エルダー2020年4月号
37/68

高齢者に聞くエルダー35若い人たちには話しています。東京工場に4年いて、その後、習なら志し野の工場に移りました。正直にいうと、せっかく憧れの東京に来たのに千葉県に行くのかと内心がっかりしました。そのころの習志野は、周りに何もありませんでしたから。地方の人間ほど「東京」という二文字にこだわるようです。郷里では決して恵まれた環境で育ってきたわけではないが、今野さんの話しぶりには常に他者への感謝が感じられる。入社のきっかけとなった人は現在も現場の第一線におり、「師匠と呼んでいます」と嬉しそうに語る。異例の抜擢で工場長に38歳まで研磨ひとすじでしたが、その後製造部や工程管理課にも配属され、2004年に習志野工場長に就任しました。高卒はもちろん大卒の従業員がたくさんいるなか、中学しか出ていない私が工場を束ねるのですから異例の抜擢です。工場の成果は会社の業績に直結しますから、身の引き締まる思いでした。ただ、これまで自分がやってきたことを続けていけばよいのだと思い直し、何よりもコミュニケーションを大切にし、風通しのよい職場づくりを目ざしました。工場長になると大好きな研磨の機械に触れる機会がなくなり、ときどき無性にいじりたくなったときは、若い従業員に頼んで触らせてもらいました。不思議なもので、研磨の機械のそばを歩いていると、15歳から慣れ親しんだ世界ですから、音を聴いただけで機械の不具合がわかります。若い人に指摘すると、とても驚かれました。研磨というのはNC※化が一番遅れているアナログの世界です。「見る、聴く、感じる」の三つを大切にしろと先輩に教わってきました。そのことをもっと若い人に伝えなければと思っています。工場長の後、今度は営業部長を拝命、工場しか知らない私が外の世界に出ることになりました。営業といっても技術営業で、お客さまと技術的な話をして営業担当者への道筋をつける仕事でした。実際にお客さまに出会えたのはよい経験になりましたし、営業の苦労もわかりました。営業部には2年、その後1年間、総務部へ。総務では人事労務を担当し、採用のための企業説明会にも出向きましたが、私たちのところへはだれも訪ねてこなかったということもありました。ものづくりの仕事は注目されながらもまだまだ3Kのイメージが残っていたのでしょう。体が続くかぎり生涯現役の道を2012年、また工場長に復帰しました。前年の東日本大震災の影響もあり、会社の業績が少し下がり始めたころで、1度目の就任とはまた違った緊張感がありました。それでも営業や総務畑をほんのわずかでも歩いたことで、他部門の苦労がわかりましたから、ものづくりは現場だけでなく多くの人たちに支えられていると思うと、厳しい局面でも乗り越える勇気が湧いてきました。東日本大震災の後に新しくなった会社のユニフォームには日の丸がデザインされていますが、これは日本のものづくりを全社一丸となってになっていこうという強い思いを反映しています。不思議なもので、日の丸をつけただけで気持ちが引き締まります。私は68歳になったいまも、朝8時から夕方4時45分まで正社員として働かせてもらっています。中学を出て右も左もわからなかった私を育ててくれた会社や先輩方には感謝しかありません。次の世代に私の知るかぎりのことを伝えていくことが恩返しだと思っています。おかげさまで体は頑健にできていて、いまのところ健康面での心配はありません。趣味はゴルフで、年に40ラウンドも回り、娘には呆れられています。先日、職場のみんなで野球をしないかという話が飛び出しました。何か新しいことをやるのは楽しいもので、いまからワクワクしています。健康で、働き続けることができるのは幸せなことです。今日以上に明日をよい日にできるよう、生涯現役の道をまだまだ歩き続けます。※ NC……数値制御(Numerical Control)によるデジタル化

元のページ  ../index.html#37

このブックを見る