エルダー2019年8月号
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エルダー35 本屋巡りがはじまった。多くの店を朝早くから歩いて回る。このころの得楼は、白い髭が長く美しい。右手には杖、左手に小さな信玄袋※を提さげて、頭ず巾きんをかぶって尻をはしょり、白い股もも引ひきを見せながら歩き回った。 「また得楼先生がやって来るぞ」 東京の本屋たちはそういって、警戒心を高めた。疾風のごとく得楼は本屋巡りをする。一日に、何十軒歩くかわからない。買った本は束にして終しまいには肩に担かついで家に帰って行く。そして、これからが得楼の、 〈本に対する医者ぶり〉 が行われる。 本屋で探すだけでなく、 「これをお願いしたい」 と個人で頼みにくる人の分も快く引き受けた。かれは仕事場を持っていて、そこ傷ついた本への愛情の机の引き出しには、庖ほう丁ちょう・鋏はさみ・錐きり・針・糸・へら・糊のり・糊のり板いた・尺しゃく・定じょう木ぎなどの道具が入っている。これがかれの本に対する治療器具だ。買ってきた本はほとんどが痛んでいた。虫が食ったものもあり、また綴とじ糸いとが切れているのもある。仮かり綴とじの本もある。また欠本部分を抱えている本もある。それを得楼は丹念に見て、手当てを施すのである。一人で、 「おまえは虫に食われたなあ、さぞかし痛かっただろう」 と呟つぶやく。綴糸が切れていれば、 「いま、糸を足して縫ってやるからな」 と、まるで人間の病人に対するような扱い方をした。仮綴の本には、表紙をつけた。欠本部分があれば、本屋に出かけて行って同じ品のなかから、欠けている部分を書写して戻ってくると、それを綴じ込んで完本にする。 こういう得楼の行動を見ていて、親しい人は、 「どうしてそんなに本を大事にするのだ?」 と訊いた。得楼は、 「わしの息子は医者だった。人々のために尽くす名医だった。それが死んでしまった。だから、わしは息子の心を自分の心として生きていきたい。相手は本だ。痛んだ本があれば、息子のようにすべて治してやりたい。時には、命も助けたい」 そう語った。世間には、読書家というのがいる。また蔵書家もいる。しかし、得楼のような場合には何といえばいいのだろう。世間は得楼を、 「愛書家」 と呼んだ。ただ、世間でいう愛書家は、本の修理などしない。得楼はむしろ、本の傷や患部に手当てを施し、完全なものにすることに力を注いでいた。だから、愛書家とはいっても、心の底からとことん本を愛している人物なのである。だれもが得楼と医者だった息子の親子関係の美しさを知っていた。したがって、得楼が本に対して手当てをする様子をからかう者はだれもいなかった。しかし、変わっているとは思われていた。 得楼は、1915(大正4)年5月に死ぬ。83歳だった。臨終の床には、多くの人々が見舞いに来た。 「得楼先生は、いろいろな知識を持っていたが、ご自分ではほとんど本を書かなかった」 と語り合った。それを聞きながら得楼は死の床でニコリと笑った。 得楼の本名は徳とく基もとだ。そういえば得楼の生涯はまさしく、 「徳を振りまくことを貫いてきた。特に本に対して愛を注いでいた」 ということをだれもが知っていたからである。※ 信玄袋……布製平底の手さげ袋で、口ひもを締めるようにしたもの

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