第117回 高齢者に聞く生涯現役で働くとは  阪井洋之さん(66歳)は、IT関連企業でマーケティング戦略を中心に営業や事業開発分野の第一線を歩いてきた。退職後、IT人材の不足という社会的課題を見すえ、シニアの知見をIT業界に活かすため、会社を立ち上げた。つねに挑戦し続ける阪井さんが、生涯現役社会の未来を語る。 (写真提供:株式会社ナレッジピース) 株式会社ナレッジピース 代表取締役 阪井(さかい)洋之(ひろゆき)さん 時代を先駆ける現場で鍛えられて  私は三重県(みえけん)一志郡(いちしぐん)嬉野町(うれしのちょう)で産声を上げました。市町村の合併により、現在は松阪(まつさか)市となっています。県内の高校から大阪大学に進学、大学時代は下宿生活を謳歌しました。大学卒業後はマスメディア関係の仕事がしたくて、放送業界や新聞業界を目ざしました。しかし、こうした職種は当時から人気の高い職種で、就職を断念せざるを得ませんでした。就職留年しようかと迷っていた矢先、大学の学生課が富士通株式会社の二次募集を紹介してくれました。「とても伸び盛りの会社」だとすすめられるままに応募、幸い採用されました。以来、退職するまで、この会社とともに歩み続けました。  入社してシステムエンジニアの研修を受けてから、マーケティングや営業の部署に配属されました。その後、時代の波を受けて富士通がクラウドビジネスの本部を立ち上げることになり、その初代本部長としてクラウドビジネスの立ち上げにかかわりました。クラウドはIT導入のハードルを大きく引き下げましたので、IT活用が従来進んでいなかった分野に裾野を広げることになりました。私は農業や動物病院、訪問介護などの分野を担当したのですが、やりがいのある楽しい日々でした。  阪井さんはその後、経営戦略室長などを歴任して同社の執行役員を務める。「社会に勢いがあり、同年代が切磋琢磨して互いに成長できたよい時代でした。つねに新しいビジネスの先頭打者を任されて幸せでした」と笑顔を見せる。 仲間たちとの新たな旅立ち  富士通はスポーツにも力を入れていましたから私も富士通時代の最後は東京五輪・パラ五輪を含むスポーツ分野の担当になりました。ただ、コロナ禍の影響で私の部署も手持ち無沙汰になり、これが退職を決意するきっかけとなりました。  ただ、会社には感謝の念しかありません。いつも新しいことに挑戦させてもらえましたし、海外でのマーケティングも勉強させてもらい視野も広がり、太い人脈もできました。長年積み上げてきた経験を力に、新しく舵を切ることができたのだと思っています。  2020(令和2)年7月に退職、8月に株式会社ナレッジピースを設立しました。IT人材が慢性的に不足する社会状況のなかで、豊富な経験を持つシニア世代の活躍の場がないことを「もったいない」と感じたことが会社創業の出発点です。私自身に、まだ働き続けたいという気持ちがあったことも引き金となりました。  阪井さんは、2026年1月、創業6年目にして、東京都が主催する「地域に貢献!東京シニア創業者大賞」を受賞した。この賞はシニア創業の気運を高めるため優れた成果を収めたシニア創業者に贈られる。「賞を励みにします」との言葉に力がこもった。 シニアの経験が活きるITの世界  IT業界は慢性的な人手不足で、シニアにも人材ニーズがあることをまず強調したいと思います。もちろん、プログラマーのような仕事は生成AIにとってかわられる可能性がありますが、大きなシステムを構築する、あるいは再構築するときには過去のプロジェクトの経験が活きてくるのです。IT業界ではチームをまとめていくうえでプロジェクトマネジメントの経験がとても重要です。そこで私たちは、IT業界のシニア人材を、ITやデジタル部門で人材不足に悩む企業とマッチングさせるビジネスを立ち上げたのです。  最初に取り組んだのは、アドバイザー活動を行ってもらう会員の募集でした。当社の創業メンバー7人が手分けして有望な人材に声をかけ、創業時には40人の会員が集まりました。ちょうどコロナ禍だったので、オンラインでナレッジピースの理念を伝えました。「家にいるだけでは、ご家族に疎(うと)まれるだけですよ。あなたの経験を活かして一緒に楽しく働きましょう」などと参加を呼びかけました。  アドバイザーからは月5000円、年間6万円の会費をもらうことにした。「それだけの会費を取ってよく人が集まりますね」といわれることもあるが、シニアが活躍することの価値を感じてくれた人と一緒に働きたいという阪井さんの信念は揺らぐことがない。 「生涯現役」という希望  創業して6年、40人からスタートした会員は170人になりました。個人会員のうち半数は富士通の出身者ですが、40社以上の上場企業OBが在籍し、プロジェクトマネージャー、システムエンジニア、営業、マーケティングなど幅広いキャリアのメンバーが集結しています。  会員が自宅を離れて集える拠点づくりにも注力しました。それが当社の「日本橋サロン」です。心地よい環境に配慮してオフィスの内装はできるかぎり手づくりしました。昼間はシェアオフィスですが17時以降はサロンにかわり、お酒も飲めます。会員の居場所であり、社会との接点となっています。  個人会員の平均年齢は63.8歳ですが、賛助会員の企業は80社あり、そこには若いベンチャー企業の社長や女性経営者もいて交流を通じて新しい人脈が形成されつつあります。  私たちはおもに次の二つの側面の活動を展開しています。一つは、IT経験の豊富なシニア人材を集めて、相互交流や研鑽の場としてのコミュニティを運営し、企業へのアドバイザーとして活動する人材を増やすこと。もう一つは、一般企業からの案件や仕事を獲得し、最適なアドバイザーをマッチングすることです。売上げの大半は顧客からのリピートやアドバイザー会員からの紹介によるもので、おかげさまでクライアントは300社を超えました。  創業当初は顧客拡大に苦労しましたが、会員の人脈を活かし、企業訪問やオフィス兼サロンでの懇親を通じてていねいに対話を続けてきました。会員一人ひとりが自己研鑽の努力を続けていくために、セミナーや勉強会を頻繁に開いています。また、ともに働く仲間たちとのコミュニケーションを深めるために、俳句の会や日本橋歴史研究会、生成AI活用研究会などの「部活動」にも積極的に取り組んでいます。  くり返しになりますが、せっかく技術がありながら活躍の場がないシニアがいることはとてももったいないことであり、シニアの経験や知見を社会に役立てることが、豊かなIT社会を構築すると私は確信しています。  60歳でナレッジピースを創業し、現役時代より社会との接点が広がりました。平日に旅行やゴルフに行くなど、シニアに合った働き方も追求しています。創業以来いろいろなチャレンジをしてきましたが、これからも仲間と一緒にチャレンジすることが何よりも楽しみです。