江戸時代にもあった 「仕事と介護の両立問題」 江戸時代にもあった 〜目からウロコの高齢者介護史〜 文化・福祉ジャーナリスト ア井(さきい)将之(まさゆき) 第2回 江戸時代の介護休業制度である「看病断(かんびょうことわり)」とは? −日本史の教科書にも載せてほしい、日本が誇れる歴史の1ページ− 江戸時代における「介護休業制度」  現代日本における最先端の福祉制度との印象もある介護休業制度ですが、「じつは江戸時代の武士も介護休業を取得していた!」という話を前回しまして、その一例として「看病御暇(かんびょうおんいとま)申し立て」を受けつけていた秋田藩のケースを取り上げました。これは先進的な事例というわけではなく、同時代の幕藩でも積極的に行われていた制度・施策です。ですので、いまでいうビジネスケアラー(介護と仕事を両立させている人)のような「サムライケアラー」が、当時は数多くいたと考えられます。  じつは江戸幕府がはじまって間もない17世紀前期の段階から、幕府や藩は父母・妻子が病気になった場合に休みを取れるような取決めを定めてはいました。これは幕府・藩によって呼び名が変わるのですが、「看病断(かんびょうことわり)」、「看病願(かんびょうねがい)」、「看病引願(かんびょうびきねがい)」、「看病不参(かんびょうふさん)」などの名称が使われていたようです。  当初の制度においては、申請すればすぐ休暇が取得できるといった規則などは特になかったのですが、1742(寛保2)年に幕府がその内容を大きくブラッシュアップした取決めをあらためて成立させたことで、状況は大きく変わりました。この制度改正によって、父母・妻子の病気の際は無条件かつ即刻で休暇が取得できるようになったのです。祖父母や叔父伯母など親類については、病気の程度やほかに看護人がいないかどうかを吟味したうえで取得が認められました。この幕府の制度設計にならって各藩でも同様の施策が講じられ、申請すればすぐに介護休暇を取れるという仕組みが全国各地で導入されていったわけです。  現代の介護休業制度も、休みを取得できる介護の対象として認められているのは「常時介護を必要とする家族」であって、そこには父母や祖父母のみならず、配偶者や子ども、孫なども含まれます。しかし制度の現実的なあり方として、そこで想定されている介護対象とは……やはり「老親」がメインとなってくるでしょう。江戸時代当時もそのような側面があったようで、当時の日記・記録に、病気になった老親のケアをするために休暇取得の申請をしたというケースが多数見受けられます。前回の渋江(しぶえ)和光(まさみつ)の事例もそうでした。  ちなみに、看病断の制度が強化された1742年当時の江戸幕府の将軍は、ドラマ「暴れん坊将軍」でもおなじみの八代将軍の徳川吉宗(よしむね)です。吉宗とその幕閣は当時、いわゆる「享保(きょうほう)の改革」と呼ばれる幕政改革を推し進めていて、目安箱の設置とそこでの投書がきっかけで決定した小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)の設立、さらには町火消の導入など、公共政策的な取組みが多いことでも知られています。その改革期のかなり終わりごろに行われたのが、改正看病断制度の導入であったわけです。悲しいことに(?)、中学校や高校の歴史の教科書において「享保の改革の時期に、現在の介護休業制度に匹敵するような制度が定められた」といったことには、いまのところ、触れられてはいないようです。高齢化が進む現在、こうした制度が江戸時代にもあったという歴史を子どもたちが知ることは、意義深いような気もしますが……。 介護休業と儒教との関係  1742年という時期に看病断の制度が改正された背景要因としては、もちろん吉宗の意向あるいは人柄といったこともあったかもしれませんが、老親介護を想定しているという制度内容をふまえると、当時影響力を強めつつあった儒教の影響も考えられます。  それより少し前の時代になりますが、五代将軍綱吉(つなよし)は「孝」や「忠」の大切さを論じる儒教・朱子学を強く重んじ、幕府における一種の統治理念として掲げました。もともと初代将軍の家康も儒教に対して好感を持っていた側面がありましたが、綱吉は儒教・朱子学を教える学校である聖堂学問所(せいどうがくもんじょ)を1690(元禄3)年に設立するなど、その傾向をさらに強めたわけです。幕府による儒教・朱子学重視の姿勢は、綱吉以降の将軍の代になっても衰えることはなく、幕府のみならず全国の藩でも同様の傾向が広まっていき、藩校のような学校の設立が各地で急増していくようにもなります。  本格的に全国規模で藩校が乱立していくのは1700年代後半からで、改正看病断制度が導入されたのはそこに至る過渡期であり、儒教・朱子学の普及の度合いが高まりつつあった時期と重なります。「孝」すなわち親孝行の実践を奨励することにもつながる看病断の制度は、儒学の教えを武士に浸透させたい為政者側にとって、おあつらえ向きの内容であったわけです。  ではここで、より具体的に看病断についてイメージしていただくためにも、もう一つサムライケアラーの事例をご紹介しましょう。ご登場いただくのは、『水野(みずの)伊織(いおり)日記(にっき)』に実父の介護記録を記した沼津藩士・水野(みずの)重教(しげのり)です。日記は1862(文久2)年から、明治維新を経た1892(明治25)年までの出来事が記してありますが、幕末維新期の1866年の頁に、彼の実父である金沢八郎への介護についての記載があります。  それによると、父・八郎はそれまでも軽い中風(ちゅうふう)(脳卒中)で具合が悪くなったことはあったようなのですが、1866年の年末に体調が急に悪化し、年が明けたころからしゃっくり(吃逆)が止まらなくなります。現代においても珍しくない、終末期における難治性のしゃっくりが始まったのです。そして正月7日には、医師から「もう今回は手のほどこしようがない」といわれてしまいます。  正月7日に主治医から父の余命宣告を受けた重教は、最期のときまで世話をしなければならないと覚悟し、その翌日の8日に、藩に対して「看病引(かんびょうびき)」の申請をして、即日許可されます。秋田藩のケースでもそうでしたが、このあたりは本当に対応が速いです。日記にはその後、重教が兄弟三人でいっしょにケアを行ったこと、「小水」、「便」など下(しも)の世話もしたことなども具体的に記されています。父・八郎は辞世の句を詠むなど、武士らしい振る舞いをした後、2月5日に亡くなりました。  看病断(秋田藩では看病御暇、沼津藩では看病引)を申請して休みをもらっているという点では、前回みた渋江和光のケースとまったく同様です。申請してすぐに認められ、休みを取ってケアを行っています。ただこうしてあらためて両者のケースをみると、看病断とは別に、もう一つ重大な共通点があることにお気づきでしょうか。それは……ひとまず今回はここまでといたしましょう。 【参考資料】 ・ア井将之著『武士の介護休暇―日本は老いと介護にどう向き合ってきたか―』(河出書房新社)2024年 ・柳谷慶子著『日本史リブレット92江戸時代の老いと看取り』(山川出版社)2011年