エルダー2020年4月号
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エルダー33門は決意した。それは、「寅次郎に塾を譲ろう」ということだ。実益的なことを考えれば、いまの経営のままの方がいい。しかし、五郎左衛門も時勢をよく知っていた。そして寅次郎が、思想として、「長州藩を改革したい。そして、長州藩の改革によってこの国(日本)を改革したい」と前々から熱心に主張していることを知っていた。五郎左衛門はその主張を正しいと思っている。実益だけを追求する保護者たちは、寅次郎を危険な考えの持ち主だと思っていたから、「久保先生、どうかそんな危ない考え方の甥御さんに塾を譲らないでください。先生がそのまま続けてください」と頼んだ。しかし五郎左衛門は首を横に振り、「いや、その考えは間違いだ。甥が教えることは、大きな意味でみなさんのお役にも立つ。藩のためにもなる。そして、一番大きいことはこの国のためになることだ」と告げた。保護者のなかには落胆し、あるいは怒って、子弟が塾に通うことを辞めさせる者もいた。ところが、若者には寅次郎の考えを支持し、大いに期待する者が沢たく山さんいた。だから、松下村塾に通う者は、辞める者よりも逆に増えた。五郎左衛門は、大きく安堵し、「これからは、隠居して釣りでも楽しもう。やっと楽になれる」と、家人に語った。五郎左衛門の甥の吉田寅次郎は、号を松陰という。〝松のかげ〞という意味だろう。急進的な考えを持つ松陰も、伯父・五郎左衛門に対する尊敬と恩の念は決して忘れなかったのである。「一体、だれがそんなことを教えるのですか?」と訊いた。五郎左衛門は、「わしの甥だ。吉田寅次郎に塾を預ける」と告げた。保護者たちは一斉に声をあげた。みんな、吉田寅次郎のことを知っていたからである。寅次郎は、最近まで藩の牢ろう屋やに入っていた。入れられた理由は、寅次郎がアメリカ船に頼んで、同地へ密航しようと企くわだてたためだ。そのため幕府の指示もあって、寅次郎は謹慎を命ぜられた。藩は怒って、寅次郎を牢屋に叩き込んでしまった。しかし、牢屋のなかで寅次郎は落ち込んではいなかった。同じ牢に入れられた人々のために、それぞれの得意とする和歌・俳句・学問・武技などを活かして、互いに教えっこをさせた。そのため地獄のような牢が、まるで幸福な屋敷になって、みんなはこの牢を「福堂」と呼んだ。何よりも感心したのが牢の責任者で、寅次郎に学問の講義を頼んだ。その講義が易やさしく、また為ためになるので囚人たちは喜んだ。牢の責任者は、「吉田寅次郎の講義は、この牢だけで聴くのはもったいない。もっと広く藩士や、城下町の人々に聴かせたい」と考えた。それには塾が必要だ。牢の責任者は寅次郎の父・杉百ゆ合り之の助すけに相談した。百合之助も喜んだ。そして、塾を新設はできないので、親戚の五郎左衛門のところに話を持ち込んだ。五郎左衛門は驚いた。突然の話なので、「ちょっと考えさせてください」といった。一晩考えた五郎左衛第二次松下村塾

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