エルダー2020年7月号
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2020.710れほど日本人を勇気づけてくれたことでしょう。―初マラソンの挑戦から好成績を上げ続け、それが東京五輪出場、そしてメキシコ五輪での銀メダルにつながっていくわけですね。君原 初めて挑んだマラソンで日本最高記録を出せたのは、私が子どものころからイメージしてきた「努力の積み重ね」の結果ではないでしょうか。練習のときに「もう少しがんばってみよう」程度の努力を重ねてきただけのことです。それがベースにあったから、オリンピックという大きな目標を持つことができました。 東京五輪は体力がピークの状態で迎えることができましたが、競技とは心技体の総合力です。私の心の部分が弱かったことは否いなめません。円谷さんは自己記録を2分近く更新し3位に食い込み、私は自己記録に3分半およびませんでした。つまり、円谷さんが100%実力を出し切ったのに対し、私は存分に発揮できなかった。心が弱かった証です。 東京五輪の後、一時的に競技から離れましたが、翌年に復帰し、4年後のメキシコ五輪で銀メダル、ミュンヘン五輪は5位に入賞することできました。メキシコで2位に入れたのは周囲から期待されていなかったためプレッシャーから解放されていたこと、東京の経験を活かしてリラックスして走れたことが要因だと思います。心技体のなかでも「心」の持ちようが、その後のランナー人生の原動力となりました。だからこそ若くして亡くなった円谷さんのことを思うと悔しくてたまりません。もっと長く一緒に走り続け、走り終わった後に大好きなビールを飲みたかったです。 ミュンヘン五輪の翌年、32歳のときに競技の第一線から退きました。それまでに出場した35回のレースはすべて完走しました。もちろん走ることをやめようと思ったことはなく、年に数回はフルマラソンに出場しました。いまから4年前の75歳のときには、「ボストンマラソン」に出場しました。ボストンマラソンは25歳のときに優勝していますが、それから50年が経っていました。生涯通算74度目、最後のフルマラソンとなることから、30人を超える応援団が日本から駆けつけ声援を送ってくれました。ランナー冥みょう利りに尽きるというものです。人生は長いマラソン、生涯走り続けるために―少子高齢化が加速する一方で、健康寿命が伸びて高齢者の活躍の場は広がっています。このような時代におけるスポーツの役割はどこにあると考えられますか。君原 スポーツの大きな役割の一つが、「コミュニケーションを豊かにする」ということです。人は一人では生きていけません。互いに切せっ磋さ琢たく磨まし合う仲間づくりが大切です。スポーツの場合、ライバルの存在が自分を成長させてくれます。私にとっては円谷さんがそういう存在でした。円谷さんとは、遠征や合宿を通じて親しくさせてもらいました。東京五輪の本番2カ月前、私と円谷さんは札幌で合宿しました。まず、1万mの記録会に出場、3日後にフルマラソンを走り、さらにその4日後の1万mでは円谷さんが1位、私が2位、2人とも日本記録をマークしました。「円谷チーム」の4人と私で円まる山やま陸上競技場公園でたくさん飲んだビールは、本当きみはら・けんじ1941年生まれ。北九州市小倉の出身で、現在も北九州市在住。戦後のマラソン黄金時代を牽引したトップランナー。オリンピックに3大会連続出場を果たし、1968年のメキシコ五輪では銀メダルに輝いた。競技者として国内外のマラソン大会に35回出場し、毎日マラソン、ボストンマラソン、別府大分毎日マラソンなど13回の優勝を誇る。1973年に現役引退後は、九州女子短期大学教授、北九州市立大学の特任教授などを歴任。講演活動や市民マラソンへのゲスト出場など多忙な日々を送る。(写真提供:株式会社RIGHTS.)

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