エルダー2019年6月号
34/68

高齢者に聞く第 回公く文もん銀座書写教室指導者鳥と羽ば禮れい子こさん62 かつて美術や演劇の世界にもかかわってきた鳥羽禮子さん(82歳)は、書写教室の指導者として、いまも多忙な日々を送る。これまでの豊かな人生経験を活かし、ペン習字を指導することで社会貢献を目ざす鳥羽さんが、生涯現役で働き続ける喜びを語った。2019.632いまに生きる礼儀作法の教え私は東京都台東区浅草の生まれです。小学校に上がる前に父方の親戚を頼って長野県埴はに科しな郡ぐん坂さか城き町に疎開し、終戦後東京に戻ると、浅草の家は跡形もなく焼失していました。荒こう涼りょうとした風景を子ども心に覚えています。間借り生活を転々とくり返しながら、父が奔走したおかげで、また浅草で暮らせるようになりました。当時の大人たちはたいへん苦労したと思いますが、私にとって浅草は夢のような町でした。祖父に連れられて、大衆芸能の聖地である浅草六ろっ区くに通ったことを懐かしく思い出します。芝居好きが高じて、中学校を卒業すると、一世を風ふう靡びした松竹歌劇団(SKD)の試験を受け、難関を勝ち抜きましたが、厳格な両親の反対で諦めました。入団していたら、どんな人生が待っていたでしょうか。結局、高等学校に進学し、卒業するとしつけ教室で礼儀作法を学び、その後結婚という、当時の多くの女性がたどる道を私も歩くことになりました。夫の母は厳しい人でしたが、母に鍛えられたことが、いま人を教えるという現場で大いに役立っています。しつけ教室で学んだことも多く、経験には何ひとつ無駄がないと、あらためて思います。そして2人の息子に恵まれ、しばらくは専業主婦の時代が続きました。若くして結婚、夫の両親と同居し、良妻賢母の鳥羽さんに転機が訪れる。子どもに手がかからなくなり、「仕事をしたい」と周囲を1カ月粘って説得。35歳にして初めて働くことになり、生涯現役の道がスタートした。働くことの喜びに支えられ縁あって、ドイツ人の社長が経営するアクセサリー販売店でアルバイトとして働くことになりました。初めての仕事は楽しく充実した日々でした。そのうち正社員になるよう求められましたが、フルタイム勤務は困難なため退職しました。その後、五つの新劇劇団が合同で設立した俳優養成所の事務職員として採用されました。かつてSKDに憧れた私には、未来の俳優を目ざす人たちはとてもまぶしく思えたものです。事務職員として採用された私は経理を任されましたが、芸術家の集団は金銭面が大らかでした。経理の経験は、その後の仕事にも役立ちました。その後、著名な切り絵作家・宮みや田た雅まさ之ゆき先生をプロモートする会社に入社。そのころにはフルタイムで働ける家庭環境にあり、社長秘書の仕事に就きました。宮田先生の奥様が社長として宮田先生をプロモートされており、社長に徹底的に鍛えられました。宮田画伯は文豪・谷崎潤一郎の挿絵画家と

元のページ  ../index.html#34

このブックを見る