エルダー2020年7月号
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2020.732[第92回]細川幽斎は何度も隠居した。かれの考えでは、「現職でいると、いろいろ仕し来きたりや建前があってやりたいことがやれない。隠居だと、現職の喧やかましい仕来りから逃れて、思うように仕事ができる」というものだった。最初にかれが隠居したのは(隠居といってもかれの場合は形式的なものではなく、心の持ち方をいう)、仕えていた第13代将軍足利義輝が三み好よし一族に殺されたときだ。このころは〝下克上(下が上に克かつ)〞という風潮が、地方から起こっていた。この風潮は日本全国に広まり、武士階級の権力関係が大きく変わった。下位にいた者が上位者のポストを奪い、その権力の座に座って、今度は自分がまた下の者に追われ、殺されたりする、ということをくり返していた。これが戦国時代を招くことになる。殺された将軍義輝には弟がいた。義秋(後に〝義昭〞)といい、奈良のお寺に入って修行していた。義輝を殺した下克上の実行者たちは義秋を狙った。「義輝の後を継ぐのは義秋だ」という見方があったからだ。幽斎はこのときにまず最初の隠居をした。つまり、「足利義輝の側近のままでいたら、それに縛られて思うようなことができない。一切を捨てて生まれ変わらなければ自分の志が遂げられない」と考えたからだ。当時かれはすでに、都では歌人として名を高めていた。かれが歌道に志したのは、決して世間の多くの人のように、「汚れたこの世から脱して、風主人を殺す下克上

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