エルダー2019年4月号
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2019.434上杉重定は、出で羽わ国(山形県)・米沢藩の八代目の藩主だ。上杉家は、謙信以来の名家だったが、関ケ原の合戦で徳川家康に敵対したため、それまでの石こく高だか百二十万石を一挙に三十万石に減らされた。その後も問題があって、さらに十五万石に減らされる。しかし、上杉家は名門の面目にかけて人員整理を絶対に行わなかった。百二十万石当時の定数をそのまま守り続けた。そのために、年々の予算に示す人件費の比率が実に八十パーセントになったこともあるという。明治維新まで赤字続きの貧乏藩だった。重定のとき、これを回復するために英明の噂が高かった高たか鍋なべ藩(宮崎県)秋月家の次男坊を養子にした。上杉家に入って「治はる憲のり」と名乗り、後に隠居して「鷹よう山ざん」と号する。重定は豪ごう邁まいな性格で、特に謡曲や能楽を好んだ。自分がハマっただけでなく、家臣にもしきりにすすめた。真っ赤っ赤な財政状況のなかで、殿様がそういう有様だから決して評判はよくない。それに加えて、幕府は米沢藩に〝お手伝い(公共事業のアゴアシ※1持ちの分担)〞を命じた。しかし、そのころの米沢地方は大飢饉の真最中で、農民も城下町の町民もしきりに一いっ揆きを企てた。重定はキレた。そしてついに、「領土を返上する」といい出した。明治維新に行われた「廃藩」を、この時期(宝暦年間・一七六〇年)に断行するというのである。家臣たちが諌かん止し※2し、また親戚の尾張藩主・徳川宗勝が止めた。やむを得ず、重定は治憲(鷹山)に家か督とくを譲り隠居した。重定はまだ四十七歳だった。治憲の改革は目覚ましかった。しかし次々と断行されるその内容は、保守的な米沢藩の重役たちの嫌うところで、ことごとく反対された。重役たちは、重定の性格を考え、「おそらく、大殿様(重定)もわれわれの考えに賛成のはずだ。われわれは、大殿様のお気持ちを忖度して、現主人(治憲)に反対するのだ」と思い込んでいた。あるとき、この保守的な重臣たちが七人集まって、突然治憲に意見状を出した。それは、「鷹山改革」に猛反対﹇第79 回﹈※1 アゴアシ……食費(アゴ)、交通費(アシ)のこと※2 諌止……いさめてやめさせること。部下からの命がけの忠告

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