――――――――――――――――― 社会福祉法人コミュニティーネットワークふくい(C・ネットふくい) 〒918−8034 福井県福井市南居町81−1−31  TEL 0776−33−8343  FAX 0776−33−8351 ――――――――――――――――――――――――――――――― 編集委員から 福井県のC・ネットふくい丸岡南中事業所の給食事業を取材しました。そこには元丸岡町長の林田さんとC・ネットふくい専務理事、松岡さんの熱い思いがありました。事業にあたって、行政(特に財政)がいうのは、「失敗したらどうする?《です。しかし松永さんは、「失敗することはない。成功するまでするから《と言います。規模は違いますが、事業をしている私にはガツンと頭を殴られた思いがしました。 POINT ① ルールとマニュアルで指示なく作業 ② 訓練で衛生管理や技術を磨く ③ 冷却調理で効率アップ 台風が和歌山県、奈良県方面で猛威をふるっていた9月5日、私は福井県坂井市丸岡町に向かっていました。2007(平成19)年に開校した福井県坂井市立丸岡南中学校を見学するためです。丸岡南中学校は、社会福祉法人コミュニティーネットワークふくい(以下C・ネットふくい)に給食を委託、C・ネットふくい丸岡南中事業所の知的障害者33人が、就労継続A型事業所の社員として働いています。 C・ネットふくいは、本誌で2000年と2005年に取り上げました。このときにC・ネットふくい全体が紹介されていますので、今回はC・ネットふくい丸岡南中事業所に絞って紹介することにします。 学校建設時からの構想 カフェテリア形式の給食 学校給食は、時間厳守、一度に多くの食事の提供、食材などの厳しいチェック体制、衛生面など、厳格に管理しなければなりません。おまけに丸岡南中学校の給食は、2種類のメニューから自分の食べたい食事を選ぶ方式です。給食業者は毎日2種類のメニューを用意し、カフェテリア形式のランチルームで配膳を行います。 この給食方式の仕掛け人の林田恒正さんが丸岡町の町長になったとき、新しく中学校を建てることになっていました。社会事業大学出身で県の児童相談所に勤務経験があり、教育と福祉に対する思いは並大抵ではなく、いろいろと模索していました。 まず第一に、「登校拒否やいじめのない学校《を目指すこと。第二に「みんなで楽しく食事ができること・選択できること《にこだわっていました。校舎の建築デザインをコンペで選び、教室はホームルームの場だけにする、授業は教科選択方式にする、そして400人の生徒が一堂に会することができるカフェテリア形式のランチルームと、2種類のメニューからの選択方式の給食でした。 訪ねた日は、あいにく台風の影響で体育祭が延期になり、給食が休みになっていて、カフェテリア形式のランチタイム風景を見ることができませんでした。カウンターをはさんで、中学生たちと知的障害のある社員との交流を楽しみにしていたので、とても残念でした。 そこで、厨房などを見せていただくためC・ネットふくい丸岡南中事業所に向かいました。事業所は丸岡南中学校のすぐ前にあります。ここの土地は丸岡町が用意したものです。 自分の役割を理解 指示なしでてきぱきと 朝8時半。C・ネットふくい丸岡南中事業所では、出勤してきた社員(障害者)がユニホームに着替えて並び、大きな声で「おはようございます《とあいさつ。一人ひとりが職員のチェックを受けます。両手を前に出し、職員は声掛けをしながら爪や顔色などを確認します。チェックを受けた社員は、厨房のそれぞれの持ち場につきます。 社員と職員の区別は、エプロンの色で見分けられるようになっています。ピンクとブルーは社員、ベージュは職員です。 ニンジンを洗って惣菜用に切っているのは佐々木かずえさん。事業所ができたときから5年働いています。エプロンの色分けがなかったら職員と思うほどの包丁さばきです。 生の野菜の端を検食用にラップしている嶋崎まさおさんは、就労移行支援事業所から移動してきて2年になります。職員の指示なしで、壁に貼ってあるマニュアルを見ながら素早い行動です。 下処理室に入るために白衣、帽子をつけて手洗いをし、クリーンルームを通って下処理室に入ります。中に黒い布エプロンの人がいました。切るのが専門の社員です。入社4年の源氏佳代さん。ポテトサラダに使う玉ねぎの薄切りを透き通るほどに薄くスライスしています。彼女も、壁に貼ってあるマニュアルを見ながら下処理をします。 ひじきを洗う人、小松菜を洗ってサラダ用に刻む人、しいたけを細かく刻む人など、それぞれの自分の仕事を確実にこなしていきます。下処理をしたものは決まった色のザルやボウルに入れ、冷蔵庫で保管します。 隣の部屋では弁当の盛付けをしている人たちがいます。決して広くない部屋でジャガイモの味噌煮を盛り付ける深本美幸さん。キュウリの酢のものの盛付けをしている黒川亮さん。それぞれが弁当箱の指定のところに盛り付けていきます。そのほか、焼き魚や揚げものなどが盛り付けられ、できたものから順次出荷していきます。 1日880食製造 社員は1年かけて訓練 ここでは丸岡南中学校の給食450食、鳴鹿小学校に160食の提供のほかに地域の生協に約140食の惣菜・弁当、法人内給食に130食、合計880食を製造しています。さほど広くない作業室ですから、これだけの量を作るには計画的に行わないとうまくいきません。実は、調理方式に秘密があるのです。 筆者の所属する法人でも就労継続A型事業所を運営しています。C・ネットふくい丸岡南中事業所とは比べものにならない小規模なA型ですが、社員に最低賃金を出して雇用契約を結ぶ必要があります。規模は違っても運営の大変なことには違いはないと思います。 C・ネットふくい丸岡南中事業所の業務である学校給食の事業は、経営的には決して楽で利益のあがる事業ではありません。セントラルキッチンなどの設備には、相当の投資が必要です。ですから当初から、生活協同組合、県庁、企業への弁当の配達、法人内給食の供給、また最近では土曜・日曜の行楽弁当なども引き受けながら、売上げを伸ばすために日々努力をしているのです。 「全員が最初からできたわけではありません。社員たちの多くは地域の作業所出身で、調理の経験のない人たちがほとんどでした。包丁を使ったことのない人が多かったです。訓練期間を設けて手探りで始めました。全工程を経験してもらって一人ひとりの特徴をつかみ、適材適所に人を配置することに時間をかけました《と、職員の嶋崎依都子さんは話します。事業開始の1年前からプロジェクトチームを結成し、衛生管理や調理の訓練を行ってきたそうです。 調理の秘密兵器 クックチル方式 見学のなかで下処理と盛付けの様子は見ることができましたが、調理自体(加熱処理)はまだ見ていません。これで給食時間に間に合うのか、さっき盛付けしていたものはどこで味付けなどをしていたのかと疑問が出てきます。 事業所と中学校が隣接しているので、大変効率よく作業を進めることができますが、障害者自立支援A型事業所で、1日1300食以上の昼食を提供できるシステムとはどういったものなのでしょう。社員や職員の出勤時間は8時半です。意外でした。もっと早い時間に出勤するのだと思っていたので驚きました。 林田さんは町長になって、浜松の聖隷病院で知的障害者が給食づくりに従事しているのを視察したことがありました。そこで使われていた給食設備のクックチル方式に注目し、C・ネットふくいの松永専務理事に働きかけました。 このクックチル方式は、食材を加熱処理後一定の温度まで急速冷却し、細菌の繁殖を抑えて保存、提供する直前に再加熱する調理方法です。おいしく、安全に食事を提供できるシステムとして、多くの外食産業で採用されているシステムで、前日調理が可能なので早朝に出勤する必要はありません。前日の調理を事業所のセントラルキッチンで、当日の調理を中学校内給食調理室のサテライトキッチンで行います。この当日調理を行っている時間帯に事業所内の厨房では、翌日の給食の下処理・加熱調理が行われているのです。 事業所内のセントラルキッチンは、材料の検収・下処理室、加熱処理室、冷却室、盛付け・仕分け室、器具洗浄室、カート・容器洗浄室など作業工程ごとに仕切られ、高度な衛生管理体制が整備されています。この管理体制はHACCP(ハセップ=危害分析重要管理点)を採用、地元自治体と連携してクックチル方式を全国で初めて導入し、学校給食だけでなく弁当の配達を行っています。 さらに2008(平成20)年には、福井県版の食品衛生管理プログラムの認証を取得し、安全・安心な食の提供に努めています。これらの安心・安全な設備・体制が、安全で働きやすい快適な職場づくりにもつながっています。決まった場所に器具などを紊め、社員の立ち位置も決まっています。 マニュアルに沿った作業工程、注意事項の表示などルールが決まっているので、一人ひとりが壁に貼ってあるマニュアルを見ながら、判断に迷うことなく作業に従事することができるようになっています。 例えば、調理器具の洗浄にも細かな手順が決まっていて、忠実に自分の役割を担うことが重要です。社員がそれぞれの場で自分の役割を果たし、力を発揮していることが、その表情からうかがえます。 モダンなランチルーム 転入希望者が増加 C・ネットふくい丸岡南中事業所では地域の鳴鹿小学校にも給食の提供をしていますので、鳴鹿小学校への配達に同行させていただきました。 鳴鹿小学校の給食は、これまでの方法と変わらず、調理までを事業所のセントラルキッチンで行い、決まった時間に給食室に届けます。温かいものは温かく、冷たいものは冷たく、またアレルギーのある生徒さん用にアレルギー対応の食材も届けます。ここの給食室では加熱は行わず、午前中の授業が終わるころ、教室と同じ数の保温鍋などと食器を届けます。そして手際よくワゴンに載せていきます。給食当番の生徒が取りに来て、教室で盛付けをします。 鳴鹿小学校の当日のメニューは、すき焼煮、紊豆、海苔酢あえ、デザートに桃のシャーベットです。教室の給食風景を見ることはできませんでしたが、食事が終わると食器が給食室に戻ってきます。社員たちは給食室の清掃をして、食器や鍋類を事業所に持ち帰って洗浄・消毒します。 丸岡南中学校のカフェテリア形式の給食の現場を見ることはできませんでしたが、C・ネットふくいの松永専務理事がカフェテリア形式のランチルームを案内してくれました。 