丁稚奉公制度は戦後すぐに廃止されたが、業界によっては根強く残っていたとのこと。我慢と辛抱の連続であったが、うどんづくりを一から教わったことには感謝している。我慢と辛抱を重ねて二人三脚で新たな出発第 75私は香川県大■川■郡(現さぬき市)に生まれました。農家の5人兄弟で、私は4番目です。中学校を卒業すると、兵庫県西■脇■市でうどん製造をしていた遠縁にあたる親方のもとへ修業に出ました。親方はさぬき出身で、手打ちうどんの経験も豊富でした。西脇市は播■州■織■の産地として有名ですが、縁あってうどん製造の道を選んだことが、その後長く働き続けることにつながりました。2年間は丁■稚■奉■公■のような毎日が続きました。朝4時に起床すると、まずうどんづくりを手伝い、その後自転車で町の食堂などにうどんを卸■すのが私のおもな仕事でした。中学を出たばかりの少年でしたから、朝早く起きることが一番つらかったです。また、支給された仕事着は自分で洗濯しなければならず、北風が吹くなか、冷たい井戸水で手洗いしていると、親のありがたみが身に沁■みてきました。何度も郷里に帰りたくなりましたが、旅費のあてもなく、とにかく辛抱の日々でした。初めて給金をもらったときは本当にうれしくて、ずっとほしかった洋服ダンスを月■賦■で買いました。このタンスは61歳になるまで私の手元にありました。同世代の人なら似た経験があるかと思いますが、我慢と辛抱を重ねたことが私の原点になっています。■■回■■■■■■■■■■■痢※が発生、親方が隔離されるという大事件の免許も取得。うどんづくりの意欲も高まり、やりがいのある毎日でした。しかし22歳のとき、学校給食に卸していたうどんが原因で赤が起きました。新聞やラジオでも報道され、小さな町を揺るがしましたが、幸い2週間ほどで親方は復帰しました。しかし、失った信用を取り戻すのには苦労しました。年という歳月が流れるなかで、将来について真剣に考えるようになりました。そろそろ所帯を持ちたいと思っていたころ、友人の紹介で現在の妻と知り合いました。親方も喜んでくれて、結納から新婚旅行までの一切の費用を出してくれました。いわばこれが「のれん分け」でした。に働きましたが、30歳のとき新天地を求めて神戸市三■■宮の天ぷらの店に移ることにしました。当時、三宮で和裁の仕事をしていた姉の紹介でしたが、そのころは珍しかった「お座結婚後もしばらくは親方のもとで夫婦一緒■■■パート従業員多■田■辰■■男■2020.840※ 赤痢……下痢や発熱、血便、腹痛などをともなう大腸感染症15歳で親方のもとで見習いを始めてから1018歳でバイクの免許を、21歳でオート三輪さん 多田辰男さん(80歳)は、うどん製造の経験を活かして、飲食業界ひとすじに歩いてきた。元気に働ける喜びを力に、80歳になるいまも現場に立ち続ける。どんなときも前向きな多田さんが生涯現役を目ざす心意気を語る。株式会社 平たいら 本店 かすが町市場高齢者に聞く
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