エルダー2020年7月号
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2020.720ずむず、きりきりなど、表現のしかたもいろいろです。何を伝えようとしているのか、的確に把握し、理解することが求められます。さらに、足の状態、性格、考え方、足を失ったショックや不安な気持ち、体調、その日の天候などさまざまなことが影響するので、コミュニケーションをとり、その人の個性や特徴に合わせた義足をつくります。最も大事なことはそのための人間関係をつくる、ということでしょうか」偶然の出会いが重なって現在の職場で義肢装具士に臼井さんがこの仕事に就いたのは、28歳のとき。大学を中退後、なりたい職業が見つからずさまざまなアルバイトをして生活していたが、結婚を機に定職に就くことを決意。公共職業安定所に行くと職業訓練校で訓練生を募集していることを掲示板で知り、多彩な訓練コースのなかから「義肢科」に目がとまった。「『義肢』という文字を目にしたとき、小学校の先生への思いが瞬間的によみがえりました。6年生のとき、担任の先生が病気でしばらく休み、再び姿を見せた先生は『自分は義足になった』と教室でみんなに話してくれたんです。当時は義足を知りませんでしたし、想像もつかなかったのですが、先生が触れさせてくれて。そのときのことを思い出し、突き動かされるように、義肢コースで学ぼう、と思いました」ふつふつと湧いてくる思いを胸に職業訓練校へ足を運び、入学の準備を進めた。入学前に義肢製作の現場を見ておきたいとも思い、電話帳で調べた製作所に連絡したところ、小さな工房だったことから、見学するならもっと大きな職場がよいのではないかと、「東京身体障害者福祉センター」(現・義肢装具サポートセンター)を紹介してくれたうえ、同センターに連絡までしてくれたという。さっそく訪ねてみると、たまたま人員を募集していたことから職業訓練校には入学せず、そのまま同センターで働くことになった。「4月に見習いで入り、10月に本採用となりました。それから5年間実務経験を積み、国家資格を取得して多くの人と出会い、義足をつくってきました」いきなり入った職人の世界で、見よう見まねで仕事を覚え、臼井さんは力をつけていった。欧米のスポーツ用義足に衝撃を受けて独学で試作を重ね、アスリートに出会うスポーツ用義足とのかかわりは30年ほど前、欧米の義肢業界誌でパラリンピックに出場した義足の選手を紹介する記事を読んだことがきっかけになった。「こんな世界もあるんだ」と衝撃を受けて、さっそく海外から文献などを取り寄せてスポーツ用義足を試作した。1991(平成3)年には、陸上クラブ「ヘルスエンジェルス」(現在は「スタートラインTokyo」)を設立。「義足で走ってみたい人を募り、月に1回、練習会を続けてきました。4人からスタートして30年、いまはチビッ子から高齢の方まで229人の大きなクラブになりました」と明るい声で臼井さんは話す。スポーツ用義足の試作を重ねながらその成果を臼井さんは業界誌に発表し、その過程で得られたさまざまな選手との出会いが縁となって、2000年のパラリンピックシドニー大会では、日本人初の走り高跳び選手としてパラリンピックに出場した鈴木徹とおる選手に同行。当時20歳だった鈴木選手をパラリンピックの競技場で目にしたとき、遠目からでも緊張が伝わってきたそうだ。結果は6位入賞と善戦したが、本来の実力が発揮できず臼井さんも悔しい思いをしたという。しかし、パラリンピックの会場や世界中のトップ選手が集まっている迫力は想像以上で、「忘れられない思い出」と振り返る。次のパラリンピックアテネ大会(2004年)から臼井さんは公式に選手をサポートする一員となり、北京大会(2008年)、ロンドン大

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