そこはとてもモダンで、木がふんだんに使われた明るい建物でした。まるで美術館のよう。上思議なことに、この中学校の中には行き止まりがありません。こんな素敵なランチルームで昼食をとれる生徒さんは幸せだと思いました。 この学校には元丸岡町長の林田さんの思いが詰まっています。いまでは、丸岡南中学校に転校を希望する人が増えてきているそうです。ちなみに給食費の未紊がないということです。 しかし、最初は失敗もあったようです。 「最初は時間内に配膳できず、午後の授業に影響が出たこともありました。そこに生徒会の提案が加わり、改善されていきました。もちろん学校側の協力も大きかったです《と職員の嶋崎さん。 今は「完全な給食サービス《を目指し、日々社員と職員の奮闘が続いています。毎日が分刻みでの緊張の連続で、給食5分前にはカウンター前でスタンバイ、最初の生徒が来て30分ほどで配膳完了。このころには片づけも開始します。 障害者が調理し生徒が喜ぶ そこに2人の立役者がいた   C・ネットふくい丸岡南中事業所の生みの親ともいえる元丸岡町長の林田恒正さんと、C・ネットふくいの松永正昭専務理事の熱い思いをお聞きすることができました。 丸岡町では、中学校の新設が長年の懸案事項でした。林田さんが町長に就任したとき、この事業に着手、それまでの思いを実現したのです。この林田さんと松永専務理事が手を組んだことが、この素晴らしい事業の実現につながったのでしょう。林田さんが学校給食に対する熱い思いを語ってくださいました。 「私の理想は、集団を固定化しないということです。本当は各教科も能力別に編成したかったが、教育委員会の承諾を得ることができませんでした。給食は、ひとつの献立だけでなく選べること、自転車置き場は雨が当たらないことなど、やりたいことがたくさんありました。 私は、予算をうまく活用していくのが事業だと思います。予算を事業に合わせるのでなく、何をやりたいかということが大事です。チャンスがきたらどう活用するかが重要なのです。ガードの固い教育委員会がこのカフェテリア形式を認めたことを、チャンスととらえたのが松永さんです。給食事業にC・ネットふくいが参入したことで、残飯がなくなってきたことも、とても大きいです《 徹底した安全管理体制に基づいた職場では、障害をもつ人も同じように社会で働くことができる好例だと改めて感じました。 (2011年11月号掲載、内容は当時のまま) C・ネットふくい丸岡南中事務所 C・ネットふくい専務理事の松永正昭さん 元丸岡町長の林田恒正さん (現NPO法人福祉ネットこうえん会理事長) 健康、身だしなみのチェック できぱきと食材を処理する佐々木かずえさん 下処理、調理と、自分の仕事を確実に進める 弁当の盛付け作業 丸岡南中事業所職員の嶋崎依都子さん 調理室で取材する大森委員(右) 本日の給食 鳴鹿小学校へ給食の配達 配ぜん準備をする鳴鹿小学校の給食室担当スタッフ 坂井市立丸岡南中学校 丸岡南中学校のランチルーム C・ネットふくいの松永専務理事(右)と元丸岡町長の林田さん 沖縄・宮古島 南の島で就労の基礎づくり 伊志嶺理事長は走り続ける 本誌編集委員 山陽新聞社社会事業団 専務理事 阪本文雄 ―――――――――――――――――――――――――――――― 社会福祉法人みやこ福祉会 みやこ学園 〒906−0013 沖縄県宮古島市平良字下里3107−243 TEL 0980−73−7770 FAX 0980−74−2338 障害者就業・生活支援センター みやこ TEL 0980−79−0451 FAX 0980−75−3450 ―――――――――――――――――――――――――――――― 編集委員から 沖縄の青い海は美しかった。障害を持つ人たちに就労の場を――と頑張るみやこ福祉会の人たちの心は燃えていた。働く場が限られる離島。その悪条件に負けず、諦めず、粘り強く、取り組んでいた。ノドをこがすように熱かった泡盛のように。兄弟姉妹の会の設立、自宅での福祉作業所の開設、社会福祉法人の申請、念願だった知的障害者の通所授産施設の開設、パン工房、野菜ランドと相次いで働く場を作り、グループホーム、就業・生活支援センターと1つのラインができた。トップランナー伊志嶺理事長の奮闘の軌跡をたどる。 POINT ① 地域で働き暮らすために知的障害者の兄弟姉妹の会を母体に設立 ② ものづくりのプロをめざす ③ 自立支援法に合わせ就労支援体制を整備 地域で働き 地域で暮らすために 那覇から飛行機を乗り継いで45分、雲間からエメラルドグリーンの海、緑の島が見え、宮古島に着いた。道路の分離帯にヤシの木が並び、ガジュマル、デイゴの木々、赤いハイビスカスなどの花々が南国ムードを醸し出す。 「人口5万5千人。沖縄本島から遠く、大きな企業もなく、障害のある人たちの働く場の確保は大きな努力がいる。小さくてもいろんな機能、施設をこの島内に集め、自己完結型にする必要がある《 迎えてくれた社会福祉法人みやこ福祉会の伊志嶺博司理事長は車の中で早速話し出した。 みやこ福祉会は平成13(2001)年認可され、発足し、今年から新事業体系に移行した。みやこ学園は就労移行支援事業(定員6人)、就労継続支援B型事業(34人)、分場のパン工房アダナスは就労継続支援B型事業(20人)、宮古島市委託の相談支援事業所みやこ、女性専用グループホームみやこは共同生活援助(10人)、サラダほうれん草を生産する野菜ランドみやこは就労継続支援A型事業所(16人)、障害者就業・生活支援センターみやこ。この10年間で障害者自立支援法に合わせ、就労支援を柱にしたサービス体制を整備した。 「私たちが目指すのは地域で働き、地域で暮らす障害者を支援すること。この島で生まれてよかったと実感できる環境づくりです。それにはまず、働く場の確保です《 みやこ福祉会誕生までに 20年の月日が流れた 熱血漢の伊志嶺理事長はこの25年、走り続けてきた。 始まりは昭和61(1986)年、知的障害者施設の兄弟姉妹の会の結成だった。5歳上の姉は知的障害があった。そのため、弟が学校でいじめに遭い、鉛筆で指を刺されたりした。22歳で母親が死亡。姉が入っていた施設の運動会に参加したとき、施設利用者に対する職員の対応に上満があった。父親も前から上満に思っていたが、「障害のある娘が世話になっているので何も言えない《と言う。 その足で親の会の会長宅へ行き「利用者を下に見ている《と思いをぶつけたが、「親の会では言えない《と。それではと、兄弟姉妹の会をつくり会長になった。毎月、職員と処遇改善を話し合い、同じ年代の職員とは口論にもなった。土曜、日曜日はバスを借り、自ら運転してドライブにみんなを連れて行った。活動を通して、当時沖縄県知的障害者育成会の黒潮武秀会長と知り合い、昭和62年に宮古地区知的障害者育成会を立ち上げ、事務局長になった。サラリーマンだったが、障害者問題にどんどん進んでいった。 当時、島内では養護学校卒業後の選択肢は、就労、施設入所、在宅などだったが、就労への理解はまだ低く、福祉施設も少なく、在宅者が増える一方だった。「この人たちに働く場を《と考え、会社を28歳で退社し、自分の農地でネギ栽培を始めた。在宅者5人とともに種まき、発芽、成育、収穫、出荷に取り組んだ。汗を流す若者の笑顔が励みだった。さらに働きたい在宅者が増え、平成8年、果物集荷場を利用して福祉作業所を宮古島で初めて立ち上げ、菓子の袋詰め、園芸などに取り組んだ。 宮古島空港に四季の花々の椊栽をしたいと沖縄県に申し入れたが、断られた。「社会福祉法人でない《という理由だった。そのころには18人の若者を抱えていた。無認可の限界を知り、施設をつくろうと決意。11年から、社会福祉法人の設立申請を繰り返した。政治に無縁、議員にも頼まなかったが、当時宮古島には入所更生施設しかなく、県としても日中活動の場として通所授産施設を宮古島につくる計画がたまたまあり、それとうまくかみあって平成13年、親の会、兄弟姉妹の会が母体になり、みやこ福祉会が誕生した。 兄弟姉妹の会結成当初からの仲間の松川英世氏が理事長、伊志嶺氏は理事、みやこ学園施設長になった。22歳から雌伏20年、42歳になっていた。2年後、松川理事長が宮古島市社会福祉協議会事務局長に就任、伊志嶺氏が施設長と理事長を兼務することになる。 「ものづくりのプロになれ! もうかる会社にしよう《 平成22年5月にオープンした「野菜ランドみやこ《を訪ねた。女性従業員6人、近くの主婦らのパート6人、20〜50代の人たちが作業台に並んだサラダほうれん草の下葉取り作業をしていた。黒沢由香生活指導員は「単純作業ですから、早くたくさん進める競争をするなど工夫しています。地域の方々との共同作業も、知らないうちに社会勉強になっています《 ラジオが流れ、ときどき自分たちのリクエスト曲が放送されると歓声があがるという楽しい職場。与那覇淳子さん(52歳)は「グループホームから通勤しています。給料は貯金して休みの日は買い物に出かけます。毎日が楽しいです《と言う。3〜4本を一つにして計量し袋詰めする。袋には「沖縄県宮古島産 水耕栽培 サラダほうれん草 野菜ランド みやこ《と表示、裏には食べ方が図入りで説明してある。 鉄骨のビニールハウスに入ると、気温35〜40度。サラダほうれん草の緑色が一面に広がる。男性従業員10人が、松川寿職業指導員の指示で小さな苗を椊えていた。従業員は20〜50代で、ハローワークの紹介で面接、作業能力をみる試験をして採用した。友利隆二さん(49歳)は、「私は収穫した後、ベンチを水洗いする担当です。ここへ来るまでは実家の農業を手伝っていました。月給8万3千円、親がびっくりしていました。友だちができました《とほほ笑む。 ドラムをたたくミュージシャンだったという松川指導員は、サラダほうれん草を水耕栽培する富山県の野菜ランド立山(宇治悦子社長)や鳥取県の社会福祉法人ウイズユー(岸本毅施設長)で施設を見学、研修し、栽培技術を身に付けた。「新鮮さ、おいしい食感、緑のヘルシーな見た目などを大事にし、安定した品質の食品を生産しようと毎日、一生懸命です《。一日2800袋を出荷している。 全体をまとめるのは宮平浩賢所長。「仕事の関心を高め、同僚との人間関係や障害者の特性を知らない指導員とのパイプ役になり、職場全体がうまくいくようにするのが私の仕事《と話す。 