エルダー2019年8月号
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2019.834[第83回] 中川得楼は、旧幕時代はどこかの代官所の役人をしていたらしい。あまり過去は話さない。明治になって、一人息子が名医になった。 「医者は、病人を治すのが天から命ぜられた役割です」 といって、貧しい人々を中心に医業を行った。だから、必ずしも豊かな暮らしではなかった。そのなかで、本好きの父に対し、 「お父さんは、好きな本とつき合ってください。そのぐらいの費用は何とかしますから」 といってくれた。嬉しい申し出だ。得楼は、親孝行な息子をもったことを幸福に思っていた。そして、息子のいう通り本好きの彼は、本とだけつき合って生きていた。ところがあるとき、息子が死んでしまった。得楼は大いに悲しんだ。それは、自分が本とつき合う費用の負担者がいなくなったからではない。得楼は息子を誇りに思っていた。 (息子のような医者がいるかぎり、この国は大丈夫だ) と信じていたからである。しばらくの間、孤独になった身を悲しみ、息子の死を嘆なげいていたが、ある日突然猛然と得楼は心を固めた。 「わしは、本の医者になろう」 と思い立ったのである。名医だった息子はたしかに多くの人々の命を救い、また傷を治した。得楼は医者の資格はないし、またその方面の知識も技術も持っていない。人間相手の医者はできない。そこで、 「本を相手にする医者になろう」 と思い立ったのである。そうすれば死んだ息子も喜ぶだろうと思った。息子の死をきっかけに

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