エルダー2019年7月号
40/68

2019.738「この対応は大久保にやらせろ」ということになる。大久保はそれほど有能だった。文ぶん久きゅう年間になると京都朝廷の勢いが強まり、公く家げの一部がしきりに攘じょう夷い論※2を唱えた。長州藩をはじめ、これに同ずる大名家もいくつかあった。そのころ大久保は「禁きん裏り付づき(朝廷付き)」という、幕府と朝廷の連絡役をやっていた。だから、過激な公家の意見がどんどん耳に入る。大久保はこのとき上司の一ひとつ橋ばし慶よし喜のぶや将軍家いえ茂もち(十四代)に、「攘夷などとてもできません。できないことをやれというのなら、いっている本人にやらせた方がよろしい。この際、大たい政せいを奉還して徳川家は一大名となり、朝廷や長州藩などに攘夷を実行してもらおうではありませんか」[第82回]直ちょく言げんで要職を何度もクビに大久保一翁は名を忠ただ寛ひろといって、家は三河以来の徳川家の臣だった。それも忠臣だ。代々、頑固一徹で正論を唱え、これに拘かかずらった。また、直言※1癖があって、そのためにしばしば役を免ぜられ冷や飯を食った。一翁もその先祖以来の習性を忠実に守っていた。だから、幕府では常に要職に就いたが、すぐ上役と喧嘩して免職された。そのたびにかれは、「やってられない。隠居する」といって、隠居した。ところがすぐ幕府から呼び出しがくる。幕末の幕府は、内外共に多た端たんを窮きわめ、一日として落ちつくことができなかった。かつて経験したことのない難題が次々と来る。その難題が訪れるたびに、首脳部は、※1 直言……遠慮せずに自分の考えをはっきりいうこと※2 攘夷論……幕末期に広まった、外国との通商を反対したり外国を撃退して鎖国を通そうとする排外思想

元のページ  ../index.html#40

このブックを見る