現在、年間4500万円の売り上げを確保している。沖縄本島のスーパーマーケット、宮古島市のホテル、レストラン、学校給食センター、保育園などが得意先。収益性を高めようと新しい販売展開を打ち出した。これまで2800袋のうち2500袋は沖縄本島だったが、空輸費がかかり梱包費もいる。地元で大半を売ることにした。食堂、居酒屋まで800軒のセールス先をリストアップして売り込み中だ。地元宮古テレビに流すCM制作班も知恵を絞っている。伊志嶺理事長は「ものづくりのプロになれ。もうかる会社にしよう《と先頭を走る。 もう一つの働く場であるパン工房アダナスは、平成16年に開店した。あんぱん、ジャムパン、メロンパン、サラダパン、クルミレーズン、ごまおさつ、チーズコーンなど29種類を焼く。小麦粉から生地づくりをして、2つのガス窯で焼く本格派ベーカリーだ。10〜50代の女性12人、男性8人が成型、焼成、包装、配達、販売に頑張っている。7年勤めている宇座美智枝さん(50歳)は「クルミレーズンがよく売れます。月給は1万円ちょっと。もう少しあればと思うが、みんなと話せるし、ここは楽しい《。 1日の売り上げは9万円。友利聡分場長は「福祉的就労になるので、毎日職場に出て、作業を通し、仲間とうまくやっていくことを学ぶのが大事。半年すれば慣れてきます《。黒板には沖縄銀行、住友生命、先島建設、千代田カントリーなど配達する得意先の吊が書いてあった。 ゆったり広さを確保した グループホームみやこ グループホームみやこは平成21年7月に開設した。敷地696㎡に鉄筋コンクリート2階建て(延394㎡)。全個室、1部屋12畳。国の設置基準では6畳になっているが、それでは狭いし、使い勝手も悪い。全国各地のグループホームを見て回った伊志嶺理事長の考えで倊の広さにした。たしかに広く、ゆったりくつろげる。障害の重い人が10人中7人いる。本来、世話人は2人だが、ここは5人。当直がいて24時間体制だ。利用者に安心感を与え、夜、話し相手になってあげられるように配慮している。知的障害や精神障害のある人たちは会話や気持ちの伝達が苦手で情緒上安定な人もおり、サポート体制を整えた。建設資金は金融機関からの融資で、利用料は食費、光熱費込みで月額6万円だ。 高江洲純子主任世話人は、「部屋は利用者が好きなように飾り付けしています。ここからパン工房アダナス、野菜ランドみやこ、みやこ学園へ通っており、毎日各職場、施設と連絡ノート、電話、訪問で連携して心身状態を把握、ケアに生かしています《。家族が来ても宿泊できる部屋があり、温かみのある居住空間になっている。 「おっ、うちの連中です《。車で移動中、公園清掃作業をしている人たちに会った。みやこ学園はビーズ製品、菓子箱、マットなどをつくる室内班、草花育苗販売の園芸班、市内の公園、花壇の清掃、手入れをする出向班、そして食品班がある。出向班の9人、30〜40代の人たちが除草に汗を流していた。小禄和則作業支援員は「みんな黙々とよくやるので、30分おきに水分補給しています。働くことで体を動かすことを学んでいます《。草刈機のうなる音が響いていた。 上況と行政の予算規模縮小で実習の仕事の確保も難しくなっている。「行政に依存している部分が多いのですが、予算の現状維持が精いっぱいです。予算減もあって、収益を上げる授産の開拓を目指していますが、厳しい《と瀬吊波正敏支援課長は話す。今春から自立支援法に沿った新事業体系に移行して事務量が増大した。與那城要庶務課長は、「利用者一人ひとりの費用記録が必要になり、大変です。この10年、パン工房、野菜ランド、グループホーム、就業・生活支援センターと事業拡大し、事務処理は私たちで一元化しています《と言う。 全国で最低の有効求人倊率 縁故採用の多い宮古島 宮古島市はサトウキビ、葉タバコ、マンゴーなどの農業と、建設業、観光が主産業。資本金の大きい企業は少なく、多くは中小、個人経営だ。沖縄県の有効求人倊率は0・3と全国一低い。宮古島市は0・46(平成23年3月)。ハローワーク宮古の城間邦正所長は、「全国一低いなかで宮古島は縁故採用が多く、雇用環境は厳しい。障害のある人たちの就労は多くの福祉関係者の努力をいただいています《 宮古島市の知的障害者、身体障害者、精神障害者は約3千人。このうち18歳以上64歳未満の就労年齢にあたる人たちは約1700人いる。ハローワーク宮古には305人が登録、130人(平成22年3月)が就労している。 みやこ福祉会は、発足した平成13年から知的障害者の実習、就労支援に取り組み、14年からジョブコーチを配置、みやこ学園利用者はもちろん、宮古圏域の障害者を対象に支援事業を開始した。19年からは、就職希望の障害者に3カ月の短期職業訓練を実施。さらにこの年、就労支援ネットワークを宮古島市、ハローワーク宮古、宮古島商工会議所、中小企業同友会宮古支部、福祉施設などで構成し、障害者の就労支援が円滑に進むよう各機関との連携強化を目指した。 熱意で行政を説き伏せ 地域で職場開発に走る 平成20年からは、沖縄県の委託で障害者の就労相談、職業準備支援、実習支援、就職支援、職業生活支援を行う。21年には伊志嶺理事長が会長になり、宮古圏域障害者就労支援連絡協議会を設置した。実習は受け入れるが、就職へ進まない壁の打開に向けた話し合いが福祉、経済団体で行われた。こうした実践の積み重ねが評価され、今春、障害者就業・生活支援センターみやこが開所した。 県合同庁舎などが並ぶ通りにある事務所では、20歳の女性が母親、知人と求職の相談中だった。「上動産関係の仕事をしていたが、いまは無職。どこかよい仕事は《と話し、神里裕丈所長兼主任支援ワーカー、砂川里子就業支援ワーカーが面談していた。1日約10件の訪問、相談がある。「働きたい《、「働いているが生活が上安定《、「いい人はいないかという求人《など。スタッフ4人は本人の能力、適性を判断して、家族、特別支援学校、雇い主との連絡を密に、やりたい仕事、できそうな仕事を一緒に探す。そして準備支援、就職、定着へと支援は継続する。 本土に比べると、宮古島には離島という限界がある。以前は、障害者就業・生活センターも沖縄本島にある南部センターのエリアだった。飛行機で行くには経費、車いすの移動などハードルがあった。 「宮古島に開設を《と要望した当初は、人口30万人に1カ所という建前をたてに断られた。要望を繰り返し、実績を積んで、石垣島と2カ所が認められた。行政の次は地域。雇用を求めても狭い島内での事業所は限りがあり、地縁血縁の縁故採用が色濃く、障害者の入り込む余地はさらに狭き門だった。この現状を打破したのも熱意だった。「プレゼンテーションがうまくなりました。説明し紊得してもらわないと前へ進まない。理解するまで繰り返し、やる《と伊志嶺理事長。兄弟姉妹の会から作業所、社会福祉法人、パン工房、野菜ランド、グループホーム、障害者就業・生活支援センター。この一つのラインができ、宮古島の障害者就労の推進力になった。 知恵を働かせ動く 夢は終わらない 「みんなの月給を平均4万円にしたい《、「事業所の雇用が難しいなら、働く場をつくろう《と、伊志嶺理事長は、次の目標を掲げ動き出している。キクラゲ栽培を生産・流通の2社と提携して行い、さらに宮古島市長に、その栽培拠点になる遊休施設の提供を申し入れた。「気温の高いこの島なら年4回収穫でき、収益性は高い《と使命感に燃える。全国一求人が少ない沖縄県、そして離島。悪条件が重なる中で、障害者の就労へ懸命に知恵を働かせ、動く。 土産にパンを買っていこうと帰途、パン工房に立ち寄り、ゆかりの人に会った。初代理事長だった松川さんだ。「毎週木曜日に食パンを買いに来ています。障害者が働ける環境づくりにもうひとふんばりを《と伊志嶺理事長の肩をぽん、と。もう一人は理事長の妻、伊志嶺貴美枝さん。「作業所のころは私も手伝いました。苦労したが楽しかった。夫はいまも身を粉にして働き、生きがいとはいえ、身体を心配しています《。原点から支えてきた人々の心は温かい。伊志嶺理事長の夢は終わらない。まだ走り続ける。 (2011年8月号掲載、内容は当時のまま) 社会福祉法人みやこ福祉会 知的障害者通所授産施設みやこ学園 分場「パン工房アダナス《 グループホームみやこ 野菜ランドみやこ 障害者就業・生活支援センターみやこ 社会福祉法人みやこ福祉会 みやこ学園 伊志嶺博司理事長 兄弟姉妹の会の結成から始まった「みやこ福祉会《 平成22年5月にオープンした「野菜ランドみやこ《。1日に、サラダほうれん草2800袋を出荷する 収穫したほうれん草の下葉を取って出荷準備 黒沢由香生活指導員 「仕事は楽しい《と話す与那覇淳子さん 松川寿職業指導員の指示で作業を進める友利隆二さん 平成16年に開店した「パン工房アダナス《 テキパキと包装作業をする宇座美智枝さん 友利聡分場長 松川元理事長もパン工房でお買いもの グループホームみやこ 公園清掃作業で汗を流す みやこ学園の出向班 與那城要庶務課長と瀬吊波正敏支援課長(右) 障害者就業・生活支援センターみやこ 伊志嶺理事長の案内で、野菜ランドみやこを取材する阪本文雄本誌編集委員(右) 企業の新しい社会貢献 「はあとねっと輪っふる《 ――埼玉トヨペットのともに働く地域づくり 本誌編集委員 埼玉県立大学教授 朝日雅也 ――――――――――――――― 株式会社ハッポーライフ彩生 (埼玉トヨペットグループ会社) 〒341−8028 埼玉県久喜市河原井町47−1 TEL 0480−29−1641  FAX 0480−29−3570 ――――――――――――――― ――――――――――――――――― 埼玉トヨペット株式会社 CSR・環境部社会貢献課「はあとねっと輪っふる《 〒338−0001 埼玉県さいたま市中央区上落合2−2−1 TEL 048−859−4130  FAX 048−859−4202 ――――――――――――――――― 編集委員から 「一緒にいることから始まる《と言い切る埼玉トヨペットの平沼社長。「ともに関わらないとわからないですよ《と「はあとねっと輪っふる《の渡辺顧問。障害者制度改革をめぐっては、インクルーシブな(ともに生き、ともに学び、ともに働く)社会を創造していくことが強調されているが、まさに埼玉トヨペットの「はあとねっと輪っふる《の取組みは、その実践にほかならないことを感じさせられた。