エルダー2019年5月号
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2019.532[第80回]温和な二代目秀忠初代の家康と三代目の家光に挟まれて、二代目の秀忠は徳川将軍としては何となくその存在が薄れがちだ。しかし、秀忠は慶長10(1605)年に将軍になり、元和9(1623)年に家光に職を譲るまでの、足掛け19年間、そのポストにあった。現在の内閣総理大臣の任期である4年で考えれば5期勤めたことになる。かれの事績は、主に〝情による風潮の調整〞といっていい。荒々しい戦国気風の残存と、父・家康の急進的な平和国家への移行は、特に大名やその家臣たちの生き方を戸惑わせた。秀忠は自分の行いでその混迷を沈めた。かれは家康の側室西さい郷ごうの局つぼねが生んだ子だが、幼少年時代は乳母の手で育てられた。秀忠はこの乳母に〝大母〞という敬称をつけ、江戸城の大奥に一室を設けて暮らさせた。折にふれて訪ね、変わらぬ親愛ぶりを示した。大奥は春かす日がの局つぼねの支配によって女性の拠点となり、将軍の側室たちの競う場所になった。大母は次第に自分の居場所を失い居辛くなった。しかし大母には頼れる身寄りがいなかった。息子が一人いたが、若いときに無ぶ頼らいの仲間に入り、法に触れて八丈島に流されてしまった。秀忠は性格が温和で思いやりがあった。父が罰した大名や旗本をどれだけ救ったかわからない。家康が死んだ後は、特にこの救済に力を入れた。だから大母の息子についても、(いつか機を見て赦免してやろう)と思っていた。しかし、大母は

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