エルダー2020年7月号
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エルダー33流の道を歩む」ということではない。「歌道の精神で、社会を眺める」ということだ。現実の生活から決して逃れようなどという考えはかれにはない。むしろ逆だった。「人々のためになる政治を行うためには、ときに権力を握らなければ何もできない」という考え方はかれも持っていた。クールな現実主義者なのである。この世の仕組みや、人に与えられる権力の存在をよく知っていた。かれは隠居するたびに主人を変える。そのために、「世渡り上手・生き方上手・世渡りの名人」などと悪口をいわれた。しかし、これは幽斎に対する誤解であって、幽斎にはまったく私利私欲はない。一度たりとも自分のために、幽斎の隠居の意味権力の座に座ろうなどとは思ったことはない。「文化に志し、その座に身を置く」という歌道の道を歩き続けている所ゆえん以だ。現在ではすでにだれにも得られない「古こ今きん伝でん授じゅ※1の資格」を得ている。つまりかれが歌道に志したのは、「この世における、一切の出世栄えい達たつ※2から身を遠ざける。権力亡者には決してならない」という覚悟があったからである。殺された将軍の弟、義秋を戴いて諸国を放浪した幽斎は、織田信長に巡り合う。明智光秀の紹介だ。光秀は天下に志し、織田信長こそそれを実現できる人物だと考え、いつか信長に接近したいと思っていた。それを幽斎がチャンスになる話を持ってきた。つまり、「足利義秋を次期将軍に推し立てる」ということだ。信長はこれに乗った。そして実現する。が、信長と義秋改め義昭との仲が悪くなり、信長はついに義昭を追放する。このとき幽斎はまた隠居した(もちろん心の隠居)。それは幽斎が考える天下(この世)は、やはり義昭でなく信長の方がはるかに民のことを考えていたからだ。そのかぎりでは、幽斎は譲らない。そのために、またこういわれた。「旧主人の立場が悪くなると、すぐ見捨てて次の権力者に阿おもねる風かざ見み鶏どりだ」しかし幽斎は腹の底に、自分で括くくった覚悟があるから何とも思わない。平気で信長に仕えた。その信長が明智光秀に殺された。光秀の娘は幽斎の息子、忠ただ興おきの嫁だ。信長の仲介に依る。このとき光秀は、「婿殿に、天下の半分を差し上げる。味方してほしい」といってきた。幽斎は、号は信長への弔意「武士は二君に仕えられぬ」といってことわった。そしてその証あかしに頭を剃って坊主頭になった。ここで幽斎はまた隠居した。そして本名の「藤孝」から号※3を「幽斎」と改めた。自分の現在の主人はあくまでも信長さまだという意思表示である。その志を高く評価した信長の後継者、豊臣秀吉が幽斎を召し出す。幽斎は秀吉に仕える。やがて秀吉が死ぬと関ケ原の合戦が起こり、徳川家康は石田三成と対立する。このとき、幽斎は家康に味方した。隠居の身で息子の忠興が城主だった城を守り抜く。石田勢1万5千がこれを囲む。しかし幽斎はわずか500の兵力で最後まで戦い抜く。見かねたときの天皇が仲裁人になる。それは、「幽斎が死ぬと、古今伝授の資格者が絶える」ということだった。歌道がこのときの幽斎を救ったのである。※1 古今伝授……古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えること※2 栄達……栄えある地位、身分に達すること※3 号……本名とは別に使用する名称

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