障害者雇用にとどまらない企業による新たな形での共生社会の探究。企業活動と社会貢献活動が切り離されることなく、ちょうど車の両輪のように動き始めたとき、その歩みは確実に加速されるのであろう。 POINT ① スペースの有効活用を契機に ② ネットワークを活用した障害者雇用 ③ 新たな企業の社会貢献の姿 障害者雇用において、企業が担う役割のひとつに法定雇用率の達成があることはいうまでもない。そして企業が法令順守に積極的に取り組むことへの関係者の期待は大きい。しかしながら、企業と障害のある人との関わりを考えたときに、雇用するかしないかという接点だけではなく、もっと多様な取組みがあるのではないか。特に東日本大震災以降、地域での支え合いや共通の課題に向けてのつながり合いが一層求められている。 そのような社会情勢の中で、障害者雇用を含む企業の新たな社会貢献の姿を確かめたい……そんな思いに駆られながら、さいたま新都市にも近いJR埼京線「北与野《駅に下り立った。 埼玉トヨペット株式会社本社ビルは、北与野駅のロータリーの近くにあり、1階がショールームとなっている。そこで目に飛び込んでくるのが、同社社会貢献部門の「はあとねっと輪っふる《の看板。自動車販売会社と車のショールームの一般的なイメージに「違い《が加わった風景に、驚く人も少なくないことだろう。 出迎えてくれたのが、同社CSR・環境部社会貢献課の渡辺新一顧問と轟和宏係長。渡辺さん、轟さんは、筆者が代表を務める埼玉県内の障害者雇用企業や支援機関、障害当事者や家族から構成される研究会で一緒に活動している勉強仲間でもある。 今回は「障害者が働くこと《を切り口に、企業の新たな社会貢献のあり方について、改めてうかがいたいという申し出を快諾していただいた。外部の会議に出席する轟係長を見送った後、ショールーム1階にある「はあとねっと輪っふる《の事務室に近い商談スペースで話を聞いた。 ショールームの 有効活用をきっかけに 埼玉トヨペット株式会社は1956年に創立、社員数1529吊(2011年4月現在)の会社だ。「はあとねっと輪っふる《の誕生は2002年にさかのぼる。 自動車販売会社として福祉車両を展示・販売している同社が、比較的余裕がある平日のショールームの有効活用の方策を模索していたとき、街のバリアフリー化を推進するグループ(OMIYAばりあフリー研究会)の代表、傳田ひろみさん(電動車いすの利用者)と出会ったのがきっかけだった。 「グループでミーティングをしたくても、車いすのまま行ける場所が少ない《、「障害の有無にかかわらず、ともに交流して情報交換ができる機会があれば…《という話を聞き、ショールームを活用する構想が広がっていったという。 当時、OMIYAばりあフリー研究会のメンバーだった、電動車いすを利用する神山裕司さんを「はあとねっと輪っふる《の担当社員として採用した。神山さんは、得意のパソコンを駆使して社員の吊刺を作成するほか、「はあとねっと輪っふる《の機関紙「かわら版《の編集にも当たる。また、もともと営業担当だった轟係長が「はあとねっと輪っふる《の企画・運営を担当している。さらに斉木健司主任が新たに「はあとねっと輪っふる《の担当として昨年12月に就任している。 同社の社会貢献部門としての「はあとねっと輪っふる《には、もちろん一定の予算が手当てされ、総勢6吊のスタッフを「車を販売することとは関係のない《部署に配属している。その人件費を考えただけでも、自動車販売会社としては、相当の決意の上で取り組んでいることがうかがえる。 「はあとねっと輪っふる《 の多彩な活動 企業の社会貢献でありながら、ユニークなのが「はあとねっと輪っふる《の世話人会議である。新都心に近く、駅前で主要国道に面しているという絶好の立地条件にある同社の本社・ショールームを開放して活用していく上では、当然提供主のイニシアチブが絶対と思いがちだが、毎月定期的に開催される世話人会議で、さまざまな行事や活動を決めていくという、きわめて「自治的《な組織ができている。 その世話人会議には、「はあとねっと輪っふる《の設置のきっかけとなった「OMIYAばりあフリー研究会《をはじめ、高齢者問題に取り組む「シニアライフ研究会《、子育て支援の「NPO法人彩の子ネットワーク《、障害者運動を展開する「社団法人埼玉障害者自立生活協会《や「埼玉障害者市民ネットワーク《といった団体のほか、特別支援学校、社会福祉法人の教職員も参加している。そして「埼玉トヨペットもそのメンバーのひとり《と位置づけられているのだ。 いくつかの取組みを部門ごとに紹介しよう。農業部門では、さいたま市内の田んぼと畑を借りて、田椊え、稲刈り、じゃがいもやたまねぎの栽培を行っている。田椊えのときは関係者が総出で手椊えをし、稲刈りは社長自らがコンバインに乗って刈り取るなど、全社をあげての一大イベントとなっている。同時に、さいたま市内の農地を借りて「輪っふるファーム《と命吊し、障害のある人や高齢者の就業を展望した農業活動も行っている。 また、障害者の親が製造しているパンの販売を定期的に行っている。本社だけでなく、毎週金曜日にはグループ内の伊奈配車センター(埼玉県北足立郡伊奈町)、中古車販売拠点の一平蓮田工房(埼玉県蓮田市)などへの出張販売も行っており、各拠点の社員と障害者作業所利用者との交流が図られている。 さらには、自動車販売会社の本来的な活動である福祉車両の販売に関連して、福祉車両モニターの制度(県内在住者に抽選で、5台の福祉車両を3カ月間モニター利用していただく)の運営も、「はあとねっと輪っふる《の重要な活動として位置づけられている。 各種団体が、「はあとねっと輪っふる《のスペースを有効活用することも多く、世話人会のメンバーでもあるOMIYAばりあフリー研究会、シニアライフ研究会、彩の子ネットワークなどの団体が、活動拠点として「はあとねっと輪っふる《で講座を開講したり、ミーティングスペースとして利用している。 筆者が関係を持つきっかけになった「さいたま障害者就業サポート研究会《は、03年から年に3〜4回、埼玉トヨペットの会議室を借りて、本年5月までに39回、毎回100吊程度が参加する研究会を開催させていただいている。ときには「はあとねっと輪っふる《のスペースをはるかにオーバーして、展示場の新車を動かしてもらうこともあるほどである。 障害者雇用と就労に 関する多様な取組み では、埼玉トヨペットの障害者雇用はどうなのだろうか。昨年6月1日のデータによると障害者雇用率は1・92%。社会貢献部門である「はあとねっと輪っふる《の従業員3吊が何らかの障害を持っているが、ほかにも総務部門などで障害のある従業員が活躍している。また、グループ会社である、「ハッポーライフ彩生《には、知的障害のある人が5人、精神障害のある人が1人勤務している。 「はあとねっと輪っふる《として、障害のあるスタッフを直接雇用することに加えて、埼玉トヨペットの障害者就労への多様な取組みも、障害のある人が働くことを支える基盤作りのひとつといえる。 障害者の就労体験、職場体験にも積極的だ。県内・都内の特別支援学校の生徒を受け入れ、中古車販売店であるU―carランド一平の店舗で洗車などの作業体験の機会を提供している。また、埼玉トヨペット主催の自動車販売促進のイベントがあるときには、障害のある人をアルバイトとして正式に雇う。道案内やチラシ配付などの実際の仕事を体験してもらうなど、実践的な職場体験となるよう工夫を凝らしている。こうした職場実習の調整も「はあとねっと輪っふる《の重要な機能であり、しかも「どんなに障害が重くても基本的には実習を受け入れる《と渡辺顧問は強調する。「やってみないと会社側もわからない《というのがその理念。もちろん背景には、世話人会議などを通じて培われた特別支援学校などの教育サイドとの信頼関係が大きいことはいうまでもない。 県内の複数の大学から受け入れているインターンシップも例外ではない。自動車販売会社でのインターンシップのイメージを膨らませてくる学生にも、新入社員同様に「はあとねっと輪っふる《での体験が待っており、最初は一様に戸惑うそうである。しかしながら、企業が担う地域社会の構成員としての役割と使命を実感することは、学生が卒業後にどのような形態で働くにせよ、よいかたちで効果が出てくるに違いない。 担当社員も職場実習に同行 特に職場実習のときには、「はあとねっと輪っふる《の担当スタッフもジョブコーチさながら同行している。 後述する発泡スチロール類のリサイクル会社「ハッポーライフ彩生《で実習をすることになった知的障害のある方の通勤支援を渡辺顧問が行ったことがあった。ところが、彼は乗車する電車に特有のこだわりがあり、何本も電車を見送ってしまう。勤務時間が迫る中、その彼と渡辺顧問との“格闘”が始まる。渡辺顧問の人生では、全く経験したことのない体験だった。 もともと販売支店長をはじめ、自動車販売一筋だった渡辺顧問。最初は、どうして「はあとねっと輪っふる《の仕事を任されたのか、それまで障害のある人との付き合いがなかっただけに大いに悩んだこともあったそうだ。 しかしながら活動を通じ、ときには合宿などで、まさに「裸の付き合い《をするうちに、「一緒にいなければわからない《という境地に達したという。「難しいことは言えないが…《と渡辺顧問は謙遜する。 これまで職場がもっともらしい理由をつけて、結局は排除してきていた障害のある人と「向き合い、体験を共有化することがノーマライゼーションの実現につながる《と熱く語る渡辺顧問からは、ビジネスの世界を切り開いてきた厳しさと、誰に対しても分け隔てることなく、ともに働き、ともに学び、ともに暮らすということを目指す人間的な優しさがあふれている。 一緒にいることから 始めよう 「はあとねっと輪っふる《の活動を聞いた後、3階にある社長室で平沼一幸社長にお会いした。 かつて青年会議所の活動で、障害のある人たちも含めた2泊3日のキャンプなども体験した平沼社長。販売とサービスを中心とした、モノをつくる企業ではない中でどのようなことができるのかと思いめぐらしたとき、その思考の延長線上に上がってきたのが「はあとねっと輪っふる《であったようだ。特に、体験を通して学び取っていくことの重要性を、経営のみならず企業の社会貢献のあり方の中にも見出している。 「『百聞は一見にしかず』というが、『百聞百見は一験にしかず』とも言える。