エルダー2019年8月号
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賃金計算を誤って行って少額の過払いが生じたとしても控除できず、退職時に調整することもできないなど、不便な場面が多く想定されます。そこで、「調整的相殺」については、許容するという考え方があります。最高裁昭和44年12月18日判決(福島県教組事件)において「適正な賃金の額を支払うための手段たる相殺は、同項但書によつて除外される場合にあたらなくても、その行使の時期、方法、金額等からみて労働者の経済生活の安定との関係上不当と認められないものであれば、同項の禁止するところではないと解するのが相当である」と判断し、①合理的に接着した時期に行われ、②あらかじめ労働者にそのことが予告される、または、その額が多額にわたらないなどの事情があれば、許容されるものと判断されました。したがって、通勤手当といった賃金の過払いと関連するような場合には、計算可能となった時期と接着した時期に実施するようにしたうえで、対象となる労働者に対してあらかじめ通知しておくことで、実施することが許容されると考えられます。ただし、返還を受けるべき額が高額にわたる場合には、労働者の経済生活の安定を脅かすおそれもありますので、通知しておくだけではなく、労働者の同意を得ておくなど、慎重な対応を行うべきでしょう。なお、類似の問題として、1カ月の賃金支払額の端数について、1000円未満の端数が生じた場合には、翌月の賃金支払日にくり越して支払うことが、全額払いの原則の例外として、行政解釈上許容されています。なお、この場合も、翌月という接着した時期にかぎり許容されている点は留意する必要があります。損害賠償と賃金の相殺について3調整的相殺において、許容されているのは、あくまでも賃金の過払いやその計算相違などによる齟そ齬ごを調整することであるため、使用者が、労働者に対して、不法行為や債務不履行により損害賠償請求権を有する場面を想定したものではありません。上記の判例においても、不法行為や債務不履行による損害賠償請求権との相殺を禁止した福島県教組事件判決と矛盾しない範囲で調整的相殺を許容したにすぎません。したがって、労働者の不注意で生じた事故のような不法行為に基づく損害賠償請求権との相殺は、いかに時期が接着していたとしても、許容されるわけではありません。このような場面において一方的な相殺は許容されないとしても、合意による相殺まで許容されないのかという点について、判断した判例があります。最高裁平成2年11月26日判決(日新製鋼事件)では、「労働者がその自由な意思に基づき右相殺に同意した場合においては、右同意が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは、右同意を得てした相殺は右規定に違反するものとはいえないものと解するのが相当である」と判断されており、合意による相殺は許容される余地があります。ただし、留意すべき点として、「労働者の自由な意思」に基づいていることが強調されており、通常の合意の成立とは異なる表現があえて用いられています。実際の事案においては、会社からの借入金の返済について退職金からの控除を実施できるかといった点が問題となっており、会社がさまざまな配慮を労働者にしたうえで、労働者も自発的に協力していたことを根拠に、「労働者の自由な意思」があったものと判断しており、相当に慎重に検討された結果でした。労働者による賃金の放棄と同様の基準が想定された判決となっており、労働者が自らの賃金を放棄してもよい、または相殺されてもよいと判断するような合理的な背景や理由があったことを使用者が立証できなければ、容易には「労働者の自由な意思」があったとは認められがたいといえます。労働者との間で相殺の合意書を作成するにあたっては、合意に至った理由や背景もふまえた記載を心がけるなど、その効力が無効とされないように留意する必要があります。エルダー49知っておきたい労働法AA&&Q

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