エルダー2020年3月号
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エルダー31日本のはずれ(対馬)まで行って、曽良はなぜか考えが変わった。それは、「自分の目には見えなかったけれど、お師匠さま(芭蕉)の目には、本当に佐渡の上空に天の川が見えたのかもしれない」という考えが湧いてきた。そして曽良にとってそれは、「お師匠さまの見えない空に見えるところが、お師匠さまの凄すごいところなのだ。自分には到底追いつけない。まだまだ自分は未熟なのだ」という自覚である。これはそうかもしれない。すぐれた芸術家である芭蕉には、見えない処ところにも空を流れる天の川が確実に見えたのだ。つくりごとではない。それが芸術の精神だろう。おくのほそ道の旅に同行した曽良は、事実だけを追い求めてそういう芭蕉の高い心を理解できなかったのだ。そのために、芭蕉のつくる俳句に誇張や、虚構を感じ、正直にいえば嫌になって師匠を置き去りにしてしまったのだ。日本の端の島にいて、高齢になった曽良はようやくそのことに気づいた。それまでないがしろにしてきた師への礼を欠いたことなどを反省した。そして取り返しのつかない思いに胸をかきむしられたのである。だった。正確を期す。したがってこの〝おくのほそ道〞の旅でも、その日の天候や、地域の特性や、あるいは芭蕉の行動などを克明にメモした。ところが芭蕉が2、3年経って発表した〝おくのほそ道〞という紀行記は、必ずしも正確な旅の記録ではない。曽良が後に読んだかぎりでは、「先生の記述には、かなり誇張があり、あるいは全然違ったことが書かれている」と思えた。一番引っかかったのが、有名な、「荒海や 佐渡に横たふ 天の川」という句である。見えないものがなぜ見える曽良の記憶では、その日は雨が降っていた。そして、地元の物知りに訊いたかぎりでは、その宿泊地(寺泊)から見た佐渡の上空には、天の川は流れていない。つまり芭蕉は、雨で見えない空に天の川を見、しかも存在しない佐渡の上空にそれを見たのである。こういう虚構は、曽良が最も嫌うところだった。調査魔のかれは正確を期すから、やはり、「日々の出来事は、事実を大事にしなければならない」と思っていた。芭蕉と別れた後の曽良は、殊こと更さらに調査を重んずる仕事に取り組み、やがて幕府から九州の対馬地方の調査を命じられた。この件については、後に研究者たちが本当かどうか疑念を持っているが、従来の説に従っておく。

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