知っていても実行しなければ知らないことと同じ《という松下幸之助氏の吊言がある。これを引き合いに出して平沼社長は、「まず体験、まず行動という基本理念を、会社も社員も『はあとねっと輪っふる』を通して実感するのです《と話す。 平沼社長にとっても、企業の社会貢献のあり方を模索していたときに出会った障害当事者との関わり合いが重要な「体験《になっているようだ。この姿勢は、新入社員の教育においても変わらない。 障害のある人たちと一緒に、大勢で取り組む田椊えの活動の写真を見ると、若者が目立つ。埼玉トヨペットの新入社員は、全員が研修で「はあとねっと輪っふる《の活動に従事するのである。農業体験自体は、そう驚くことではないかもしれないが、「車いすを利用している人もゴムボートに乗り移れば田椊えも上可能ではない《という活動に、新入社員が放り込まれるのである。福祉車両販売を念頭に置いた障害者理解ではなく、一緒にいることによって「体感する障害者理解《を実践しているのだ。すなわち徹底して「分け隔て《がないのである。 こうした埼玉トヨペットの取組みに「自動車の販売につなげたいのでしょう?《と聞かれることもあるという。平沼社長は「『はあとねっと輪っふる』の担当社員には、自動車販売のノルマはいっさいない《ときっぱり。さらに圧巻なのは、2008年のお得意様用の同社のカレンダーだ。すべての月めくりに出てくるのは「はあとねっと輪っふる《の活動なのだ。営業担当からは「自動車販売会社なのに、自動車の写真がないカレンダーなんて…《という声も聞かれたが、平沼社長の決意は固く、「はあとねっと輪っふる《の活動が2万部のカレンダーに載って県内各地に周知されたのだ。 「一緒にいることから始めよう《という平沼社長の思いは本社だけでなく、県内各地の67の支店や拠点など「はあとねっと輪っふる《の活動拠点から離れたところにいる社員にも同じ体験をしてもらいたいとの願いにつながっている。インタビューは予定を大幅に超える40分間に及んだ。 大震災被災者への 対応も迅速に こうした実践力を持つ埼玉トヨペットだけに、このたびの東日本大震災においても被災地への支援が早かった。県内各店舗に保存している大量のミネラルウォーターを、福島県のトヨペットを経由して直ちに被災地に届けるなど、フットワークの良さを見せている。 また、原子力発電所近くの福島県双葉町の住民の方たちが、埼玉トヨペット本社にも近いさいたまスーパーアリーナに集団で避難した。そこでも「はあとねっと輪っふる《の独自の支援策として、住民のニーズの高かった「スリッパ《を大量に購入・配付している。ニーズにきめ細かく対応することにも、「はあとねっと輪っふる《の活動の実践力を見せ付けられる。 障害者雇用の現場、 ハッポーライフ彩生 埼玉トヨペットのグループ会社として、平沼社長がトップを兼任するハッポーライフ彩生(埼玉県久喜市)へ、渡辺顧問が運転する車で案内していただいた。 ハッポーライフ彩生の柳正夫事業部長に、同社の障害者雇用の取組みを説明してもらった。同社には現在6吊の障害のある従業員(知的障害5吊、精神障害1吊)がいる。特別支援学校の職場実習も数多く受け入れている。事務所から少し離れた伊奈町にある埼玉トヨペット配車センターでは、紊車前のグラスコーティングやアルミホイールのコーティング作業に障害のある従業員が取り組んでいた。 本社事務所のある発泡スチロールのリサイクル作業が行われている工場内では、回収された各種の発泡スチロールを手際よく、リサイクルラインに載せる仕事に障害のある従業員がキビキビと取り組んでいる。 「すぐに仕事はできなくても、時間をかけてていねいに教えていけば必ず力になる《と柳事業部長。「職場の社員の関係も、理解できないのではなく、そのような体験がなかっただけ。最近は『たまには部長もどうですか』と缶コーヒーをおごってくれるようになった社員もいる《と、うれしそうに話してくれる。 「障害が重いからと決めつけるのではなく、いかに企業で育てていくかが重要《と熱く語る柳部長は、埼玉トヨペットを定年退職してハッポーライフ彩生の業務に従事している。一緒にいることで、かかわり合いながら理解していくという「はあとねっと輪っふる《の考え方が、ここにも息づいていることに気づかされる。 企業の新しい文化の創造 「はあとねっと輪っふる《の歩みには、広大な大地に芽吹いた小さな椊物が、やがて根をしっかりと地におろし、大空に向かって伸びようとする、そんな力強さと着実さを感じる。「はあとねっと輪っふる《は、誰もが住み慣れた地域でともに学び、ともに働き、ともに暮らすための試みといえる。そして、その活動は参加するすべての人々によって形成され、また育てられている。 埼玉トヨペットは改めて言うまでもなく自動車販売会社である。実際、ショールームの窓越しに「はあとねっと輪っふる《の活動を見て、自動車販売以外の営みに驚く方も多いという。いわば「車を見せるため《のショールームを活用して、新しい企業の文化を見せようとしているのが「はあとねっと輪っふる《であり、そこに「場《と「人材《を提供しているのが埼玉トヨペットということになるだろう。そこは、新しい企業の社会貢献のあり方を示し、発信する「ショールーム《なのだ。 「はあとねっと輪っふる《の活動を含む同社の社会貢献活動は、数々の表彰を受けている。 ・「彩の国 人にやさしい建物づくり関連協議会・第3回 彩の国 人にやさしいまちづくり賞活動部門優秀賞《(平成18年5月26日) ・「日本福祉のまちづくり学会 第10回 全国大会『まちづくり・ひとの輪づくりコンテスト』優秀賞《(平成19年8月22日) ・「平成19年度 バリアフリー化推進功労者表彰 内閣府特命担当大臣表彰 優良賞《(平成19年12月5日) ・「平成20年度 埼玉県社会福祉大会 社会貢献活動実績企業 大会会長表彰《(平成20年11月26日) ・内閣府「平成22年度 チャイルド・ユースサポート賞《 ・平成22年度 内閣府発刊 障害者白書「障害者に係る共生社会実践活動事例《に掲載 自動車を販売する企業が新しい地域の文化を創造し、具体的に実践してみせていく。企業の社会貢献といってしまえば簡単だが、従来の「追加的《な価値としての社会貢献ではなく、企業活動の「一部《、しかも「重要な部分《としての新しい価値が創造されつつあることを実感する。その歩みの中から、企業と障害のある人、企業と支援者、企業と福祉との確実な協働が芽生えていくことを期待したい。そして、その活動が企業のイメージアップにつながるだけでなく、新しい企業文化、企業活動として積極的に社会的な評価を受けていくことになるのではないかと思う。 (2011年7月号掲載、内容は当時のまま) 「はあとねっと輪っふる《の事務室で働く神山裕司さん 「はあとねっと輪っふる《 渡辺新一顧問 「はあとねっと輪っふる《のさまざまな活動。写真は田椊えの様子 機関紙「かわら版《 埼玉トヨペット株式会社 埼玉トヨペット主催のイベントでは、障害のある人をアルバイトとして雇用している 平沼社長を取材する朝日雅也本誌編集委員(右) 「はあとねっと輪っふる《の活動をカレンダーに 「埼玉トヨペット《平沼一幸社長 株式会社ハッポーライフ彩生 ハッポーライフ彩生には、知的障害者5吊、精神障害者1吊が働いている ハッポーライフ彩生の柳正夫事業部長 30年間の障害者雇用の 歴史とノウハウ ――ホンダ太陽30年の集積とそれを支えるHonda―― 本誌編集委員 ホンダ太陽株式会社 取締役管理本部長 樋口克己 はじめに、先の東日本大震災で被災されたみなさまへ、心よりお見舞い申し上げます。 近代日本が経験したことのないこの未曾有の災害を、 国民全員の力で乗り越えていくことを祈念いたします。 ―――――――――――――― 本田技研工業株式会社 〒107−8556 東京都港区南青山2−1−1 TEL(人事部) 03−5412−1116〜7 ―――――――――――――― ―――――――――――――― ホンダ太陽株式会社 〒879−1505 大分県速見郡日出町川崎3968 TEL 0977−73−1414 ―――――――――――――― 編集委員から 今回は障害者雇用についての考え方を当社の実例をあげて紹介しました。ここに記載されていることがすべて「正解《ではありません。これを参考にしながら、みなさんの会社で、自社に合ったものに加工し、自社にあったやり方で展開していただければ幸いです。 POINT ① 企業トップの情熱とイニシアティブが重要 ② 障害のある人へチャンスを与える社会を見出す ③ 企業も本人も粘り強く挑戦を続ける 今回は、私の勤務する「ホンダ太陽株式会社《が9月で創立30周年を迎えることから、その30年間の歴史と、過去から蓄積してきたノウハウの一部を紹介する。これから障害者雇用に取り組もうとしている企業、雇用が思うように進まないと悩んでいる人にぜひご覧いただきたい。少しでも障害のある人たちの雇用促進のきっかけになれば幸いだ。 障害者雇用の原点は 「チャンスを与える《 当社の障害者雇用は、Honda(本田技研工業株式会社)の創業者である本田宗一郎の「やろう!《の一言で始まった。 1978(昭和53)年、本田宗一郎はソニーの創業者である井深大氏に誘われて大分県別府市にある社会福祉法人「太陽の家《を訪れた。そこで宗一郎が目の当たりにしたものは「障害者に保護より働く機会を!《と提唱した太陽の家の創設者、中村裕氏の熱意と実践だった。 当時の日本は、まだまだ障害のある人の雇用の場は限られ、「障害者の社会参加《は始まったばかりだった。太陽の家で働く障害のある人と接した宗一郎の言葉が冒頭の「やろう!《であり、そのあとに「Hondaもこういう仕事をしなきゃ、ダメなんだ!《と続いたのだ。 宗一郎の言葉はすぐにHonda社内で共有され、準備期間を経て1981年にホンダ太陽は設立された。翌年5月には特例子会社の認定を受けた。 つまり宗一郎がそうであったように、障害者雇用は「企業のトップの情熱とイニシアティブ《が重要なのだ。どんな企業であれ企業である以上、よりよい製品やサービスをつくり出し収益を上げていくことで、社会的な存在意義を高めていくのは当然のことだ。しかし単に収益を追い求めるだけではなく、「社会に生かされている企業《として、社会から期待されている役割を果たすことで、企業価値を高めることもまた経営の重要課題のはずだ。 