エルダー2019年5月号
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高齢者に聞く第 回医療法人社団真しん洋よう会かい天野歯科事務員静しずか 弘こう治じさん61 静 弘治さん(90歳)は、37歳のときに天野歯科に事務員として採用され、半世紀を超えて第一線で働き続けてきた。年齢とともに勤務形態を変えながら、いまは週2回の勤務をこなしている。職場に向かう緊張感が嬉しいと語る静さんに、生涯現役の日々を豊かに過ごす極意をうかがった。2019.534働きながら学んだ日々が原点に私は滋賀県蒲がも生う郡ぐん安あ土づち村(現・近おう江み八はち幡まん市安土町)で産声を上げました。家は農家で米をつくっていましたが、当時の農家は苦労が多く、父は自分の代で農家を終わらせようと、姉だけは農家に嫁いだものの、4人兄弟の誰一人も、農家を継げとはいわれませんでした。ただ、4人の息子のうち3人が兵隊に召集され、末っ子の私は、自然と父を手伝うようになりました。しかし、これからの世の中は学問が必要になるという父の教えに従って、彦ひこ根ね工業学校(現・彦根工業高等学校)機械科の定時制に進学しました。いまでこそ大した通学距離ではありませんが、当時は汽車しかなかったので通学時間がずいぶんかかりました。加えて、汽車はいつも乗客があふれかえっており、車内に入ることができず、デッキでずっと我慢したものです。午後2時ごろまで農作業を手伝ってから汽車に飛び乗り、授業を受けてまた汽車で戻る、その日々のくり返しでしたが、この経験で身についた根こん性じょうがその後の人生を支えてくれました。苦しい家計をやりくりして、私を学ばせてくれた父に感謝するばかりです。ところが、機械の勉強をしたにもかかわらず、私には税理士になりたいという夢がありました。結局、明治大学経営学部に入学し、東京都大田区に新居を構えた次兄宅に居い候そうろうしながら、大学に通わせてもらいました。後から知ったことですが、父が兄に頼んでくれていたそうです。父は、「子どもには農家を継がせない」という意志を貫き通しました。大田区はものづくりの町。朝鮮戦争の特需も加わって、静さんはさまざまなアルバイトをしながら大学に通った。戦地で使用した自動車を整備し、再び戦地へ送り返す仕事は工業学校で学んだ知識が役立った。就職難を乗り越えて大学は卒業したものの、戦争特需からの好景気が一転、世の中には失業者があふれ、未み曽ぞ有うの就職難の時代を迎えました。大学で学んだ知識を生かせる職場はなかなか見つからず、何とか知人を頼って運輸関係の会社に入社。結局、税理士になりたいという夢は叶いませんでした。その後、縁あって結婚が決まり、郷里に近い大阪に戻りますが、妻が一時期働いていた東京都日本橋にある天野歯科から「事務の仕事をしてみないか」と声をかけていただき、再び上京しました。まったく経験のない職種でしたが、創業者ご夫妻の人柄に惹かれ、働かせてもらうことに。そのとき私は37歳、それから半世紀が過ぎました。

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