エルダー2019年12月号
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2019.1230[第87回]水戸黄門(徳川光圀)については、このシリーズでも時折登場してもらった。新ネタを見つけたので、ご紹介する。水戸黄門こと、水戸藩主の徳川光圀は、1690(元禄3)年の10月に隠居した。翌日、権ごん中ちゅう納な言ごんに任ぜられた。古代中国の唐では、中納言のことを「黄門」とも呼んだので、その習慣が日本にも採り入れられたのだ。隠居した光圀は、いまの茨城県太田市に隠居所を設け、〝西せい山ざん荘そう〞と名づけた。この地域は、旧主であった佐竹家を慕っていたので、勢い、徳川家にはあまり好感を持たなかった。光圀は、いわば一人で敵中に落らっ下か傘さん降下したのである。住民たちの気持ちを徳川家にも向けてもらうために、いろいろな工作をした。隠居所をここに設けたのもその一つで、やがて母親の墓をこの地に移す。また、かれの大事業であった『大日本史』の編へん纂さんもここで行うようにした。またかれ自身は、壁に九カ条の戒いましめを書いた。次のようなものだ。一 苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし一 主人と親とを無理なるものと思うこと一 子ほどに親を思え。子のない者は、子のある者を手本とせよ一 掟を恐れよ。火を恐れよ。分別のないことを恐れよ。恩を忘れるな一 欲と色と酒とを敵と知れ一 朝寝をするな。長話をするな一 小さなことにも気を配れ。大きなことに驚くな一 九分は足らず、十分は余ることと知れ一 分別は堪忍にあると知れ黄門様の悩み

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