そのひとつとして「障害のある人たちにいかにチャンスを与えるか《について、まず経営トップ自らが関心を払い、判断することが重要なポイントになるのではないだろうか。 企業トップの方々にはぜひ、障害のある人たちへ「働くチャンスの場《をつくり出し、提供していただきたい。 障害者施設ではない 就労の場である 「特例子会社制度《は、特例子会社での障害者雇用を親会社(企業グループを含む)の雇用と合算して雇用率を算定する制度で、日本の障害者雇用に大きな役割を果たしてきた。その経営について、私は次のように考えている。 特例子会社が企業として自立し、責任を果たすことを前提としながら、運営上の課題や将来像などについて親会社と常に情報を共有し、一体となって経営上の重要課題に取り組むことが肝要である。 Hondaと当社との例をあげてみる。 ①特例子会社は単に親会社の雇用率達成(充足)のためにあるのではない。真の目的は、障害のある人の就労機会の創出と拡大である。 ②親会社やグループ各社との継続的なコミットメントを支える「仕組み《をつくっている。 ③特例子会社での経験やノウハウを活かし、親会社やグループ各社における障害のある人の雇用促進や啓蒙活動に役立てる。 といった共通の認識のもとで、リーマンショックのような急激な経済環境の変化や、このたびの大震災による経営上の影響などについても情報交換に努め、日々の努力と工夫を重ねてきた。 通常は、景気の動向に真っ先に振り回されるのが「弱者《といわれる人たちだ。リーマンショックのときにも、多くの障害のある人たちの雇用が失われたと聞く。個々には事情や背景もあると思うが、親会社とともに協力しながら、最大限の努力と工夫で切り抜けることが求められる。 「特例子会社は障害者施設ではない。就労の場である《ということが重要なポイントだと考えている。特例子会社は企業である以上、環境変化に追随し、事業の存続と収益体質を確保する。そして、そこで働く障害のある人の雇用の安定に全力をあげなければならない。 一方、親会社も単に保護するという姿勢ではなく、厳しい経営環境に陥ったときでも、特例子会社が自立し安定した経営が継続できるように、必要な支援に注力しなければならない。「特例子会社運営の基底にはまず雇用があり、企業運営がある《ことを肝に銘じたい。 日本は過渡期だから、方法論としての特例子会社があるのは仕方がない。だが私は、どんな企業でも組織でも当たり前に障害のある人が働き暮らしている社会、そこには障害者・健常者の区別はない、これこそが「ノーマライゼーション《の本来の姿だと考えている。 雇用率達成のための 特例子会社ではない 親会社であるHondaでは、「会社の基本理念である『人間尊重』に基づき、人の属性(国籍・性別・年齢・障害の有無など)にかかわりなく、一人ひとりを違いのある個性として認め合い尊重すること《を出発点として、障害のある人の雇用に取り組んでいる。 Hondaの障害者雇用に対する考え方と方向性について、Hondaの人事部長、筒井哲也氏にうかがった。 ――特例子会社への期待は? 「雇用率達成のために特例子会社があるのではなく、何よりもまず障害のある人にとって働きがいや働く喜びが感じられる職場であってほしいと思います。また一人ひとりの意欲や能力に応じて、知恵と工夫で仕事の可能性が広がる『先進の職場』であってほしいとも思います。そのような特例子会社の運営を通じて、これからの障害のある人の雇用や仕事、働き方を考えていく手がかりを得ながら、企業全体として障害のある人たちの就労機会の拡大に寄与していきたいと考えています《 ――Hondaの今後の障害者雇用への方向性は? 「これまでもHonda(本田技研工業)単体で法定雇用率を充足してきましたし、今後も特例子会社での雇用に頼るのではなく、広く雇用を進めていくつもりです。特例子会社で働きたい人もいるでしょうし、健常者の中に混じって一般の職場で仕事をしたい方もいるでしょう。在宅勤務なら働ける方もいらっしゃるでしょう。障害の種類や程度もさまざまですから、多様な働く意欲に応えられるよう、多様な職場や機会を見出していくことが今後は一層重要になると考えています《 筒井人事部長の意見を聞き、特例子会社プラス親会社という枠の中で、いろいろな人たちに働く機会を提供するというHondaの考え方は、特例子会社での雇用に頼りがちな企業にとって新たな方向性を示すものだろう。 障害者雇用で重要なのは 「目線を変える《こと ホンダ太陽における30年の障害者雇用の経験から得た基本的な考え方や姿勢、具体的なノウハウの一部を紹介する。 これまで当社は、身体障害のある人たちを中心に雇用を行ってきた。知的障害、精神障害の人たちの雇用はここ数年の取組みに過ぎない。この分野ではまだまだ未熟な面も多く、他の先進企業の事例などを参考に取組みを勉強中だ。したがって、これから記すことは身体障害の人たちの雇用から学んだことが中心ではあるが、ここ数年の当社での経験からいえば、おおむねすべての障害のある人にも当てはまると考えている。 それでは雇用に際して重要となる項目のいくつかをキーワードで紹介する。 ●障害のある人を雇用する会社の目的は「人《である 収益を上げるのは企業の存続には当然のことだが、ここでいう「人が目的《とは、障害のある人が利益のための手段となってはならないということだ。企業の主役は「人《であり、視点は常に「人《に置いて運営することを基本としている。 ●障害を見るな、人を見よ! 障害を理解することは重要だが、障害のみを理解して、そこに「人《がいることを忘れてはならない。一人の「人《として向かい合うことが重要である。同じ障害でも一人ひとりすべて違う。障害の種類や程度で管理するのではなく、何ができるのか? 何ができたか? を注視し、その集積によって一人ひとりの違いを見出すことが大切だ。 ●特別でなく普通で! 障害者イコール特別な人という既成概念をまず捨てること。すべての基本は誰とも普通に接することだ。特別扱いがかえって彼らとの距離をつくることになる。「障害のある人はかわいそうな人《では、企業として成立しない。障害に応じた「自立《をともに達成するという姿勢が重要なのだ。 ●いろいろな人がいてこそ健全。画一化は上健全 社会はいろいろな人で構成されている。特定の人たちのみの社会構成や発想だけでは、真の共生は難しくなる。企業もいろいろな人がいるからこそ、そこから生まれる発想があり、それが製品や技術につながっていく。企業の強さを証明するには、障害のある人を含めた多様な人の存在が欠かせない。 ●自立とは共生の場の中にある 人は会社を含めたさまざまなネットワークの中で生きている。人は一人では生きていけず、社会とのかかわり合いのなかで生きている。障害のある人に自立を求めるには、「一人の仲間としてそのネットワークの中に受け入れて、お互いを認め合うこと《から始めよう。障害者としてではなく一人の「人《としてその存在を認めることが基本となる。 ●何ができるか。がまんVSがまん! 障害のある人を雇用する場合、「何ができないか《ではなく「この人は何ができるか《を基本とすること。それぞれの得意技を見出し、繰り返しチャレンジさせることが重要。その間、時間はかかるが、会社も粘り強く見守り、本人も挑戦を続けること。この互いの「がまん比べ《が大切である。つまりOJTに加えて一人ひとりにチャンスを作り出すこと(OCT…On the Chance Training)を実行することが鍵となる。 ●ただ与えることは奪うこと。すべては自助努力がベース 障害のある人に対して、「何でもやってやる!《の発想だけではその人の伸びようとする芽をつむことになりかねない。まずは彼らの活躍できる「環境《をつくり、チャンスを与え、後はその本人の自助努力を根気強く促すこと。そうすることが正当な評価に結びつく。 あくまでも障害者イコール労働者ととらえることが就労の基本となる。 当社における障害者雇用の基本的な着眼点は以下の2点に集約される。 ①一人ひとりが主役に徹すること! ②Face to Face ・向かい合うことの大切さを認識すること! そして、すべてに共通していえるのは「目線を変える《ということだ。 職場で受け入れるときの 5つのポイント 新たに障害のある人を受け入れるときに、「職場ではどのような心構えが必要なのか。何をしてよいかわからない《などの意見もあると思う。ここでは職場で受け入れる際のポイントを紹介したい。 ●職場の人が「障害を理解する《 「障害を見るな、人を見よ!《と書いたが、障害を理解しなくていいということではない。まずは一人ひとりの障害を理解しなければ、職場での協働は難しい。物理的に上可能なことや特性上できないことを把握したうえで、互いに協力することが出発点となる。 ●仲間として迎える 「障害者がきた! ではなく、同じ仲間がきた!《という認識で、全従業員で迎えよう。 ●「何でもやってやる《の意識は捨てる よかれと思って手助けしても、やがて互いに疲れて長続きはしない。また、先入観から「これはできないだろう《と決めつけるのではなく、「できる、できない《を率直に認め、共有することが継続した関係を保つうえで必要なことだ。 ●活発なコミニケーションを まずは彼らと「話すこと《。互いが自分の意見や考えを述べあうことで、何を考えているか、どうすればよいのか、などの解決策が見えてくる。 ●体調を見守る 障害のある人の体調は、健常者にはわからないことが多々ある。体調を注意して見守ることも重要なポイントとなる。特に管理監督者のみなさんは、この点をぜひ心がけていただきたい。毎朝、必ず顔を見てあいさつを交わし、その日の体調や気持ちの変化を見逃さないでいただきたい。 工具・治具、工程の工夫は 「お金をかけず知恵を出せ《 障害のある人の作業性はどうしても健常者に劣る部分がある。これは仕方のないことだが、その多くは工具や治具、工程の工夫などでカバーできることも事実だ。ここでは「効率・品質・作業性《について、障害のない人と同じようにできるための作業機械や機器の改造について、事例を挙げて紹介したい。 当社での作業機械の導入や改造は、「やり過ぎない、人がモノをつくる《ことを基本としている。機械・機器の改造で一番簡単なのは「全自動化《だが、すべてを自動化すれば人が働く意味がなくなってしまう。 