エルダー2020年8月号
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1年ほど体を休めた後、派遣社員として病院で配膳の仕事に就く。うどん業界に戻りたいと願うが、現実は厳しかった。それでも我慢と辛抱の人、多田さんはあきらめなかった。■■夢を叶■えるために元気に働けることに感謝して敷天ぷら」の店として名を馳■せており、寿司や会席料理の店舗も展開していました。私は生そばの専門店に配属され、そばづくりや天ぷらを一から勉強しました。一回りも年下の若者に怒鳴られながら仕事を覚えたものです。天ぷらは揚げる温度が命。閉店後に、残った油で何度も何度も揚げる練習をしたことを懐かしく思い出します。天ぷらをきれいに揚げられるようになると、どんどん仕事が楽しくなってきました。不思議なもので、自信が生まれると、それまでずっと夢に見てきたことが叶うような気がしてきたのです。そして、三人の子どもに恵まれたこともあり、自分の店を持ちたいという気持ちがどんどん強くなりました。店を立ち上げた友人に話を聞いたり、高松市内で工務店を営む義兄に相談したりと、着々と夢に向かって準備を進め、36歳で念願の店を高松市に持つことができました。資金は親や銀行から借りての出発でしたが、手打ちうどんをはじめ、生そばや天ぷらなど、それまでに身につけた技をフルに活かしての食事処は大いに繁盛し、4年で完済することができました。料理学校に通っていた妻は、巻きずしやいなりずしをつくって協力してくれました。高松の繁華街に近く、バーやスナックで飲んだ後に顔を出してくれる常連さんも増えました。店は深夜1時までの営業で、経営が軌道に乗るまで睡眠時間は2、3時間の日が半年以上続きました。多忙な両親に代わって、小学生の長女が弟と妹の面倒を見てくれましたが、参観日などの学校行事にも参加できず、子どもたちにはとても寂しい思いをさせてしまいました。多くの人に支えられ、開店から25年を迎えた年、長年の無理がたたったのか体調を崩し、断腸の思いで店を閉じることにしました。最後の日は大みそかでしたが、常連さんが花束を持って駆けつけてくれました。61歳のときのことです。ハローワークに通う日々のなかで、株式会社平本店が経営する、さぬきうどんの店「セルフうどんキリン」が職人を募集していることを知り、面接に出かけました。まずは1週間ほど仕事ぶりを見ましょうということになり、3日目に女■■将さんから「よかったら働いてみますか」と声をかけてもらいました。平本店は市内に8店舗を展開しており、どのお店もうどんはもちろん、豊富なメニューが大好評です。私はうどんの裁断をはじめ、さまざまな場面でこれまでの経験を活かす機会を得ました。67歳から8年間「セルフうどんキリン」で働き、その後系列店の「かすが町市場」に移り、現在に至っています。週間と診断されました。ついに年貢の納めどきかと思いましたが、女将さんが「早く治して復帰してください」とお見舞いにきてくれました。その言葉を励みにリハビリに努め、診断より1週間早く現場に戻ることができました。加齢とともに転倒事故が増えるとのこと。今後は一層気を引き締めて、けがをしないように心がけていきたいと思います。たい私の健康管理法は、朝一番にうがいをした後、コップ1杯の水を飲むことです。また、出勤1時間前には入念にストレッチを行い、仕事が終わる夕方には30分しっかり歩くようにしています。趣味は観葉植物づくりで、マンションのベランダで楽しんでいます。業界を歩き続けてきたことは私の誇りです。我慢と辛抱は、そのときはどんなにつらくても、いつか必ず花が咲くことを若い人に伝えたい。お客さまの笑顔を力に、明日も店に向かいます。昨年の暮れに転倒してひざを痛め、全治6会社が必要としてくれるかぎり、長く働き「うどん県」といわれる香川県で、うどん高齢者に聞く41エルダー

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