エルダー2020年2月号
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高齢者に聞く第 回2020.234自分の力を信じて私は愛知県宝ほ飯い郡ぐん(現・豊とよ川かわ市し)で生まれました。両親が早逝し、小学校に上がったころから五つ違いの兄と2人で生きてきました。父の記憶はなく、思い出のなかの母はいつも病床にいました。幸い、家や田畑を遺してくれたので、兄と2人で農作業をし、親戚の力も借りながら高校まで郷里で過ごしました。高校を卒業すると、東京の代々木に住んでいる母方の伯母を頼りに、思い切って東京の大学に進みました。伯母には本当にお世話になりました。兄は私と違って優秀で、ある大手企業へ就職が決まりかけたのですが、面接で落とされてしまいました。当時は片親だと大手企業への就職がむずかしい時代。両親不在だとなおのことでした。悔しい思いをした兄は、私に「登、人を頼るな。自力で何か仕事を始めなさい」と強くすすめました。その言葉にしたがい、私は大学卒業後22歳で舞台制作の会社を起業しました。幸運にも、大学時代のアルバイト先の先輩が相談に乗ってくれたばかりか、資金面も援助してくれたのです。私は幼いころの不幸にとらわれ、世の中を斜めに見ていましたが、伯母や先輩のように手を差し伸べてくれる人がいたのです。人生は捨てたものではありません。自力で会社を興して波乱万丈の人生が始まるが、困ったときには必ず助けてくれる人が現れた。「私は後ろ向きな性格」と話す三浦さんだが、眼鏡の奥のやさしい目が輝く。華やかな世界に身を置いて起業してからしばらくは悪戦苦闘が続きますが、舞台やコンサートの制作という仕事は刺激的で充実していました。大学時代のアルバイト先が後楽園遊園地(現・東京ドーム)で、屋外劇場の企画などを担当させてもらいましたから、まったく未知の世界ではなく、アルバイトで学んだことが力になりました。当時、国内のサーカスとして人気の高かった木きの下したサーカスを後楽園に招しょう聘へいするお手伝いもさせてもらいました。狭い業界ですから、舞台監督の仕事などが口コミでぽつぽつと入ってくるようになりました。何の資格もなく始めましたが、照明の世界にも興味がわいて、日本照明家協会で研修を受け、ライセンスを取得しました。その後は少しずつ照明の仕事が増えていきました。照明マンとしての最初の舞台は、日劇ウエスタンカーニバルです。まだ日本ではあまり使用していなかった特殊照明を手がけ、ステージに登場する豪華な顔ぶれのスターの歌声に胸を熱くしました。思えば人より少し遅い、私の青春時代であったような気がします。テンポスバスターズ川口店パート従業員三浦 登のぼるさん70 三浦登さん(73歳)は、かつては舞台監督や照明マンとして華やかな世界に生き、いまは厨房機器リサイクル販売員として多忙な日々を過ごす。定年制を撤廃し、高齢者雇用を推進する会社で生涯現役を目ざす三浦さんが、働き続けることの喜びを語る。

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