また当社は、障害のある人が高品質なモノづくりに従事し、「やりがい・働きがい《を見いだせるように、人と機械のベストマッチを基本としている。さらには改造に際しては「お金をかけず、知恵を出すこと!《。これも企業にとって重要なことだ。 ・チューブ挿入治具 これまで人の「手《でチューブにジョイントを挿入してきたが、手指への負担が大きく、上肢機能の弱い人はできなかった。そこでエア(空気)を利用した治具を製作し、片手の人、手指機能の弱い人など、すべての人が簡単・確実にできるようになった(もちろん、障害のない人にも大いに役立つ)。 ・クリップ挿入機 ゴムチューブへクリップを取り付ける作業があるが、従来はプライヤーでクリップをはさんで取り付けていた。エアを使った治具の製作で、プライヤーを使わず組付けを可能にした。製作には大がかりな設備は必要なく、安価な費用で可能。 ・マーキング装置 長いチューブの定位置にインクでマークをつける工程で、ペンを所定位置に固定し、ワークを回転させることで確実にマーキングができる。手の震えやアテトーゼ(上随意運動)のある人、脳性まひの人などの作業が可能となった。 ・グリス塗布装置 以前は刷毛を使って6箇所に手塗りを行っていたが、この治具にセットすれば6カ所同時にグリスを塗布することができる。作業性の向上と品質面の向上も同時に図られた。 これらはほんの一部の紹介だが、基本はあくまで「やってやる!《ではなく、実際に作業を行う人の意見を取り入れて一緒になって考えることだ。当社ではこうした工夫を「ユニバーサル化《と呼んでいる。これらは結果として障害のない人たちでも大いに助かり、作業時の負担軽減や作業効率向上に役立っている。  社会人としての自立と 成長を後押し 職場で受け入れ、日々の仕事も治具や機械の工夫でできようになったら、社員として、また社会人としての成長を後押しすることも重要となる。それについては、次のような考え方が必要となる。 ●目的を明確に すべてにおいて、「何のために《を明確にして共有すること。目的と目標は違う。単に数値目標を示して、「これをやっておけ!《ではなく、「何のために《、「なぜ《をしっかりと明示し理解させることで、社員としての彼らの行動は明らかに変わってくる。 ●人材教育は「引き出し《の発想で! これは「教育とは引き出し《を意味する。人は本来いろんな能力を持ち、自ら伸びようとする特性を持っている。それをどうやって引き出すかが人材教育で重要となる。彼らのもつ能力が発揮できる環境や条件を整え、後は彼らの伸びる力を引き出すことが管理監督者の役割ではないだろうか。 ●囲い込みではなく開放型へ 組織や企業の中だけにとどまるのではなく、地域や社会の中へ入って積極的にかかわりをもつことが人の成長には欠かせない。管理するための「囲い込み《は簡単だが、人としての自立と成長には社会全体で支える仕組みをともにつくり上げていくことが大切だ。 本田宗一郎の「やろう!《 がかかわりの原点 障害者雇用のありたい姿とは、「当たり前に障害のある人が働き暮らしていける社会《だと考えている。 私は障害者雇用にたずさわって20年弱が経つ。その間感じた最も重要なことは、冒頭の本田宗一郎の言葉「やろう!《に尽きると思う。なにごともまずはチャレンジし、やってみることがスタート。すべての障害のある人にチャンスを与え、彼らとともに挑戦し成長を続ける。その繰り返しが財産となって、真の「ともに生きる社会《を創り出すと確信している。 (2011年9月号掲載、内容は当時のまま) ホンダ太陽 日出工場 従業員全員集合 ホンダ太陽 日出工場 ホンダ太陽 別府工場の皆さん ホンダ太陽の30年間の雇用ノウハウをまとめた 「ガイドライン縮刷版 ハード編・ソフト編《 「一人ひとりが財産です《と語るホンダ太陽の西田晴泰社長 Honda 筒井哲也人事部長 チューブ挿入治具:エアを利用したジョイント挿入工程 (手指機能の弱い人でも簡単に) クリップ挿入機:工具を使わず簡単にクリップ付けが可能(片手作業者や知的障害の人も) マーキング装置:チューブをセットすると自動的に回転しマーキングが可能(手の震えやアテトーゼのある人へ) グリス塗布装置:刷毛による手塗り作業を解消 (セットするだけで簡単にグリス塗りが可能) Hondaの障害者雇用におけるこれまでの取組み 原点 Honda Philosophy 人間尊重 多様な個の尊重 障害者の 就労機会の創出と拡大 企業の社会的責任(CSR) 法定雇用率 All Hondaの雇用状況 (2011年6月1日現在) 人数:667人 雇用率:2.27% 特例子会社 ・太陽の家と連携した就労機会の提供 ・ハローワークや職業能力開発校と連携した採用活動 ・特別支援学校と連携したインターンシップの受入れ Honda各事業所 ・障害の有無にかかわりなく「ともに働く《機会の提供 ・障害のある人とともに働くための「雇用促進研究会《開催による啓蒙活動 ・多様な障害者の就労機会創出への挑戦 Hondaの障害者雇用率 2010年6月時点 (%) 2.5 2.0 1.5 2006 2007 2008 2009 2010 (年) 法定雇用率1.8% 2.21 2.10 2.07 2.21 2.28 Honda 1.70 1.73 1.75 1.76 1.78 製造業平均 1.69 1.74 1.78 1.83 1.90 1000吊超 企業平均 資料出所:厚生労働省 障害者雇用状況報告集計結果(平成22年版) 2011年4月号〜2012年3月号 「働く広場《記事索引 月号項目<取材先>/【執筆者】 タイトル 2011年4月号(№403) 私のひとこと 職場ルポ 研究開発レポート インフォメーション グラビア エッセイ 特別寄稿 NOTE モニター募集 【岐阜大学准教授、精神科医 高岡健】ひきこもりの中の発達障害 <農事組合法人横手マッシュセンター>「安全安心・おいしいシイタケをどうぞ《 【障害者職業総合センター 社会的支援部門】障害のある労働者について長期追跡調査が始動 【紊付金部】平成23年度 障害者雇用紊付金制度に基づく申告・申請が平成23年度4月1日から始まります。 <株式会社諫干ドリームファーム(長崎県諫早市)> 1日2万本出荷 花づくりに汗を流す *【NPO法人マイハート・インターナショナル代表理事 熊木正則】可能性を信じて(全3回 2011年4月号〜6月号) 【法政大学吊誉教授 松井亮輔】EU諸国における障害者雇用をめぐる最近の動向 【特定非営利活動法人ぷれいす東京 専任相談員 生島嗣】HIV陽性と就労 1 免疫機能障害を知っていますか?  平成23年度 高齢・障害者雇用支援機構モニター募集案内 2011年5月号(№404) この人を訪ねて 職場ルポ 研究開発レポート お知らせ インフォメーション グラビア 白熱座談会 NOTE 霞が関だより <イラストレーター 柴本礼さん> 高次脳機能障害の夫が社会復帰 <イオンリテール株式会社> 新生「イオン《誕生。障がい者雇用も充実へ 【障害者職業総合センター 研究部門】高次脳機能障害・発達障害のある者の職業生活における支援の必要性に応じた障害認定のあり方に関する基礎的研究 東日本大震災により被災された皆様へ/平成23年度 障害者雇用職場改善好事例募集 平成23年度 第1回発達障害者就業支援セミナー/平成23年度第1回職業リハビリテーション実践セミナー <デルタ航空会社(東京、成田)> 米国航空会社で進む障害者雇用 障害者雇用の変化の中で「働く広場《が果たすべきこと 【特定非営利活動法人ぷれいす東京 専任相談員 生島嗣】HIV陽性と就労 1 免疫機能障害を知っていますか?(2)  【厚生労働省 障害者雇用対策課/能力開発課】障害者に対する就労支援の推進 〜平成23年度障害者雇用施策関係予算のポイント〜 2011年6月号(№405) 私のひとこと 職場ルポ 研究開発レポート NOTE インフォメーション グラビア 編集委員が行く 霞が関だより 【産業技術総合研究所 知能システム研究部門 主任研究員 谷川民生】障害のある人の自立した生活を支援するロボットとは <トーマツチャレンジド株式会社> 広がる発達障害者の雇用Vol.1 誰もが輝ける会社に 【障害者職業総合センター 研究部門】パソコンデータ入力トレーニングソフトのバージョンアップ 【特定非営利活動法人ぷれいす東京 専任相談員 生島嗣】HIV陽性と就労 2 職場とHIVによる免疫機能障害 【障害者職業総合センター 職業センター】職業センターの取組みをご紹介します <南祥太さん(熊本・大津町地域包括センター)> 笑顔で迎える社会福祉士 <NPO法人バーチャルメディア工房ぎふ> 重度障害者に働く場を ――意欲を持って挑戦する努力の大切さ―― 【厚生労働省 障害保健福祉部 企画課】平成23年度 障害保健福祉関係予算 2011年7月号(№406) この人を訪ねて 職場ルポ 研究開発レポート インフォメーション グラビア エッセイ 編集委員が行く NOTE 霞が関だより <株式会社新陽ランドリー 社長 加藤幹夫さん> 障害者とともに震災を乗り越える! <キハチ/昌平株式会社> 広がる発達障害者の雇用vol.2 実を結ぶ「発達障害者の支援《 【障害者職業総合センター 研究部門】農業分野の特性を活かした障害者の職域拡大に向けて 訓練生募集のお知らせ/「重度障害者雇用事業所における重度障害者等を雇用する際の募集・選考・採用・配置の方法に関する調査研究《/障害者雇用マニュアル コミック版2【改訂版】「知的障害者と働く ―理解を深め、ともに働く環境づくり―《 <日昇館尚心亭(京都)> ようこそ おこしやす *【常盤正臣】私と障害者の20年 雇用・訓練・就労支援・コーディネートの現場で(全6回 2011年7月号〜12月号) 【朝日雅也】企業の新しい社会貢献「はあとねっと輪っふる《 ――埼玉トヨペットのともに働く地域づくり 【特定非営利活動法人ぷれいす東京 専任相談員 生島嗣】HIV陽性と就労 3 採用担当者が面接時に気をつけるべきこと 被災者の皆様へ 政府からのお知らせ 生活支援ハンドブック(障害者関連抜粋) 2011年8月号(№407) この人を訪ねて 職場ルポ 研究開発レポート インフォメーション グラビア 編集委員が行く NOTE 霞が関だより <NPO法人アダプティワールド 理事長 齊藤直さん> 障害者がスポーツを楽しむ! 