エルダー2019年7月号
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エルダー39京)に行って、銀行を開くつもりでいたから、これには賛同できなかった。複雑な思いで戻って来ると、待っていた大久保が渋沢を呼び出した。渋沢にとって大久保は旧上司になる。大久保はいった。「おまえの気持ちはよくわかる。しかし、いま旧幕臣の困窮をそのままにしてお前が東京に行けば、慶喜公が誤解を受ける。つまり、渋沢栄一というフランス帰りの人間を使って、慶喜は基金をつくろうとしている。その基金は、新政府に謀反を起こすものだ。そういう誤解を受けたら、慶喜公の立場がない。頼む。静岡に留まって、旧幕臣の失業者を全部救ってやってくれ。そのうえで、東京に出て思い通りの仕事をしてくれないか」渋沢も人情深い。大久保の言葉はよく理解できた。いつも、「決して、日本人の精神は忘れまい。特に、学んだ『論語』の精神を重んずる」という信念を持っていた。渋沢は、大久保の言葉にしたがった。このとき渋沢は、「フランスで学んだ株式の制度を、この静岡で実験してみよう」と思い立った。そして、失業武士のためにお茶の生産という事業を考えた。資金は徳川家の新領土で富裕な商人や農民から借りる。ただ借りるのではなく、茶の事業で利益を得たら、その一部を出資額に応じて配分するという方法だった。そのために静岡商法会所という組織をつくった。この事業は当たる。というのは、茶は開国した日本の売れ筋であり、輸出品の目玉だったからだ。生き糸いとと共に爆発的な人気を呼んでいた。静岡に群れていた失業者たちはたちまち救われた。この成功に大久保も満足した。(これでやっと隠居ができる)と思った。が、できなかった。東京府知事に任命されたからである。といって慶喜や家茂を困らせた。しかしこのときのかれの苦言は、幕府が倒れた後に実行される。すなわち、慶応三年の慶喜による大政奉還と、それに続く王政復古によって、徳川幕府は消滅してしまったからである。新政府は、徳川家に対して駿河・遠とおとうみ江(いずれも静岡県)・三河(愛知県東部)で、家の存続を認め七十万石を与えた。まさに、大久保が文久年間に主張していた通りになったのだ。大久保は、新設の静岡藩徳川家の家老になった。「徳川家が存続した」という噂を聞き、失業した旧幕臣がどっと静岡に押し掛けて来た。そして、再雇用を願った。しかし、四百万石か六百万石もあった収入が七十万石に減ったのだから、失業幕臣を全部抱えるわけにはいかない。大久保は弱った。このとき、パリの万国博覧会に出席していた慶喜の旧臣渋沢栄一が帰国してきた。慶喜が旧主人なので静岡へ挨拶に来た。栄一は、パリでナショナル銀行の頭取と仲良くなり、株式や資本主義の基本を学んできた。そして、日本にも最初の銀行をつくって、日本の財政を近代化しようと意気込んでいた。しかし、旧主人の慶喜は朝ちょう敵てきの汚名を着せられ、静岡の一寺院に謹慎していた。渋沢は慶喜のところに挨拶に行った。慶喜は渋沢の志を聞き賛同したが「その前に、頼みがある」といった。渋沢が頼みを聞くと、慶喜は、「手段は分からぬが、とにかく静岡に溢れている旧幕臣の生活を救ってやってくれ」といった。渋沢は、すぐ江戸(東渋沢栄一に失業幕臣の救済を委任

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