エルダー2020年7月号
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特集スポーツと健康と高齢者エルダー9よきコーチ、よき仲間との出会いに支えられて―君原さんは、メキシコ五輪の銀メダルをはじめ、日本のスポーツ史に残る輝かしい実績を上げてこられました。これまでの競技生活のなかで、印象に残っているレースや出会いについてお聞かせください。君原 私は小さいころから勉強もスポーツもまったく駄目な劣等生でした。「自分は人より劣っている」という劣等感に陥り続けるなかで、だからこそ小さな努力をしなければいけないのだと自分に言い聞かせるような子どもでした。 中学2年生のとき、クラスメイトから「駅伝クラブ」への入部を誘われ、本格的に陸上を始めました。決して走ることが好きだったわけではなく、気が弱くて友人の誘いを断れなかっただけのことです。それでも自分の性に合っていたのか、高校に入ってからも陸上を続け、高校3年生のときにインターハイ(全国高等学校総合体育大会)の1500mに出場しました。もちろん予選敗退です。 これは後から知ったのですが、この大会の5000mに円つぶら谷や幸こう吉きちさん※1も出場していたそうです。私のランナー人生で大きな影響を受けた円谷さんと同じトラックを走っていたとは縁の深さを感じます。 高校の卒業直前に八や幡はた製鐵(現在の日本製鉄)に就職が決まり、幸運にも陸上競技に専門的に取り組める環境に恵まれました。そして、当時の高橋進すすむコーチとの出会いが私の人生を大きく変えたのです。いつしかマラソンという種目に興味を持つようになり、厳しい指導のもと練習を重ねました。21歳のとき「金かな栗くり杯朝日国際(現・福岡国際)マラソン」でフルマラソンに初挑戦し、2時間18分1秒8の日本記録をマークして3位に入賞しました。劣等感のかたまりのような自分でも「やればできるのだ」と自信が持てた、マラソン初挑戦のこのレースは、いまもはっきり覚えています。 翌年には「毎日マラソン」で初優勝、好成績を続けて出したことで、それまで自分とは別世界だと思っていたオリンピックが目の前に近づいてきました。最終選考会で優勝した私と、円谷さん、寺沢徹さん※2の3人が東京五輪の代表になりました。結果、私は8位でしたが、円谷さんが銅メダルを獲得しました。メインスタジアムの国立競技場に日の丸が揚がった光景は、ど小さな努力の積み重ねが大きな力になると信じ〝人生〞というマラソンに挑み続けるメキシコ五輪男子マラソン 銀メダリスト 君原健二さん 1964(昭和39)年東京五輪出場、1968年メキシコ五輪銀メダルなど、輝かしい実績を残すマラソンランナー・君原健二さん。1973年に競技の第一線からは身を引きましたが、79歳になったいまも走り続けている生涯現役のランナーです。今回は、君原さんの競技生活について振り返っていただくとともに、「人生100年時代」におけるスポーツのあり方について、お話をうかがいました。特別インタビュー※1 円谷幸吉……君原さんと同時期に活躍したマラソン選手。1964年東京五輪男子マラソンで銅メダルを獲得。1968年、27歳の若さで亡くなった※2 寺沢徹……君原さんと同時期に活躍したマラソン選手。1963年の別府大分毎日マラソンでは世界最高記録(当時)を更新。現役引退後は指導者として活躍

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