エルダー2019年9月号
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2019.932[第84回]徳川家康は、豊臣秀吉の大陸侵攻(明や朝鮮)に反対だった。そのため、肥ひ前ぜん(佐賀県)の名な護ご屋やに設けた本陣に出しゅっ仕しはしたが、家臣はほとんどいまでいう後期高齢者ばかりだった。数も少ない。ほかの大名たちはこれを見て、「徳川殿は、この戦に反対らしい。連れて来た軍勢も数が少なく、しかも老人ばかりだ。あれでは役に立たない」と囁ささやき合った。秀吉もそのことに気がついた。そこで家康にいった。「隠居したわしは、京都に別に城を造りたい。伏見がいいと思う。徳川殿にはすまぬが、その築城の指揮を執ってくれ」やる気のない家康を基地から追っぱらってしまおうという腹だ。家康は承知した。家康は、子どものころから学問に造ぞう詣けいが深い。しかし、体を鍛えるために武術にもいろいろと励んだ。剣術・槍そう術・馬術・水泳などは、それぞれ専門家について年をとっても修練し続けた。京都に戻った家康は、剣術で〝無刀〞に関心を持っていた。伊賀(三重県)の柳生の里に、柳生石舟斎と名乗る老練の剣術家がいることを聞いた。家康は石舟斎を招き、訊いた。「石舟斎殿の剣術に寄せる志こころざしとは?」石舟斎は答えた。「それがしの剣術は、人を殺すためではなく人を生かすためのものと心得ております」たちまち、家康は気に入った。「石舟斎殿は、無刀取りの達人とうかがったが、ひとつそれを見せてはくれぬか」「かしこまりました」無刀流を学ぶ家康

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