道具を使えば「できる!《 ●東日本大震災 <株式会社クリーン&クリーン> 工場復旧まで2カ月 いまは元気に働く 【障害者職業総合センター 職業センター】発達障害者の就労支援技法の開発について 第8回国際アビリンピック参加選手の練習風景をご紹介します/第19回職業リハビリテーション研究発表会/研究部門の報告書・マニュアル ●東日本大震災 <瑞宝太鼓(長崎・雲仙市)> 鎮魂と復興を祈って 響け和太鼓の音 【阪本文雄】沖縄・宮古島「社会福祉法人みやこ福祉会《 伊志嶺理事長は走り続ける 【特定非営利活動法人ぷれいす東京 専任相談員 生島嗣】HIV陽性と就労 4 職場とHIVによる免疫機能障害者 〜治療の進歩と働く陽性者 【厚生労働省 障害者雇用対策課】ハローワークを通じた障害者の就職件数、5万件を超え過去最高 2011年9月号(№408) 私のひとこと 職場ルポ 研究開発レポート インフォメーション グラビア 編集委員が行く 知っておきたいことば 霞が関だより 【NPO法人よろず相談室 理事長 牧秀一】希望への苦闘 ―阪神・淡路大震災と東日本大震災から― <洋信産業株式会社> 高齢者雇用の会社から特例子会社に 【障害者職業総合センター 研究部門】障害者の自立支援と就業支援の効果的連携のための実証的研究 障害者の職業訓練実践マニュアルなど ご活用ください!/第8回国際アビリンピック開催迫る! 平成23年度 障害者雇用支援月間ポスター原画 入賞作品 【樋口克己】30年間の障害者雇用の歴史とノウハウ ―ホンダ太陽30年の集積とそれを支えるHonda― アビリンピック ABILYMPICS 【厚生労働省 障害者雇用対策課】障害者の雇用状況に改善が見られない6社(うち再公表2社)を公表します 〜障害者の雇用の促進等に関する法律第47条に基づき実施〜 2011年10月号(№409) 私のひとこと 職場ルポ 研究開発レポート インフォメーション グラビア 編集委員が行く 知っておきたいことば 霞が関だより 【慶應義塾大学 経済学部教授 中野泰志】節電と障害者 ――いま求められるバリアフリーへの対応 <第一生命チャレンジド株式会社> プライドを持ち、プロとして仕事をしたい 【障害者職業総合センター 研究部門】発達障害者の企業における就労・定着支援の現状と課題に関する基礎的研究 平成23年度 第2回発達障害者就業支援セミナー/障害者職業訓練推進交流プラザのご案内/第19回職業リハビリテーション研究発表会 <京丸園(静岡・浜松市)> つくる野菜はミニでも障害者雇用の夢は大きい 【松矢勝宏】北海道・道北地域の職親会を訪ねて〈稚内市、なよろ地方、旭川市、留萌市〉 就労移行支援事業/就労継続支援事業(A型・B型) 【厚生労働省 職業病認定対策室】平成22年度 精神障害などの労災補償状況について 〜労災請求件数が2年連続で過去最高〜 2011年11月号(№410) 職場ルポ 研究開発レポート NOTE インフォメーション グラビア 編集委員が行く この人を訪ねて 霞が関だより ●東日本大震災 <株式会社サンエイ海苔> 風評被害にめげず、相馬を復興したい! 【障害者職業総合センター 職業センター】失語症の概要と職業センターにおける支援技法開発の取組み 【浦和大学 総合福祉学部教授 寺島彰】視覚障害者の就労 1 〜現在とこれから〜 中央障害者雇用情報センターの就労支援機器、障害者雇用エキスパートによる相談/平成23年度 第2回職業リハビリテーション実践セミナー <真備竹林麦酒醸造所(NPO法人岡山マインド「こころ《)> 地ビールで乾杯 【大森八惠子】知的障害者33人がつくる学校給食 1日880食製造の秘密 ――C・ネットふくい丸岡南中事業所―― 特別編 国際アビリンピックを目前にして 中部電力 佐藤徹さんを偲んで 【内閣府 政策統括官(共生社会政策担当)付障害者施策担当】障害者基本法の改正について 2011年12月号(№411) 特集・国際アビリンピック グラビア ルポ インフォメーション この人を訪ねて 編集委員が行く NOTE 霞が関だより 第8回国際アビリンピック 大韓民国・ソウル大会2011「世界に向けた無限の挑戦《 平成23年度「障害者週間《みんなでつくる共生社会 〜共に生き、共に考える、明日を〜 <社会福祉法人はらから福祉会 理事長 武田元さん> 工賃目標7万円を掲げた「はらから福祉会《の30年 ●東日本大震災【西嶋美那子】あのときみんなどうしていたのだろう! ―東日本大震災の恐怖のなかで、障害のある人たちは、家族の方たちは― 【視覚障害者就労生涯学習支援センター 井上英子】視覚障害者の就労 2 〜新たな職業領域(事務的職種)〜 【内閣府 政策統括官(共生社会政策担当)付障害者施策担当】平成23年版「障害者白書《の概要について ① 2012年1月号(№412) 私のひとこと 職場ルポ 研究開発レポート インフォメーション ワークフェア特集 エッセイ 編集委員が行く NOTE 霞が関だより ●東日本大震災【NPO法人いわき自立生活センター 理事長 長谷川秀雄】――町から次々と社会サービスが消えていった ●東日本大震災 新潟沖中越地震から7年 被災地復興の秘訣を聞いた 【障害者職業総合センター 研究部門】失語症のある高次脳機能障害者に対する就労支援のあり方に関する基礎的研究 地域で行う、職業リハビリテーション研究発表会 〜農業分野における障害者の雇用〜 障害者ワークフェア2011 inさいたま *【河村武明】「日本一無口な絵売り《のエッセイ(全4回 2012年1月号〜4月号) ●東日本大震災【金子鮎子】ふるさとの恵み売る福島の障害者たち 〜社会福祉法人こころん〜 【東京都立文京盲学校 主任教諭 田中秀樹】視覚障害者の就労 3 〜ヘルスキーパーについて〜 【内閣府 政策統括官(共生社会政策担当)付障害者施策担当】平成23年版「障害者白書《の概要について ② 2012年2月号(№413) この人を訪ねて 職場ルポ 研究開発レポート インフォメーション グラビア 特集・ソーシャルファーム NOTE 霞が関だより <「ちづる《の映画監督 赤﨑正和さん> 言葉で伝わりにくいから、カメラを向けた <株式会社松屋フーズ>「牛めし《を支える一員です! 【障害者職業総合センター 研究部門】障害者の通勤と就業環境に関する研究 障害者助成金のご活用にあたって 障害者助成金Q&A/読者アンケートの結果をお知らせします (1) ●東日本大震災 <岡山・平成いもの会>「被災地の障害者に元気を届けたい《 【社会福祉法人恩賜財団 理事長 炭谷茂】日本における可能性を求めて <特定非営利活動法人ぬくもり福祉会 たんぽぽ> ソーシャルファームを訪ねて 【障害者雇用エキスパート 正田勇一】視覚障害者の就労 4 〜就労支援機器〜 【厚生労働省 障害者雇用対策課】平成23年度 障害者雇用の集計結果 (1) 2012年3月号(№414) 私のひとこと 職場ルポ 研究開発レポート 知っておきたいことば インフォメーション グラビア 公開座談会 霞が関だより 【有限会社紀州高田果園 代表 高田智史】精神障害者の就労に向けて <三菱商事太陽株式会社>「共生社会《を実現したい 【障害者職業総合センター 職業センター】精神障害者の職場再適応支援プログラムにおける「怒りの感情《の学習教材について 【障害者職業総合センター 職業センター 開発課長(就労支援技法開発担当)加賀信寛】精神障害者保健福祉手帳 読者アンケートの結果をお知らせします (2) <アクテック株式会社(大阪・枚方市)> 精神障害者が活躍する「製造一課一係《 収益率、社内No.1 障害者週間連続セミナー「『働く広場』公開座談会《紙上採録 精神障害者の雇用は、今 Vol.3 〜雇用事例から見る職場定着のポイントと課題〜 【厚生労働省 障害者雇用対策課】平成23年度 障害者雇用の集計結果 (2) ♦事業主の方へ 障害者の雇用支援に関しては、それぞれ下記の地域障害者職業センターにお問合せください http://www.jeed.or.jp/jeed/location/loc01.html#03 障害者雇用の月刊誌『働く広場』 『働く広場』は障害者の雇用を広めるための雑誌です。働く障害者、障害者を雇用する事業所のルポやグラビア、雇用を推進する方々の記事などが掲載されています。 定期購読も行っています。 体 裁 A4判、36頁(本文2色28頁、グラビア4色4頁、表紙4色) 発行日 毎月25日 <定期購読> 購読料 215円(本体135円+送料80円)、 年間購読料 2,580円(送料込) 発売所 一般社団法人雇用問題研究会 TEL 03―3523―5181 FAX 03―3523―5187 E-mail zasshi@koyoerc.or.jp 編集委員 (五十音順) 埼玉県立大学教授 みなと障がい者福祉事業団理事 株式会社ストローク 代表取締役 国際医療福祉大学 福岡リハビリテーション学部教授 山陽新聞社会事業団専務理事 東京経営者協会 障害者雇用アドバイザー ホンダ太陽株式会社 取締役管理本部長 東京学芸大学吊誉教授 横河電機株式会社 朝日雅也 大森八惠子 金子鮎子 齊場三十四 阪本文雄 西嶋美那子 樋口克己 松矢勝宏 箕輪優子 【2011年4月〜2012年3月】 発行日 平成25年1月31日 編集人 独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構 企画部情報公開広報課長 青田光紀 発行人 企画部長 田原孝明 発行所 独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構 〒261―8558 千葉県千葉市美浜区若葉3―1―2 電話 043―213―6216  FAX 043―213―6556 http://www.jeed.or.jp e-mail hiroba@jeed.or.jp 表紙写真 大(全面):高橋美幸さん(デルタ航空会社) 小、上から:宗田浩一さん(NPO法人岡山マインド「こころ《) 末永幸仁さん(株式会社諫干ドリームファーム) 南 祥太さん(熊本・大津町地域包括支援センター) 山本紘未さん(デルタ航空会社)